逆縁を夢に結ぶ

十余一

逆縁を夢に結ぶ

 私は、線香の香りに包まれていた。

 ここは何処だろう。くすんだ青空の下で、私はただぼんやりと佇んでいる。足元には四角形の石と、黒い服を着てうずくまる母の姿。いつも明るい色合いのラフな格好をしているから珍しいと思った。他には、ゆるやかにたち昇る白煙、古びた鐘楼、咲き終えた百日紅さるすべりの花、苔生した板碑、たらちねの大公孫樹いちょう、朱塗りの立派な本堂。

 ああ、ここは見慣れた寺だ。年に何度か訪れる我が家の墓だ。母が着ているのは喪服だったのか……という気付きと共に、私は死を自覚する。墓誌には、昨年亡くなった祖父の隣に私の名が刻まれていた。

 親より先に死ぬという最大の不孝を犯した愚かな娘のために、この人はひざまずき祈っているのか。ごめんなさいと謝りたくても声は喉に貼りつき、思うように出てこない。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。不出来な私を慈しみ、育て上げてくれた母に、私の言葉は届かない。母の腕に抱かれ、母の作る食事で育ち、母が稼いだ金で学校に通わせてもらった。兄と喧嘩して泣く幼い私を慰め、初潮を迎え戸惑う小学生の私を教え諭し、学校に行きたくないと駄々を捏ねた中学生の私を叱り、遠方の私立大学へ行きたいとねだる高校生の私を認めてくれた。あの家にあって唯一の味方でいてくれた母に、私は何一つ、恩を返すことが出来なかった。ごめんなさい。先立つ不孝を許してください。もっと一緒にいたかった。母に伸ばした私の手が、虚しく空を切る。静かに泣き濡れる母と冷たい墓石と、ここには居ない私。ただ、墓に手向けられた白いネリネの花だけが風に揺れていた。


 受け入れがたい現実を、目の前に広がる不条理を、私は受け入れざるを得ない。そう思うと心が冷えて妙に冷静な気分になれた。そうして、私を弔ってくれる家族は母だけなのか、という諦めにも似た納得が湧き上がる。父の姿などあるはずもない。

 きっと父は、私の生死にさしたる興味もないのだろう。多少の感情の揺らぎは有れど、母ほどの悲嘆や哀惜は抱かない。そう思うに至る出来事を、私は脳裏から追い出すことが出来なかった。思い出したくもない幼少期の記憶だ。


 私は一歳の誕生日を迎える直前、大病を患い入院したらしい。そろそろ予防接種を受けようかという頃に運悪く麻疹を発症し、そのまま肺炎も併発した。それはもう酷い状況だったのだと、父は語った。

「医者にも匙投げられて、俺も婆ちゃんも爺ちゃんも諦めたんだよ。快復するって信じてたの母さんだけだったなぁ」

 凍りつく私の表情を気にも留めず、父は楽しそうに喋り続ける。医者から聞いた言葉を話したくて仕方がない様子だ。

「医者にさぁ、『今夜が峠です』なんて言われちゃったよ。そんなドラマみたいなセリフ始めて聞いたわ」

 と、冗談めかしてのたまい、へらへらと笑った。なんて残酷な思い出話だろう。

 聞かされた子どもにとっては全くもって笑えない。「このまま我が子が死んでしまっても仕方がないと思っていた」という話を、当人に伝えてしまう愚行に何故気づかない。田舎の長男至上主義ゆえに、嫡男たる兄さえいればいいと思っているのか。あるいは子どもなんてまた作ればいいと考えているのか。目の前にいる存在は、産まれ落ちたその日から意思を持つ一つの命だというのに。

 そうして軽々しく、まるで丸底人形を指で弾くように接してくる父――その男に対して、私は父性や愛情を感じられなかった。全くの無関心ではなく、かといって慈しむでもなく、育むとも言いがたい。無遠慮に、子どもの心を蔑ろにする。聡くなくとも幼くとも、自分がぞんざいに扱われていることくらい理解できた。

