桃源夢寐-夙夜廻流伝-
狗柳星那
壱
仙界。それは人類の悲願である、不老長寿を遂げた仙人がいるとされる場所。
果てしない雲海の遥か下には、その世界を目指して生きる人間たちが暮らす、三つの地……
ひとつは
ひとつは
最後は
総じて、三國郷。天と地、そして大陸に溢れる自然、五行二元の原理で廻り繋がる世界は、修行を詰んだ何万もの道士によって円環の秩序を保っていた。
道士の主な務めは、世に蔓延る幽鬼を祓うこと。
「
蒼穹がこんなにも鮮やかなのは、太陽を燃やすために吹きかけた神の息吹が、青く澄み渡っていたからだ。
「“有為万象”」
この宙を守るために私は存在する──、暁蕾は手を振り上げながら、迫る黒い影に向かって呪禁を放った。
指先を離れて飛ぶのは変形した文字と摩訶不思議な記号が書き込まれた霊符。生き物のように蠢いて影に張り付くと、展開して法輪が現れた。
明るい日の下で回る不自然な輝きが影を羽交い締めにする。内側で藻掻くのは、全身が真っ黒に染まり、ところどころの皮膚が爛れ、関節があらぬ方向に曲がった幽鬼である。
「“無為滅却”」
別の声がもう一枚の霊符に力を与える。鬼に触れた途端、輪を貫くようにして虚空が展開した。頭や四肢が不気味な音を立てて曲がり、捻り、割れて、歪んで、そうして吸い込まれて、ぷつん……と消えた。
術が解け、展開していたそれらが元の紙に戻ると、やはり生き物のように飛んで主の手に収まった。
「助かったよ
振り向いた暁蕾の髪飾りがさらりと流れた。
天仙たらしめる泡に溶けそうな白い肌と、朝焼けを思わせる淡い青の瞳。故郷の伝統装束と道服が組み合わさった独特な装いは、軽やかに野を駆ける彼女によく似合っていた。
少し離れたところにいた男が霊符を持った手を上げた。
「ああ。早くここを出ようぜ。もう町が見えてる」
彼もまた変わった装束を身にまとっていた。黄昏の瞳と灰色がかった薄藍の髪は地仙の血を受け継ぐ一族の特徴である。精悍な顔立ちからは想像できない穏やかな口調で右手の景色を指し示す。
木々の間からは、整列する薄暗い家々が霧の海の上にぼんやりと浮かんでいた。
そしてそこは、二人が旅を初めて最初に辿り着いた場所でもあった。
「やっと……やっと人がいるところに」
「感動するのはこの後だ。町があるということは何がある?」
暁蕾の双眸がぎらりと欲望に光った。
「飯屋、よね!」
上陸して八日目。実に長い道のりを経て、ようやく最初の目標が達成された。道無き道を彷徨い、水と僅かな食料で食いつないで来た日々。飢えと渇きに内蔵を掻きむしられる苦痛に耐え、あらゆる苦労の末に見えてきた希望に、二人は最後の力を振り絞った。
競うように山を駆け下り、一気に町中へと飛び込む。
早朝の町並みは足元を漂う霧のせいか、全体が浅く彩られて夢現な様相を呈していた。どの建物も戸が固く閉ざされ、人っ子一人おらず静まり返っている。
しかし視線を巡らすと、たった一軒だけ、煙突から煙がすっと立ち上るお店があった。魅力的な香りが食欲を膨張させる。もう我慢ならない、と雪崩込むように中へ入った。
「すみませんどうか……どうか私たちに恵を……!」
「腹が減っておかしくなりそうなんだ!」
先程までの機敏な動きとは打って変わって、弱々しく床に這いつくばった二人は必死の形相で訴えかけた。可哀想なことに厨房でせっせと準備をしていた旦那は、その姿に鬼か乞食かと見紛って悲鳴を上げる。
幸い庶民とは思えない身なりのおかげですぐに追い出されずに済み、事情を説明すると快く即席で食事を提供してくれた。
「お前さんたちどっから来たんだい?」
粥をものすごい勢いで食べ始める彼らに若干引きつつ、旦那は尋ねた。
「な、そりゃ本当かい!?あそこから人が出てくるなんて聞いたことねえぞ!」
半信半疑なのは当然である。旦那の言うように地宵郷の民は一生を地中で過ごすことで知られ、陸との関わりは交易に限られており、大きな街でなければまず見かけない、珍しい存在だった。何も無い辺鄙な町に突然現れるなど、そんなことがあるのだろうかと疑ってしまう。
