絵描きの少年と自由人のお話
晴坂しずか
前編
今の医療ではどうにも出来ないのだと、医師は言った。
「息子には明るい将来が待っているんです。どうか、どうかできる限りの治療をしてください!」
必死に医師へすがる両親の姿を見て、私の心はあっという間に冷めていった。
「もういいよ、二人とも。だから先生、はっきり言ってください。私の……いえ、私に残された時間は、あとどれくらいなんですか?」
目的地へ到着するなり、私は深く息を吸い込んだ。
潮の香りと波の音、ビーチでにぎわう人々の楽しそうな笑顔。それらすべてを一身に感じ、私は深く息をつく。
「ああ、ここが南ディストピアか」
幼い頃から、私のずっと憧れてきた街だった。今でこそリゾート地として開発されているが、幼い頃に聞かされた”芸術家の街”の面影も、そこかしこに残っている。
私は物心がついたときにはすでに家庭教師がいて、小学校へあがってからは勉強漬けの毎日だった。少しでも成績が落ちると、かならず父親に叱られた。そんな風に自分の時間というものを一切与えられなかった私は、難しいことを考えずにのんびりと、好きなように暮らす生き方に憧れていた。
ビーチから離れて住宅街へ入ると、石畳の道が見えてきた。階段をあがっていき、メモに書かれた住所を探す。
もう秋だというのに陽射しは夏のように暑く、じわりじわりと汗がにじんできた。
住宅街を奥まで行って、私は右手に広場の見えてくることに気がついた。
心の向くままそちらへ向かうと、風がふわっと吹き抜けて私の短い髪の毛を揺らした。
「あ……」
振り返ると遠くの方に海が見えた。まっすぐ続いた坂道の先に青々とした海が広がっている。
「なんて美しい景色だろう」
私はしばらくそこに立ちつくしていた。
屋敷は想像していたよりも大きかった。
私の祖父がその昔、伯父に買い与えたという別荘なのだが、十年以上も使われておらず、手放そうかどうか迷っていたという。そんな折、私が南ディストピアへ行きたいと言ったため、これからしばらくの間、この別荘は私のものとなった。
「お待ちしておりました、ホヴィス坊ちゃま」
屋敷の管理を任されている中年の女性使用人は、そう言って深々と頭を下げた。
私は少し戸惑いながらも、にこりと笑みを返す。
「私ももう大人なので、坊ちゃまと呼ばれるのはちょっと……」
「それでは、ホヴィス様でよろしいでしょうか?」
「ああ、それで頼むよ。私としては、もう少しくだけてもらってもかまわないんだけどね」
日に焼けて肌の黄色くなった彼女は目を丸くし、それからにっこりと微笑んだ。「分かりました。ですが、私はあくまでも使用人です。困ったことがあれば、何なりとお申し付けください」
彼女の中には、色濃くユーティ族の血が流れているようだった。上下関係やしきたりにうるさいのがその証拠だ。
無論、私もユーティ族である。白い肌に金色の髪、青く澄んだ瞳は平和の女神ユーティからの賜りものだと言われている。しかし、神話に詳しくもなければ、興味もない私には、そんなことどうでも良かった。
ただ思うのは、ユーティ族は平和の意味を履き違えているのではないか、ということだ。自分たちこそが正しいのだと言い張って、他国や他民族との間でいさかいを起こしては、その度に平和の意味をねじ曲げてきた。私には、どうしたってそう思えてならないのだ。
翌日、女性使用人の作ってくれた朝食を一人で食べた。決してまずくはなかったが、何かが物足りなかった。
その後、私は外へ出て街を散策した。医師や両親から身体を大事にしろと言われていたが、歩くだけなら問題はない。
あいかわらず太陽は歩道を照りつけ、すれ違う人々の顔は活気で満ちている。
昨日見つけた広場では幼い子どもたちが駆け回ったり、ベンチに座っておしゃべりを楽しむ女性たちの姿があった。
帰り道にまた寄るつもりで、私は広場を通り過ぎる。すると、何やら大きな荷物を抱えた少年が前方からやってきて、私とすれ違った。
かすかに絵の具の匂いがして、この街にもまだ絵描きがいるのだなと、嬉しく思った。
