一息つく。
「……ふぅ」
僕はキーボードに置いていた手を離し、だらりと脱力させて、そのまま上半身の力も抜いて椅子の背に体重を預ける。目の前のディスプレイには自分の書いた文章が表示されている。マウスに右手を乗せ、スクロールする。最上部へ。そして読み返す。読みやすいとは思わない。しかし、それよりも本音であることが大事だと思う。それは達成されているのだろうか。少なくとも今の僕は、されていると思う。
そう思えた。
なら、大丈夫だ。
いつの間にか、妻が隣に立っている。
僕はその顎のあたりを、猫でも撫でるように触ってみる。
「終わったの?」
「んー、まあ、いったん」
「続けるの?」
「いや、しばらくは」
「コーヒー飲む?」
「飲む。ありがとう」
妻はリビングへと向かった。程なくして、がりがりがりがりと豆を削る音が響いてくる。電動ミルの。それを聞いた君の足音と、わーっと言う声が聞こえる。少し前まではそれはわーんだった。泣き声で、とてもとても大きな声だった。だから電動ミルを使うことはまるまる二年ほど叶わなかったのだけど、近頃はその制限もなくなった。むしろ興味があるようで、音が響くと妻のもとに歩み寄ってくるようになっている。きっと今もそうだろう、妻の傍らであのわーっという声を上げているのだろう。
想像しながら、僕も自室の机から離れてリビングへと向かうことにした。
「ぱぱ」
リビングに入る僕の姿を目に入れて、君が言う。その発声はまだ「ぴゃ」に寄ったところがあり、僕はそれがいつか失われるだろうと想像すると今から寂しい。この響きは今にしかない。君がいるようになってから、一事が万事、雑事が全て、このありさまだ。僕は。
「ぱぱ?」
君が首を傾げる。
まだわからないことばかりの君が首を傾げる。
その角度のことを僕はなんとか記憶しておきたいと思う。僕はもしかしたら、そのためにあの文章を書いているのかもしれない、とふと考える。いつか、わかることが増えるであろう君のために書き始めた、いつか君にすべてを説明することになるその日のために書き始めたはずのあれは、でも、もしかしたら、君のこの角度をまた、思い出すために? あるいは、抽き出すために?
いや、やめよう。
まだわからないことを考える前に、することがある。
そう、たとえば。
「なんだい? はじめ」
僕は首を傾げたままの君に返事をする。
そして君を抱き上げ、椅子へ腰掛ける。
リビングにはコーヒーの香りが漂い始めている。
僕は考える。いや、思い出す。
裡にあるものは別のなにかに抽き出される。
逆さまに。
君の顔を見るといつもそのことを思い出す。
ねえ、思い出すんだよ、はじめ。
いつか君にわかるのかな。
十月と十日とかつての十年のそのあと 君足巳足@kimiterary @kimiterary
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