後編

 その朝、ホヴィスさんは起きて来なかった。食堂にはミセス・ファルナがいるだけで、仕方なく俺は彼の寝室へ向かった。

「ホヴィスさん? 朝ですよー、起きてください」

 と、声をかけながらドアを開く。

 ベッドには彼の姿があり、まだ眠っているのだろうかと思った。しかし、ベッド脇まで来たところで俺ははっとした。

「ホヴィスさん?」

 苦しそうに顔をゆがめながら、ホヴィスさんは頭を抱え込んでいた。俺の存在には気付いたようだが、彼は頭がひどく痛むのか動けないでいる。

「待っててください、すぐに医者を呼んできますから!」

 と、状況を把握した俺はすぐに彼へ背を向けた。その直後、俺はホヴィスさんに手首をつかまれる。

「大丈夫だ、すぐに……よくなる……」

 消え入りそうな声でそう言って、ホヴィスさんは俺を見つめた。

 その後、ホヴィスさんは何事もなかったように起き出して、いつもと変わらない様子で朝食をとった。

 俺は彼に何もしてやれなかったことが歯がゆくて、何故だか無性に腹が立った。「今朝は何があったんですか? 話してください、ホヴィスさん」

 俺は彼を無理矢理アトリエに連れてくるなり、真面目な顔で問い詰めた。

 ホヴィスさんは困ったように笑って口を開いたが、言葉が出てくるまでに時間がかかった。

「……病気、なんだ」

「何の病気ですか? 病院へ行かなくて大丈夫なんですか?」

 ふいと視線を外した彼は、いつも腰かけている椅子へ向かう。

「実家にいる時に病院へ行ったよ。手術だってした」

「手術!? そんなに大変な病気なんですか?」

 俺は目を丸くして、椅子に座った彼の前へ立つ。

「教えてください、ホヴィスさん!」

 彼は両目を伏せた。ため息をつき、俺を見ないように顔を背けてから、ゆっくりと目を開ける。

「脳に腫瘍があるんだ。アーモロートの中で最も腕のいい医者に、手術をしてもらった。だけど、手術では取り除けない位置に転移してしまって、もう一年も生きられないと言われたんだ」

 白くて整った横顔が自嘲の笑みを浮かべる。

「出来れば君を巻き込みたくなかった。君に、こんな重い話をしたくはなかった」

 金色の髪の毛は細くさらさらとしており、青い瞳はどこか遠くを見つめたまま動かない。俺よりも背が高く美しい体躯たいくは、今だけとても小さく見えた。まるで縮んでしまったかのように、とても小さく、儚い。

「……それじゃあ、この街へ来たのは」

「うん。残された時間くらいは、自分の好きなように生きたくてね。これまで私は、人の言うとおりに生きてきたから」

 彼の祖父は政治家だと聞いたことがある。厳しい家庭に育った父に、自分もまた厳しく育てられたと。

「君のように未来のある若者を見ていたら、無性に手を差し伸べたくなったんだ。けれどもそれは、私の自己満足だったね。まったく無関係だった君に、私が勝手な希望を抱いていただけだった」