住宅街を抜け、海辺の道を自分の歩調で歩く。私はいつも誰かの後について歩いていたが、同時にいつも誰かに追われているような感覚を覚えていた。しかし今、私の周りには誰もいない。私は一人で、誰の指示を受けることもなく歩いている。――病気にならなかったら、私は一生こんな風に過ごすこともなかったのだろうかと、少し皮肉に思う。
あてもなく散策を続けていると、だんだん空に雲が増えてきた。先ほどまで暖かかった気温はぐっと下がったように感じられ、私はどこか屋内に入ろうと考えた。時間もちょうど昼時だし、カフェか何かで軽食を取ろう。
さまざまな店の並ぶ通りへ入り、すぐに席へ着けそうなカフェを探す。リゾート地というだけあって、どこも観光客でいっぱいだ。
店の外装も明るい色が多く使用され、この前まで住んでいた都会とはまったく違った趣だ。
ふと目に付いた角を曲がると、なかなか雰囲気の良さそうなカフェを見つけた。私はそこへ入ることにした。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
「あ、ああ」
そういえば一人で外食をするのは初めてだ。私はドキドキと胸を高鳴らせながら、店員に案内されてカウンター席へと座る。
メニューはさまざまあり、普通のカフェと大して変わらない。しかし、一つだけ大きく違っていることに私は気づいていた。
適当に軽食と飲み物を注文して、私は店内を見回した。
壁のいたるところに大小さまざまな絵が飾られている。作風も違うため、何人もの画家の作品があるのだと見て取れた。
「お兄さん、このお店は初めて?」
と、年若い黒髪の店員に声をかけられてはっとした。
「ああ。昨日、この街に引っ越してきたばかりなんだ」
「ふぅん。もしかしてお兄さん、絵画が好きなの? このお店はもう三十年近くやっててね、その頃からずっと、いろんな画家の絵を飾ってきたの」
どこかあどけない口調で話す彼女に、私は思わず質問をしていた。
「じっくり見て回ってもいいかい?」
「ええ、もちろん。他のお客様の迷惑にならないようにね」
いい店を見つけた。
私は食事を終えるなり、絵画のひとつひとつを見て回った。この街をモチーフにしたものや誰かの肖像画、抽象画に神話のワンシーンを描いた作品などもある。
まるで美術館に来たみたいで、私の胸は心地良く高鳴った。
店を出る頃には天候も回復し、私はまた散策をしながら屋敷へと戻った。
広場から子どもの声は聞こえなくなっていたが、行きにすれ違ったと思しき少年画家が、地面に座り込んで絵を描いていた。
「すっかり常連になっちゃったね。今時、あなたみたいな人って珍しいから嬉しいな」
と、店員の彼女は言った。
この街へ来て十日が経つ頃だった。私は二日に一度、カフェで昼食をとるようになっていた。
「そういえば、ずっと聞きたかったんだけど、どうして一人でこの街に?」
首をかしげてたずねる彼女を見て、私は少しあいまいな表情を浮かべた。
「ようやく自分の人生を、歩みだせるようになったから……かな」
「だけど、ホヴィスは仕事してないんでしょ? あたしには、長い休暇を楽しんでいるようにしか見えないなぁ」
「はは。そうだね、これは長い休暇なのかもしれない。私にやっと与えられた、自由という名のバカンスなのかも」
彼女は首をかしげたままだったが、私にはそれがおかしくてまた笑ってしまった。「まぁ、いいや。あなたが変わった人だということは分かったから」
そう言って彼女は私のそばを離れると、仕事へ戻っていった。
その日は少し帰りが遅くなって、街はすっかり夕焼けの色に染めあげられていた。
あまりにも見事な夕焼けだったため、私は広場へ寄ってあの景色をながめようと思った。
きっと誰もいないだろうと予想していたのだが、広場には少年がいた。いつものように地面へ座り込み、道具を周りに広げて無心で絵を描いている。
しかし、私は彼がどんな絵を描いているのか知らなかった。彼の絵を無性に見たくなって、その後ろへと回りこむ。
そこから見えるのは、まっすぐに続いた道の先に広がる海だ。今は美しい橙色にきらめいて、この街の穏やかさを映し出している。