 男親は何をもって子どもの“父”になるのだろう。

 痛みを伴わねば母としての自覚が芽生えないからと、無痛分娩に反対する人もいるという。それならば、腹を痛めない男には、いつ親としての自覚が芽生えるのか。終ぞ目覚めないのだろうか。女がそのはらで十月十日も子を養い、命懸けの出産をするとき、男はいったい何を考えているのだろう。種を出すだけ出してあとは女任せなのだとしたら気楽なものだ。

 あるいは産まれてきたあとも、父子を結び付ける確かなものなんて存在しえないのかもしれない。血縁などというものは曖昧だ。半分同じ血が流れているから何だというのだ。寧ろその半端な繋がりに煩わしさすら感じる。

 父が私や母に暴力を振るったことはない。中毒になるほど酒浸りでもなかった。ギャンブルを好んではいたが、それによって借金を負うことはなかった。私の知る限りでは、母に対する不義理を働いたこともない。そこそこに働き程々に家族を顧みる、普通の家庭人だったのだと思う。だがそれでも、少なくとも私にとっては良い父親ではなかった。

 親は子に、無条件の愛、すなわち慈悲を注ぎ続けねばならないという訳ではない。親だって自我のある一人の人間だ。自分の人生がある。けれども、惜しみなく慈しんでくれた母に対する孝行の気持ち、それと同じものを父へ向ける気にはなれなかった。

 父よ。お前は私の好きなもの一つ、好きな花一つ知らないだろう。兄がくだらない悪戯を仕出かしたとき、お前に濡れ衣を着せられた私がどれだけ傷付いたか知らないだろう。中学生の頃、私が不登校になったことにも気づかなかっただろう。そのくせ私の夢を軽んじ進路を否定した。たかが一度や二度御湿おしめを変えただけのことを自慢げに語り、立派な父親面をするな。お前が私を見捨てたと知った日から、私はお前のことを親だなんて思っちゃいないよ。


 気持ちを吐き捨てた直後、私の頭上で突然、ガラリと引き戸を開ける音がした。

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

 網戸を開け庭に出ようとしていた夫が、振り向きざまにこちらを見ている。その腰に括り付けられた線香皿から、蚊取り線香の煙がたち昇る。暑さの残る休日の午後、辺りは夏の香りに包まれていた。

 夢か。夢だったのか。よく言えばレトロな、悪く言えばオンボロな借家の一室で私は寝転がっていた。先ほど夢の中で死んでいたあどけなさの残る私と違い、現実の私は年相応に少しくたびれた顔をしているのだろうな。

「疲れてるんでしょ。もう少し寝てれば?」

 夫の申し出はありがたいが、持ち帰った仕事が残っていることを思い出し、掠れた声で「ううん、起きる」と短く返してのそのそと起き上がった。

「……菜園の世話?」

「うん。もうすぐサツマイモが収穫できそうなんだ!」

 夫は嬉しそうに言い放つと、蚊取り線香の煙を伴って意気揚々と庭へ降りて行く。私はその背中を眺め、きっとこれが幸せというものなのだろうと暖かな気持ちを噛みしめた。

 一人になって、少しだけ考えに耽る。先の夢に現れた光景は、私の深層意識を反映したものだろうか。私の死に際して表れる両親の差。子を慈しむ母と、そうではない父。大好きなお母さんと、大嫌いな男親。親の愛情に喜び、疎略そりゃくに痛めた幼心。今もなお引きずる子どもじみた癇癪かんしゃく。今更思ったところで仕様がない恨み言。

 私は今、この幸せな生活に浸っていながらも、不安を拭いきれずにいるのかもしれない。

 良い彼氏が良い夫になるとは限らず、また良い夫が良い父になるとも限らない。そんな話はこの世のどこにでも転がっている。かつては私の母だって、父のことをいと思って結婚したのだろう。そうして兄と私が産まれてきたはずだ。しかし私にとってあの男は良父たり得なかった。

 私が夫の子を身籠ったとして、彼は子どもまで愛してくれるだろうか。彼のことを信じていない訳ではない。けれども、夫婦といえど結局は違う人間で、他人なのだ。生まれた命を共に慈しみ育ててくれる保証はどこにもない。

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