「そんなことありません! 俺は……俺は、ホヴィスさんに感謝してるんですっ」

 じっと彼を見下ろして、俺ははっきりと告げた。

「俺が今まで絵を描き続けてこられたのは、ホヴィスさんのおかげです!」

「ヒロン……」

「だから俺は、あなたの助けになりたいです。残された時間は短いかもしれないけれど、俺はあなたに恩を返したい。だから、だから……っ」

 彼の白く細い指が俺の頬に触れる。涙を拭ってくれたのだと分かって、俺は初めて自分が泣いていることに気付いた。

「ありがとう、ヒロン。君に出会えて、本当によかったよ」

「……っ、それはこっちの台詞です」

 俺は手の甲でぐいっと涙を拭う。

 涙でぼやけた視界が元の色を取り戻したとき、ホヴィスさんは優しく微笑んでいた。


 それから数日が経過した日のこと。

 俺は一枚の絵を描き終えるなり、庭を散歩していたホヴィスさんへ声をかけた。

「ホヴィスさん、ちょっといいですか?」

 と、手にしたキャンバスを表にして彼へ見せる。

「あの……この作品を、画廊に持って行こうと思うんです。どう思いますか?」

 彼は目を丸くすると嬉しそうに笑った。

「もちろんだよ、ヒロン! それなら今すぐ向かおう、準備をしてくる」

 と、慌てて屋敷の中へ入っていく。まるで病気などしていないかのように振舞う彼を、俺はひそかに心配していた。


 ホヴィスさんのひいきにしているカフェの、店長から教えてもらったという画廊には、やや怖い顔をした老年の男性がいた。

「こんにちは。カフェ・エヴァレストの店長、オールディさんに紹介されて来たのですが」

 と、育ちの良さを思わせるしっかりとした口調でホヴィスさんは言った。

 男性は俺の手にしたキャンバスをじっと見つめ、手を差し出す。

「絵を見せに来たのだろう? さあ、早くそれをよこしなさい」

「は、はいっ」

 俺は緊張しながらも、おそるおそるキャンバスを手渡した。

 男性は俺の作品を隅から隅まで見るとうなった。

「うーん、まだまだ芸術として見るには物足りないが、センスは悪くないな」

 褒められてつい口元がにやけてしまう俺を、ホヴィスさんがくすっと笑う。

「あんた、名前は?」

「ヒロン・タレントです」

「出身は?」

「カコトピア東部です」

「絵は誰から教わった?」

「誰からも教わってません。強いて言うなら、生まれ育った町に大聖堂があったので、そこのステンドグラスや天井画を見て覚えました」

 男性は顔をあげると、俺の目をじっと見つめた。

「次の作品が出来たら、また見せに来なさい。そのうちに買い手も探してやろう」

「ほ、本当ですか! ありがとうございますっ」

 天にも昇る思いで俺は男性へ頭を下げた。隣にいたホヴィスさんもまた、深々と礼をしていた。


 その帰り、ホヴィスさんは報告ついでに紹介したいと言って、俺をカフェへ連れて行ってくれた。

「いらっしゃいませ。って、あら? ホヴィスがこんな時間に来るなんて珍しい」

「今日は紹介したい人がいてね。前に話したから分かると思うけど、彼がヒロンだよ」

 と、ホヴィスさんは店員の女性へ俺を紹介した。

「どうも、ヒロン・タレントです」

「ああ、あなたが……あたしはジョイン、よろしくね」

 にこっと笑う彼女は気さくな人に見えたが、ホヴィスさんの親密にしている人だと思うと、少し妙な心地になる。

 ホヴィスさんがいつも座っているというカウンター席へ着き、今度は店長に紹介された。

「オールディ店長、彼がヒロンだよ」

「ああ、いつも話している彼か。よく来たね、歓迎するよ」

 と、店長は穏やかな表情で笑う。

「それで、今日はどうしたんだ? 彼を紹介するためだけに来たのか?」

「もちろん違うよ。この前、画廊を紹介してもらっただろう? そこに今日、ヒロンの絵を持っていったんだ」

 テーブルを拭いていたジョインがはっと顔をあげる。

「そうしたら、次の作品も見せてくれって頼まれたんだよ」

 事実とは少し異なるが、ホヴィスさんがあまりにも嬉しそうに言うものだから、俺は訂正するのをやめた。

「へぇ、良かったじゃないか。あのじいさんのお眼鏡にかなったってことは、ヒロンは将来、でかい画家になるな」

「すごいじゃない、ヒロン。ほら、もっと胸張って」

 と、ジョインが後ろから俺の背を叩いた。

「痛っ、急に叩かれるのはちょっと」

「いいじゃない。ほら、もっと堂々としなさいよ」

 と、ジョイン。彼女の気持ちは嬉しかったけれど、俺は苦笑するばかりだ。

 見ると、ホヴィスさんはやっぱり嬉しそうな顔をして俺の方を見ていた。みんなの優しさが温かくて、俺は少しだけはにかんだ。


 病魔は確実にホヴィスさんの身体をむしばんでいた。