そして私の目の前にいる少年画家は、そうした景色を荒々しくも繊細なタッチで描いていた。
「……君、いつもここで絵を描いているよね」
少年ははっとして私を見上げると、人の好い笑みを見せた。
「はい。俺、有名な画家になるのが夢なんです」
なるほど、少年の身につけた衣装はあちこちがすりきれてぼろぼろだ。それなのに道具だけは種類がそろっているところを見ると、彼の絵に対する熱意が分かる。
「アトリエはないのかい?」
「ええ、ありません。俺はまだまだ駆け出しですし、ちっとも絵が売れないので」
と、少年は正直に返事をする。
私は彼のそうした素直さを気に入って、にこりと微笑みを浮かべた。
「それなら、私の屋敷へ来ないか? 中でも一番広い部屋をアトリエとして貸し出そう」
「え?」
「私はホヴィス・ディシース。十日ほど前にこの街へ越してきたんだが、一人で住むには広すぎる屋敷に暮らしていてね。使用人とはどうも馬が合わないし、一人で食事をするのも寂しいと思っていたんだ」
彼は金色の瞳を丸くして、ぽかんと口を開けていた。
「だから朝と夜、私と一緒に食事をしてくれるなら、金はいっさい取らない。この条件でどうだい?」
「……あ、ありがとうございますっ」
彼は勢いよく立ちあがると、私の白い手をとった。
「俺はヒロンです。ヒロン・タレント。本当に、本当にありがとうございます!」
ぼさぼさの茶色い髪を風に揺らしながら、カコット族の少年は笑った。
ヒロンを連れて帰ると、使用人に嫌な顔をされた。
「この屋敷で一番広い部屋を彼に貸すことにしたんだ。食事もこれからは彼と二人でとる」
じーっと観察するように彼女はヒロンをながめ、そして言った。
「かしこまりました」
一言だけだった。彼を客人として扱う様子は
「さあ、ヒロン。私が屋敷を案内するから、ついておいで」
「あ、はいっ」
ユーティ族はなんてめんどくさい民族なのだろう。多くのユーティ族は他の民族を見下している。自分たちの方が優れているのだと思い込んでおり、彼のようなカコット族や黒い肌のディジー族をないがしろにする。それこそが平和を乱す原因であると、何故誰も気がつかないのだろう。
……いや、もし気付きながら平和を乱しているのだとしたら、この世界はなんて不公平に作られていることだろう。
「ベッドで眠るのなんて久しぶりで、昨夜はぐっすり眠れました。ありがとうございます」
「そうか、それは良かった。そう言ってもらえると私も嬉しいよ」
二人でとる初めての朝食は、今までに比べて手抜きをされていたが、ヒロンはとてもおいしそうに食べた。それを見ていたら、私もおいしいと思えるようになった。二人で食べる食事なら、きっとどんなものでもおいしくなる。そんなことまで考えた。
食事の後、彼はさっそくアトリエで絵を描き始めた。
「最初は青い海を描いていたんですけど、夕暮れの景色の方が綺麗なことに気づいて描き直したんです。そうしたら、ものすごく時間がかかっちゃいました」
私は彼の背を見る位置に椅子を置いて、次々に描き足されていく色をながめていた。
「でも、こんな静かな部屋で絵を描けるなら、今までよりずっと集中できます。今描いている絵も、今日中に完成させられそうです」
「そうか。私は完成した作品を、誰よりも早く見ることが出来るんだね。喜ばしい限りだ」
ヒロンは少し背中を揺らすと、手を止めてこちらを振り向いた。
「俺より上手い画家はたくさんいるでしょう? 褒められても困っちゃいます」
「おや、私は本音を言っただけなのだけれど」
「っ、だからそれが困るんです! 俺なんて、まだまだなのに……」
と、ヒロンは口をとがらせた。しかし君には才能がある、なんて言ったら、彼はもっと機嫌を悪くするのだろう。
私は少年に対する希望を口にはせず、静かに席を立った。
「それじゃあ、私は少し出かけてくるよ。君の邪魔をしても悪いからね」
カフェへ行ってヒロンのことを話して聞かせよう、と思っていた。
店員はとてもびっくりしてくれた。
「えー、画家の卵を拾ったってこと? ホヴィスって本当に変な人」
「私のことはいいから、彼の方に驚いてくれないか?」