「ちょっと色々あって各地を巡ることにしたんだ。ああでも、朝っぱらから開いている店があってほんとによかった」
「計画もなく飛び出したせいで危うく死にかけたもんね……、おかわりください」
「あ、俺も」
ずいとお皿を差し出され、旦那はおずおずと受け取った。よそって渡しては求められ、またよそって渡してを繰り返し、粥だけでは物足りないだろうからと
無言で食べ続ける彼らを遠巻きに眺め、旦那は自然とこれまでの苦労を察した。若い男女がわざわざ故郷を離れ、苦しい思いをしてまでさすらう理由など一つしかない。
「愛の逃避行か……」
「違います」
「おっさん、アヒルの卵はないか?」
「そんなもの置いとらん!」
所詮は金持ちのボンボンか、と旦那はスープや麺を作ってテーブルに置いた。なんだかんだ美味しそうに食らいつく若者の食欲旺盛っぷりに絆されていた。
しばらくして満腹になった二人は、周辺の土地について詳しく話を聞くことにした。
「
「六州全てを回る予定なの。私たちは道士だから、務めとして穢れをお祓いをして、大陸全体を浄めに行くの。ほら、この辺も最近鬼が増えたりしてない?霊脈の乱れが幽鬼の活動を活発化させてるから、どこもかしこも被害が出てるって聞いてるよ」
幽鬼は人が亡くなった際に、肉体にある魄に募った穢れと混合することで生まれる鬼である。
人間として生まれたからには死は避けられぬ運命。そのため人々はその生涯を清く正しく生きることに費やし、穢れを溜め込まないよう日々励むのである。しかしそれでも、一切の穢れを含まず死ねる者は極わずか。かくして幽鬼は現世を蔓延り、生前の徳により無害にも有害にもなり得るのだ。
「いいや、全く。もう何年も見てない」
おや、と二人は疑問符を浮かべた。
つい先程山で幽鬼と戦ったばかりだ。
たった一匹だったが、それだけではない。
「霊域がほとんどないのに、何年も?」
「道士たちがよくお祓いしてくれてるのか?」
立て続けに来る質問に旦那は押され気味になる。
「いやあなんと言うか、よくわからんがここには道士はいない。廟はあるけどな、もう古くて誰も使っちゃいねえ」
ますます疑問が深まり、暁蕾は思わず呟く。
「どういうこと……?」
旦那も一緒になって首を傾げた。彼は一介の飯屋の主人なのだから、意図を汲み答えを出せないのは仕方のないこと。数秒の沈黙の後、淵が口を開いた。
「おっさん、その廟ってどこにあるんだ?」
「え、ああ、この通りの裏に回った隅のほうに」
「よし、行ってみるか」
「うん」
二人の間で何かが決まり、最後のひと皿を食べ終えると席を立った。
「代金ここに置いておくから」
「ご馳走様でした!」
颯爽と店を後にし、テーブルには大量に積まれた皿だけが残った。嵐の後の静けさに、旦那は頭を搔く。
「俺、何か余計なこと言ったか……?」
しまった、おやつに
「包子?いいな。後で買いに行こう。限界生活を送っていたからお金は有り余ってるしな」
「そして今日はちゃんといい宿を取って、柔らかいベッドの上で寝るの。もう野宿は懲り懲りよ」
「君は雲の上で寝てなかったか?」
「何言ってるの。素材が違うでしょ」
「そんなわかるだろって顔で言われても……。まあ今夜は久しぶりにいい夢が見れそうだな」
淵も朝食に満足した様子だった。これでも彼らは出会って日も浅かったが、食を重んじるところは唯一の共通点として認識していた。死にかけてもどうにか生きて来れたのはその心の活力があったこそである。
霧はまだ薄まる気配はなく、ただでさえ薄暗い祠廟は夢に迷い込んでしまっかのような幻想的な仄暗さを演出していた。入口までの道は草が刈られているが、その周りはたっぷりと茂っていて、管理が行き届いていないのは一目でわかった。
信じられない、と暁蕾は思った。
この世は神を祀ることは生きることと同義である。なぜなら信仰は神の守護の力を高め、その地域一帯に作られる結界で人々は幽鬼から守られるからだ。どの地でも必ず崇め奉るものがあるのはそういうこと。神は生きる道標であり、己を生かす手段なのだ。
