非通知着信

岩須もがな

おまえもこの山においで


 兄から電話がかかってくる。


 だいたい週に二、三回、たいてい夜の十時から十一時の間。眠くなる頃、くつろいだ気分を妨げるようにして家の固定電話が鳴る。非通知表示で、俺が出るまで鳴っている。


 電話を丸ごと捨ててしまいたかったが、そうすると携帯のほうにかかってきそうで嫌なので、そのままにしておいた。


 電話の用件はわからない。しつこくかけてくるくせに兄は何も話さないからだ。もしくは話せないのかもしれない。兄のことは昔からよくわからなかった。



 ──薄暗い家に一人。味気ない飯。ぬるいシャワー。壁と床にずらりと並んだ家族の写真は無言で俺を見ているばかり。

 俺は、つまらない仕事をしては何もない家に帰り、一人で静かに暮らしている。


 こんな静かに暮らしているのに電話が鳴る。


 兄からの電話、電話、電話。


 電話の呼び出し音が、なんだか四六時中鳴っているように感じる。




 兄から電話がかかってくる。


 出るまで鳴り続けるので、出る。しかしいざ受話器を耳に当てると声はしない。がさがさ鳴ったり、どんどん叩いたり、いろいろと音がして、少しすると勝手に切れる。

 兄は電話をかけるのが下手なのだろうか? この不気味な電話以前には兄から電話をもらったことがないので、わからない。



 兄から電話がかかってくる。


 通話時間は一分もないのだが、意味不明な物音を聞き続けるのは苦痛だ。受話器を取って、そのまま耳に当てずに置きっぱなしにして逃げようとしたら、またコール音が鳴り出した。ちゃんと聞かないとだめらしい。



 兄から電話がかかってくる。


 本当に兄かどうか、はっきりと確証はないのだが、こんなにしつこく俺に電話をかけてくるのは、たぶん兄だと思う。



 兄から電話がかかってくる。


 受話器の向こうで砂嵐が鳴っている。海の波が鳴っている。時折、何か潰れたような汚い水音や、ノイズが圧縮されたようなグロテスクな音がする。

 機械の故障でないことはわかっている。電話線はもう抜いてあるからだ。



 兄から電話がかかってくる。


 えんえんと雑音が騒ぐ中に、確かに人の声が混じるようになった。兄の声だという気がする。でも意味のある言葉は聞こえない。何かうめいているばかりだ。

 声はうわ言か寝言のように不明瞭なので、兄は俺に電話をかけていることすら自覚していないかもしれない。



 兄から電話がかかってくる。


 奇妙に引き裂かれたような声。土を詰め込まれてくぐもったような声。注意深く耳を澄ませると、どうしてころしたと喚いている。


 ああ、やはり兄だ。

 この電話は死んでいるはずの兄からだ。



 兄から電話がかかってくる。


 兄だとわかったので、俺は根気強く話しかける。兄はこちらを無視して何事かうめくばかりだった。電話は、相変わらず一分ほどするとぷつりと切れる。



 兄から電話がかかってくる。


 その声は既に懐かしいものだった。また聞けるなら恨み言でも構わないと思った。俺だって兄に死んでほしかったわけじゃない。

 それにこんな電話でも、こまめに実家に連絡してくれている、気遣ってくれていると考えれば悪くない。



 兄から電話がかかってくる。


 まだそこにいるのかと兄は何度も尋ねてくる。うんいるよと答えても、ノイズのせいか聞こえないらしい。そんな家のなにがいいんだと兄は何度も怒鳴っている。おまえはおかしい、どうしてどうして、と唸っている。

 生前から兄は俺をおかしいと決めつけていたが、俺からすれば兄のほうが理解不能だ。



 兄から電話がかかってくる。


 兄と混ざって鳴っていた雑音はほとんど静かになった。ホワイトノイズの薄靄の向こうで兄が何か小さく喋っている。いつのまにか恨み言をやめて柔らかくなった声は、俺の名前を呼んでいるらしい。こちらの話はやはり無視しているが、兄の声は日に日にくっきりしてくる。どうも、だんだん近づいてきているように思える。この家に帰ってくるのかもしれない。




 出張で家を離れた一週間の間、電話はかかってこなかった。わざわざトランクに入れていった固定電話は鳴らなかった。携帯も宿の電話も鳴らなかった。

 だから、この家から出れば兄は追いかけてこないか、もしくは追いかけてこられないのだろうと思う。


 俺はずっとここにいるつもりだ。

 この家には生まれた時から住んでいる。俺はこの家が好きだ。家族はみんなここにいた。血のつながった人も、つながっていない人も。今はもうみんな死んで、俺一人しか残っていない、もう何もないが、それでも思い出がある。ここが帰る場所だ。家族を想いながら、ここで静かに暮らしていく。


 兄もそうすべきだった。出て行ったりしなきゃよかったんだ。

 俺だって兄には死んでほしくなかった。

 でも都会に出たまま、帰らないなんて便りを寄越すから仕方なかった。




 兄から電話がかかってくる。


 もはや生前とひとつも変わりないほどに鮮明になった声が、もうすぐつくよ、と言う。声が近い。この家に帰って来てくれるのかな。


 兄の背後ではごく平凡な雑踏が鳴っている。電車のアナウンスが漏れ聞こえる。駅前だろうか。


 訊ねると、兄はそうだと返事をする。初めて会話が成り立った。

 兄は駅前の街並みがすっかり変わっているから道に迷っているらしい。でももうすぐだから、と機嫌良さげに繰り返す。

 俺は、急がなくていいからゆっくり帰ってきてと伝えた。

 すると兄は、聞いたことのない、けたたましい笑い声を上げた。音が甲高くひび割れて、電話越しに俺の耳を突き刺した。


 ちがうよ、あんな家に帰るわけない、と兄が電話口で笑っている。


 そうじゃなくて、おまえをむかえにいくんだよ。

 おまえが俺を殺して埋めた山。

 おまえもこの山においで。

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非通知着信 岩須もがな @iwasumogana

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