 朝はいつも廊下で顔を合わせていたのに、それがいつの間にか当たり前ではなくなっていた。ホヴィスさんが食事の後に嘔吐していると気づいたのは、その頃だった。

「頭が痛くて気持ち悪くなるんだ。前もそうだったから、本当にひどくなった時にはちゃんと分かる」

「そういう問題じゃないです! このままだとホヴィスさん、何も食べられないじゃないですか」

 彼は弱々しく笑ってみせてから、諦めたように言う。

「いいんだよ、ヒロン。どうせ、もう長くはないんだ。今さら病院へ行ったって何も変わらないさ」

「ダメです、ホヴィスさん! 病院へ行けば薬をもらえるんでしょう? 必要以上に苦しまなくてすむんでしょう? 行きましょう、病院へ」

 するとホヴィスさんはいつになく寂しげな目をした。

「すまない、ヒロン。私は少し、弱気になっていたようだ。君の言うとおり、病院へ行くよ」

 ――しかし、病院からもらった薬は気休めにしかならなかった。改めて検査をしたものの、彼の余命が伸びることはなかった。


 新しいキャンバスを買って屋敷へ戻る途中、ホヴィスさんが二階の窓から顔を出しているのが見えた。

 風に吹かれながらどこか遠くをながめている姿が印象的で、俺はしばらく道に立ったまま彼を見つめる。

 季節は冬。一年中暖かな気候のこの街でも、夏に比べたら気温は下がっているし、空の色も違う。他の場所より感じにくい季節の変化を、彼は感じ取ろうとしているのだろうか。

「……ああ、そうだ」

 彼の姿を残そう。真っ白なキャンバスに美しい彼の姿を残そう。そうしたらきっと、彼も喜んでくれる。

 彼のいる風景をしっかりと脳裏に焼き付けて、俺は歩き出した。

 屋敷へ入り、彼のいる二階へと向かう。

「ホヴィスさん、次のモチーフが決まりました」

「おかえり、ヒロン。それで、次は何を描くんだい?」

「はい、この世界を描こうと思います。俺の見ている世界、ホヴィスさんの生きている世界を」

 彼は少し首をかしげたが、すぐに子どものような無邪気さを見せた。

「そうか、完成するのが楽しみだな。期待しているよ、ヒロン」

 俺はその日からさっそく作品制作にとりかかった。


 ホヴィスさんの起床時刻は日に日に遅くなり、時には俺が助けなければ、起きあがれない日さえあった。

 調子のいい日には一緒にカフェへ出かけたが、彼は飲み物を口にするのがやっとという様子だ。

「このお店にはいい絵がたくさん飾られているけれど、ホヴィスはヒロンには勝てないって言うの」

「え? それってどういうことですか?」

 ジョインに突然話しかけられて、俺はそれまで見ていた絵画から目を離した。

 すると彼女は呆れた表情を浮かべて言う。

「ヒロンには無限の可能性が眠っている。だから、どれほど素晴らしい画家の絵でも、自分からしたら、ヒロンの作品より劣っているようにしか見えない。そう言ってあの人、いつも笑うのよ」

 俺はカウンター席で店長と談笑しているホヴィスさんを、ちらりと盗み見た。

「彼がそんな風に……? そうか、嬉しいな」

「まったく、嫉妬しちゃうわ。あたしだってそばにいるのに」

 と、ジョインはわざとらしく唇をとがらせた。


 一方で俺は、彼の生きている世界を描くことに専念していた。

 俺の見上げた先で遠くをながめているユーティ族の青年と、彼を取り囲む穏やかな海辺の街。十年ほど前までは、芸術家を志す者たちが集まって、お互いを高めあったといわれる街。俺とホヴィスさんが出会った”芸術の街”南ディストピアだ。


 ホヴィスさんが病を告白してちょうど一ヵ月半が経った夜、俺のベッドに一通の手紙が置かれていた。

 手にとって見るまでもなく、俺はホヴィスさんからの手紙だと気がついた。

 上質な素材のベッドに腰をおろし、封筒を開ける。中に入っていたのは二枚の手紙だった。

『親愛なるヒロンへ

 あと一週間もしないうちに、私はおそらく入院することになると思う。もう君は気づいているかも知れないが、私は手足の自由が利かなくなってきているんだ。今はかろうじて自分の力で歩いているが、朝はいつも君の助けを借りないと起きあがれない。まったく医者というものはすごいな、宣告された余命のとおりだ。

 そこで、君に一つ頼みがある。私が入院することになっても、家族には何も知らせないでくれないか? ミセス・ファルナには怒られてしまうかもしれないが、どうか何も知らせないで欲しい。思えば、私はあまり家族が好きではなかった。家族とともに過ごすより、君といる方が何倍だって楽しいんだ。私が入院したと聞いたら、家族はきっとこちらへやってくるだろう。そしてアーモロートの病院へ移されてしまう。そうしたら私は君に会えなくなる。そんなの耐えられない。ヒロン、君ならこの気持ちを分かってくれるだろう?』

