十月と十日の後

 そうして子どもは、君は、無事に生まれる。


 妻を可能な限り休養と回復に務めさせるために僕は雑事に追われる。もちろん僕を追わない雑事も多々あり、それについては実に多くの人の助けを得てどうにかこなしていくのだけど、それでも僕は僕で僕なりに多くの雑事に追われている。公私共に。前者では例えば数多くの手続きのために、あるいは検査や健診などのために、役所や病院を行き来することになるし、様々な連絡を自身の関わってきた組織に行っている。後者では僕たちは――もちろん君も――多くの祝福を受ける。妻は労われるし僕は激励される。そして君は僕らに倍して祝福を受ける。僕たちはそれら全てに返事をする。面と向かって届く言葉にも、SNS越しに届く言葉にも。僕たちはそれらを嬉しく感じながらも、ある面では忙殺されている。ところで僕はこれらを迂闊にも雑事と称してしまったが、訂正は行わない。しかし言い訳はひとつ挟む。僕はの一文字にネガティブな印象を持ちたいとはこれまでもこの先も思わない。これについては以降で、しかもそう遠くはなく、また触れる。


 そうして、雑事、雑事、雑事だ。

 日々はそれで全て埋まっていく。


 そのときの僕は一人の人を新たに生かすために必要な雑事の数はまるで数えきれないということに気づく暇すらない。この生活に慣れたいま振り返る分には存分に感慨に、思索に耽ることが可能なのだけど、当時の僕はそうではない。ぼくはこの文章の最初に、妻との会話をなるべく排することを理由付きで宣言した。しかし、ことこの時期の僕について言えばその宣言とは無関係に、。むしろ多くのやりとりがあったはずだが、何も思い出すことはできない。押し流されて何処かへ消えてしまっている。


 しかしはっきりわかっていることがある。

 今これを振り返る僕には、何も思い出すことができないということすら愛おしいということだ。


 失われた、もしかしたら最初から記憶することすらできなかったこの時期の記憶のことを、僕は今かなり愛してやまない。そう言われた君がおかしなことだ、意味がわからないと思うのならそれはそれでいいが、いまの僕は僕でひとまずこれでいい。この時期の僕には多くの感動があったはずだ。君を初めて抱いたこと、手を握ったこと、声をかけたこと、頭を撫でたこと、寝かせたこと、体を拭いたこと、笑みを浮かべられ笑みを返したこと、おおきなおおきな泣き声に頭を痛めたこと、悲しみではない多くの涙を流したこと、その全てに僕はいちいち感動したはずなのだけど、それを今振り返ろうとすれば全てが雑事の記憶の向こうにある。そう言ってしまうと、ネガティブに聞こえるだろうか?(だから、僕は妻にそう訊いた。この文章を書きながら。「なんだか、僕はこの時期、不幸だったみたいに見えない?」と。妻は「相変わらずあなたの悩みはよくわからないけど」と前置きした。そして言った。「あなたは暇だとろくなことをしないから、あれくらいでいいと思うわ」。僕は苦々しく笑い、何もわからない君が横で、僕が笑うものだから笑っている。。この括弧書きの挿話を挟むことで、僕はなんとか君に、いつか何かをわかるようになった君に、僕が雑の一文字にネガティブな印象を持ちたいとは思わないということが伝わるように願う)


 いずれにせよ、雑務に追われる中で、僕に思索を重ねる余裕はなかった。

 感動も、あったはずなのだが押し流されてその面影だけが今ここにのこる。

 そして僕にはただ、ポジティブな感情が溢れきっている。

 それらすべてが、あの十月と十日の間とは、正反対だ。


 ならこれらをぶっ繋いで僕は一つの結論にたどり着ける。それは思索することとか感動することとかは別に僕の、父としての僕のほんとうにやるべきことではないということで、むしろ日々の細々して面倒でけちけちした雑事の方にポジティブなことのすべてがある、ってことだ。この文章には書く術がないのだと言って書かないでいたことに、その膨大な積み重ねに、もしかしたら別に面白くもないそれらにこそすべてがある、と今の僕は言える。。そしてかつての僕は言えなかった。


 これはあの十年にあった悩みを、葛藤を、吹き飛ばしてしまうようなシンプルな結論で、僕は少し恐ろしくなる。そうやってあの十年をふっとばしてしまうなら、あの十月十日の間に僕が立てた仮説もまた、ぐらぐらと揺らぎはじめるからだ。僕は書いた。「あの十年間の葛藤が、だから父性が、僕の裡にあるとしたら、もしかしたら過剰にあるのだとしたら、どうだろう。きっと僕は僕の遺伝子に由来しない子どもの親になることができるはずだという結論が出るんじゃないか?」とそう書いた。そしてこれは今揺らいでいる。だから最初の、ほんとうに最初の問に戻ろう。



 僕ははたして――父になることができているのか?



 僕は雑に答えることができる。

 まだ分からねえよそんなこと。


 


 

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