しかしここはあまりにも寂れていて、恭敬の欠片もない有り様だった。
世間では普通とされていることが成されていない。少なくとも異例の事態であるのは明らかだった。
「変なところに来ちゃったみたいだね」
「そうだな」
恐る恐る中に入って見渡すと、ところどころが欠けた柱の上には蜘蛛の巣。壁には虫が這い、床には砂埃が散っていた。想像以上に長く使われていないようだ。
そこで、湿気た空気に混じって線香の香りが鼻先を掠めた。奥に飾られた像が曇りなき輝きを放ってひっそりと立っている。
手前には放置された線香の束があった。これだけ比較的新しいものだ。
「誰か来てるのかな」
ひとまず火をつけて祈りを捧げた。
「内側に入ってやっと霊域の名残りが感じられるくらい。これで幽鬼が来ないなんて有り得る?」
「隅から隅まで信仰が行き渡るものじゃないとしても、だ。寄り付きもしないのはおかしいな」
「鬼は確かにいたのに」
通常はいるはずの道士もいないとなると、いよいよ事態が謎めいてくる。幽鬼はどこにでもいるものではない。しかし一匹いるところに穢れはあり、穢れはさらなる幽鬼を呼び寄せる原因となる。あの山の深くはとっくに鬼の巣窟になっているはずだ。
なのにこの町は何に守られていると言うのだろう?
「鬼がいただって?」
嗄れた声に、暁蕾はびくりと振り返った。
入口には箒を片手に佇む華奢な人影があった。きつくまとめ上げた白髪にゆったりとした道服を来た老婆である。
「廟祝さん、ですか?」
香火を司り、参拝客のために祈祷する人のことである。
「そんな大層なもんじゃないよ。ここを管理しているのはあたしだけしかいないのさ。みんな神さまを見捨てちまったからね」
諦念を帯びた口調で言うと、老婆は毎日そうするように腰を曲げ、床を掃き始めた。背中を向けたまま続ける。
「それより今、鬼が出たと言ったね。本当なのかい」
「はい。ついさっき、山で」
「そのことを他の誰かに喋ったかい?」
「……いえ」
「話したら駄目なのか?」
「騒ぎになったら大変だろう。下手に触れ回るんじゃないよ」
言ってることはもっともだが、何か引っかかるものがあった。
「お婆さんは冷静なんだな。幽鬼が怖くないのか」
「そりゃ恐ろしいさ。あれは人を食う。死んだ人間が生きた人間を襲って仲間にしようとしてるんだ。とんでもないことだよ。あたしもああはなりたくないからこうして徳を詰んでいるのさ」
磨かれた像も、真新しい香も、形だけでも廟が保たれているのは彼女のおかげか。
「でも幽鬼が降りて来たことはないんだろ?」
「あるにはある。けど昔のことだ」
暁蕾も問う。
「昔は来てたのに来なくなったんですか?」
「余所者があまり詮索するもんじゃないよ」
「私たちは道士です。幽鬼が出た以上、安全のために町を調べないといけないんです」
「……道士?そのなりでかい」
目を丸くして老婆は頭からつま先まで二人を眺める。典型的な道服とはだいぶ異なる衣装だからか、言われるまで気づかなかったらしい。いやあ、と暁蕾は照れた。
「生まれが特殊なもので……」
「若者が。道士を舐めるんじゃないよ」
聞き捨てならない台詞に、思わず噛み付く。
「舐めてません!私は生まれた頃から修行して術もたくさん使えるし霊符も書けるし誰よりも多くの幽鬼を祓って来たんです!何よりも天帝を尊敬して育って……!」
「どうどう」
天晨郷出身の彼女は、その生まれにコンプレックスを抱きながらも自尊心に相応しい実力を持ち合わせ、齢十七の若さで霊力を高めて大成したのは並ならぬ努力の賜物だった。背景を知らないとはいえ、誇りは譲れない。
「そうか、立派な道士さまだったというわけか。悪かったよ」
存外に納得した老婆は香炉に立った線香に視線を向けていた。
もう何年も人が訪れず誰も近寄ろうとしなかった神前に二本、その余所者が丁寧に捧げてくれていたものが立っていた。
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