 読みやすく達筆な文字だったが、文章を追うごとにどんどん形はゆがんでいく。

『余命を宣告された時、私は残された時間を好きに生きるだけで充分だと思った。自分の好きな街で、好きなことをして、好きなように生きる。私はそれだけで、人生を満喫できるはずだった。

 しかし、君に出会って考えが変わったよ。私はもっと君のそばにいたい。君のそばで君の作品を見て、君の絵があの画廊に飾られるところを見届けたい。そして君の名前が人々に知れ渡り、いつか美術館に君の絵がたくさん飾られて、より多くの人々の目に映る様子をこの目で見たい。君という画家が、君という人間が、たくさんの人々に認められる日まで、私は君をすぐそばで支えていたい。

 君のことを考える度、私は残された時間の短さに悔しい思いをさせられる。朝を迎えるのが怖くて、眠れない夜もあるほどだ。出来ることならもっと長く生きていたいよ。こんな中途半端なところで人生を終わらせたくない。』

 ゆがんだ文字は所々がにじんでいて、俺は彼の思いの深さを知った。

『私は、家族以外に人を愛したことがないから、こう言うのは間違えているかもしれない。けれども今は、こんな言葉しか浮かばないんだ。愛しているよ、ヒロン。君と出会えて本当に良かった。

 ずっとそばにいてやれなくて、ごめん。』

 刻々と近づいてくるタイムリミットを、俺はただ受け入れた。


 ホヴィスさんは手紙に書いたとおり、一週間もしないうちに自力での歩行が困難になって倒れた。

 病院へ運ばれるなり彼の入院が決まった。そして意識を取り戻したホヴィスさんは、ただ自嘲気味に微笑む。

「すまない、ヒロン。君にはまた、迷惑を……」

「気にしないでください。俺、迷惑だなんて思ってませんから」

 彼のもう動かせない手を、俺はそっと両手で包み込んだ。

「それに俺、言ったでしょう? あなたの助けになりたいって」

 ホヴィスさんは吊りあげた口角をおろし、両目を閉ざした。すると涙が頬を伝って、ホヴィスさんは言った。

「ありがとう……本当に、ありがとう」

 俺はぽろぽろと涙を流す彼をただ見守った。ホヴィスさんの体温をきちんと覚えていたくて、ただ彼の手を握っていた。


 病院を出た俺は一直線にカフェへ向かった。彼は嫌がったけれど、どうしても伝えなくちゃいけないと思ったからだ。

「あら、ヒロンじゃない。どうしたの、深刻そうな顔をして」

 いつもの日常を過ごしているジョインをじっと見つめて、俺ははっきりと告げる。「ホヴィスさんが倒れました。脳に腫瘍があって、あと一ヶ月生きられるかどうか分からないんです」

 ジョインは俺よりも綺麗な金色の目を丸くして店長を振り返る。

 話を聞いていた店長は無言でうなずいてみせた。

「っ、な、何でよ! 何でそうなるの!?」

 と、彼女が取り乱す。

「ホヴィスさんは、あなたや店長に心配をかけたくなくて、ずっと黙っていましたが……本当のことなんです、信じてください」

 彼女はショックを受けたように押し黙ったが、やがて潤んだ瞳で俺をにらんだ。

「あんた、ちゃんと最期まで彼のそばにいなさい。じゃないとあたし、許さないから」


「ヒロン、この世界は不公平だと思わないか?」

 ある時、彼はベッドに寝た状態のままそう言った。

「不公平、ですか?」

「ああ……私はこれまで、ずっと将来有望だと言われてきた。両親が期待するとおりに国立の大学へ通って法律を学び、卒業後は知り合いの弁護士事務所で仕事をしていた。行く行くは私も立派な弁護士となり、活躍するつもりだったんだ」

 彼の視線は遠くを見ていた。窓の外には青い空が広がっているが、海は見えない。

「それなのに私は、もうすぐこの世界から消えてなくなる。三十年も生きないうちに、私という人間は終わってしまうんだ」

 家が貧しいことも手伝ってか、比較的自由に育ってきた俺とは違う。自分の好きなことに熱中して、自分の好きなことを仕事にしようと決めて、これまで生きてきた。 けれども、俺と彼とでは何が違う? 何が違うから彼は死ななければならない?

