第5話

 少しだけまともを取り戻せたような気持になって、僕は笑っている。

 ずっと眠り続けていたらしい。そのことを理解できるようになったのは、かなり時間が経ってから、そして、それに気づいた時にはもう、路は隣にいなかった。

 「…急がなきゃ。」

 僕は、ネクタイを結んでスーツを羽織る、それだけで普通になれている気がして嬉しかった。でも、現実はそれについていける程、明るいものではなかった。

 すさまじい事件だった。

 人が、何人も死んだ。

 僕はかなりの恐怖にさらされていたらしく、記憶がない。

 けれど断片的に、たまにふっと何が起こったかは分からないのに、叫び出してしまう時がある。

 「…はあ。」

 それは、別に寝ている時とか、そういう縛りは無くこういった、些細な合間に現れる。だから予測がつけられないし、こうなると、仕方ない。

 連絡をしてしばらく休もう。

 この前就職が決まった会社に今日は少し遅れるということを伝えて、ソファに転がる。

 多分、無理だ。

 僕は普通に就職して生きていくことができない人間なのだろうと思っている。

 もういっそ、旅行にでも出てしまって、それを旅行じゃなく本業にしてしまって、そういう生き方をしてもいいのではないかと思っている。

 だってさ、無理なんだ、無理。無理。

 路は、疲れ果てて心を病んでしまった。

 僕と路は、とても相性のいい関係だった。だからこそ、それを失う、という現実が受け入れがたいものだった。

 そして、僕は路に、もう大丈夫だと言って、路は僕にごめんね、と言った。

 悲しいけれど、これは現実だった。

 僕は、でも、もう決めたのだ。

 スーツを脱ぎ、ウインドブレーカーを羽織って、外に出る。

 風が気持ちいい、エンジンにブオンと音を出させ、走り出す。

 どうでもいいことばかりだった、と思った。

 けれど、僕は向かっている、やっぱり、路のことを放っておけない。

 遠くに行くことはできない、捨てられないものがあるから。

 そう思って、ただ前を見た。


 俺は、どうすればいいのだろう。

 いや、もう何もすることはできないのだ。

 それは分かっているけれど、でもこの状況ですら、何かをしたいと思ってしまう。厄介だなあ、と思う。人間って本当に厄介だ。自分の欲望のために人を踏み潰す、そんなことをしたっていいことなんか無いのに、世界って何なんだろう。

 本当に、この世界って何?

 それは、ずっと分からなかった。

 きっと誰にも分からないのかもしれない。

 けれど俺にできることは世界の不気味さを思って、世界を呪う事だけなのだと、気付いてしまった。

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タイトル @rabbit090

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