「驚くって言っても、まだまだ駆け出しなんでしょ? まぁ、ホヴィスが見込んだくらいだから、才能はあるのかもしれないけれど」
アイスティーを一口飲んで、私は彼女の言葉を待った。
「ヒロン・タレントねぇ……一応、名前だけは覚えておくわ」
「ありがとう、ジョイン。彼もきっと喜ぶよ」
私は無意識に、彼のことを自分のことのように喜んでいた。もしかすると、私は自分が思う以上に、彼を気に入っているのかもしれない。
「そこで少し相談があるのだけれど……もし良ければ、ヒロンの絵を」
「うちには飾れないよ? 見て分かるでしょ、もう場所がないの」
「そうか……、残念だな」
と、私はしょげて見せる。しかし、答えは聞く前から分かっていた。
彼女はやれやれといった様子で息をつき、店長の方へ向かう。そして二言三言会話を交わすと、私の方へ戻ってきた。
「お店には置けないけど、馴染みの画廊を紹介するって。店長の名前を出せば、少しは優しくしてくれるはずよ」
と、画廊の住所が書かれたメモを渡してくれる。
私はありがたくメモを受け取って、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう。屋敷へ戻ったら、すぐに彼へ話すよ」
「え、画廊に俺の作品を?」
「ああ。どの作品でもかまわないから、持っていってみないか?」
キャンバスに最後の一筆を置き、ヒロンは改めて私を見た。
「まだ自信がないので嫌です。この作品だって、ちゃんと乾くのを待たなくちゃいけないし」
と、あの広場から見える風景そのものを描いた絵に視線を向ける。出来あがったばかりの作品は完成度が高く、海辺の街の穏やかさを見事に表現していた。
「それなら、自信を持てる作品が出来るまで待とう。私は君に強要するつもりはないから、画廊へ持っていける作品が出来るまで、君を待ち続けるよ」
私がそう申し出ると、ヒロンは申し訳なさそうな顔をしてうつむいた。
「すみません、ホヴィスさん」
彼は自分の力量を知っているから、私の言葉に反抗するのだろう。コネや金を使って有名にすることは出来るけれど、それは彼の熱意を踏みにじるだけだ。
翌朝、食堂へ向かう最中にヒロンと出会った。
「おはよう、ヒロン」
「おはようございます、ホヴィスさん」
私は彼の隣へ並んで歩調を彼に合わせる。
「あの、あなたに聞きたいことがあるんです。ホヴィスさんはどうして、こんな屋敷に一人で?」
と、彼はちらりと私の様子をうかがった。
「さあ、何でだと思う?」
「分からないから聞いてるんです」
「はは、そうだね。……君には、話してもいいのかもしれないな」
私はそう言葉にしながらも、その先を言うつもりはなかった。
「……話してくれないんですか?」
食堂が見えてきてヒロンは足を止めた。
私もつられて足を止めかけたが、やっぱりやめた。彼の先を行き、朝食をテーブルへ並べている使用人に声をかける。
「おはよう、ミセス・ファルナ。今日の朝食は何だい?」
何故だか分からないが、私は彼にすべてを話すのが恐かった。病気のことだけじゃない、私という人間について話すことに恐怖を覚えていた。
「私はもう若くないんだ」
ようやくヒロンに言えたのはそれだけだった。いつものように広いアトリエで二人きり、彼の背中をながめていた。
「ホヴィスさんだってまだ二十代じゃないですか。それなのに、どうして俺のためにいろいろしてくれるんですか?」
と、純粋に疑問をぶつけてくるヒロン。私は答えに迷った。
「それは……君を応援したいからだよ。芸術を愛する者として、私は君の背中を押してやりたいんだ」
彼の聞きたいのはそんなことじゃない。分かっていても、私は言えなかった。
「それは分かります。ホヴィスさんの気持ちは嬉しいと思っています。でも、やっぱり納得がいきません」
と、彼は私の方を見た。
私だってきちんと話を出来ないことが悔しい。形の見えない恐怖に怯えている自分自身が、憎くてたまらない。――しかし、私は彼に対して素直でいるべきだった。正直であるべきだった。
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