「不公平だと思います、俺も。だってホヴィスさんは、俺にとってかけがえのない人で、とても大切な……」

 言葉がのどに引っかかる。言いたいことがあるのに言えない。

 俺へ顔を向けたホヴィスさんは、かろうじて動く右手で俺の頬を撫でた。

「嬉しいよ、ヒロン。私だって同じ気持ちだ」

 ホヴィスさんの優しい声が無性に愛おしく思えて、俺は彼の白く細い手を取った。両手でぎゅっと握って、声にならない感情を伝えようとしたけれど、俺は無力だった。


 その翌日、彼は激しい眩暈に襲われて、深い眠りへ落ちた。

 俺は彼の目が覚めるまで、毎日病院へ行って看病をした。

 屋敷へ戻ると食事をとるのも忘れて、絵の続きを描いた。

 そして彼が目を覚ましたのは、三日が経ってからだった。


「長い夢を見ていたよ。私はまだ幼くて、立派な画家になっている君へサインをねだるんだ。すると君はにっこり笑って、私の頭を優しく撫でてくれた」

 穏やかな表情で話すホヴィスさんは、これまでともに過ごしてきたどの瞬間よりも綺麗だった。

「私はとても嬉しかったけれど、君の周りにはたくさんの人がいて……私は君の幸せそうな笑顔を見て、君のそばを離れることにした。君の幸せを壊したくはないから、私は背を向けて戻っていくんだ」

「戻るって、どこにですか?」

「大地だよ。私たち男は大地から生まれ、女は大海から生まれた。だから私は大地へ帰るんだ」

 彼の口から神話を聞くのは初めてだった。もしかすると夢を見ている最中、彼はどこかで神様に会ったのかもしれない。

「私は悲しくなかったよ。少しだけ寂しかったけれど、君の幸せこそが私にとっての幸せでもあるんだ」

 ホヴィスさんはそう言うと、俺の目を見つめて微笑んだ。

「ヒロン、どうか幸せになってくれ。私のことは、時々思い出してくれればいいから……」

 うとうととうたた寝をするように彼は目を閉じる。

「ホヴィスさん? ホヴィスさんっ」

 名前を呼んでも返事はない。彼の呼吸する音が止まって、俺は目の前が真っ暗になった。


 生前の遺言に従って、彼の葬儀は南ディストピアの片隅でひっそりと行われた。

 神聖な炎に焼かれて灰になる。その炎の青さに見とれながら、俺は呆然と涙を流していた。

 そして繊細な細工の施された美しいドーラが俺へ手渡された。今やホヴィスさんは灰と骨だけとなり、俺よりもちっぽけな存在になっていた。

 俺は一通の手紙を添えて、首都アーモロートにいる家族の元へ彼のドーラを送ってやった。

「これからどうするの、ヒロン」

「分かりません。でも、屋敷を出る前に、どうしても完成させたい作品があるんです」

 あの屋敷はホヴィスさんのものであって、俺のものではない。使用人のミセス・ファルナも、屋敷の片付けが終わったら出て行くという。

 まっすぐに続く道の先できらめく海を見つめたまま、ジョインはたずねた。

「あなたは、まだこの街にいるつもりなの?」

「ええ……もうしばらく、ここで腕を磨こうと思ってます。画廊の主人に認めてもらえる日まで、頑張ろうと思います」

 彼女は空を見上げると、ため息をついた。

「あたしはこの街を出るわ。あなたのことは応援したいけど、彼を思い出すのが辛いから」

 数日後、彼女はその言葉どおりに街を出ていった。


 青い空を見上げる金髪の青年。素晴らしくも儚く、不公平な世界を見つめる蒼い瞳の青年。

「タイトルは……そう、『不公平な世界』だ」

 きっとこのモチーフは、俺が生涯をかけて描き続けるテーマになる。

 この不公平な世界から、少しでも早く抜け出すために。一人でも多くの人を、ここから助けだすために……俺はひたすらに絵を描き続けていく。(終)

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絵描きの少年と自由人のお話 晴坂しずか @a-noiz

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