第3話
ピアノと向かい合うのは久し振りで、少し適当に触れて感覚を取り戻していく。
綺麗な音。ひねくれた私が出した音とは思えない。触れるたび、泣きそうになってくる。あの日からずっとそう。こうしているとおとうさんと連弾した日々を思い出して、目が潤む。
『ありきたりだけれど、音楽は音を楽しむと書くんだ。だから楽しんで弾くんだよ』
最初の頃におとうさんから教わったことだ。おとうさんはいつもその通りに弾いていた。だから私もそうしてきたのに、今はとてもじゃないけどそんな気分にならない。
でも、アイスミルクコーヒーが私を待っている。弾かないで逃げ出せば、流しに捨てられる運命。あれは既に
「なにひくのー?」
子供達の誰かが訊く。確かに、弾くにしても何を弾こう。弾きたい曲があってこうして座っているわけではないのだ、どうしよう。
……おとうさん。
瞼を強く閉じ、在りし日のおとうさんを思い出す。楽しく一緒に弾けていたあの頃。最初に教えてくれたのは──そうだあれにしよう、なんて思った時には、指が勝手に動いていた。
「これなんだっけ?」
「学校で今やってる」
──きらきら星。
曲に合わせて子供達が歌う。他に客のいない日で良かった。うるさい。でも母親達は嬉しそうにしている。我が子の元気いっぱいな姿が見られて嬉しいのかと思えば、「綺麗ね」なんて言葉が耳に入る。……綺麗。いやきらきら星って誰が弾いても綺麗だから。そうだから。
潤んだ瞳から雫が落ちることはなく、曲が終わる。これでアイスミルクコーヒーは救われた。腰を上げようとしたら叫ばれた。
「アンコール! アンコール!」
え?
子供達が何か言っている。アンコール? そんな馬鹿な。構わず立ったら更に叫ばれる。
「アンコール! アンコール!」
母親達だ。何故? 悪ノリ?
「美弦ちゃん」
戸惑う私に鐘誓さんは言う。
「アンコールやってくれたら、デザート作ってあげる」
「そんな、あんまりです」
このお店、アイスミルクコーヒーだけでなく、デザートも美味しい。一緒に頼める余裕はないから、たまに作ってもらえると本当に助かる。あぁ、
「……っ」
私は椅子に座り直し、即座に鍵盤に触れる。次はあれだ。──ドレミの歌。子供達が元気に歌う。母親達までも何故か一緒に。うるさい。せめて弾き終わるまで誰も入ってきませんように。
──カランコロンカランと、大きく軽やかな音が耳に届く。
鍵盤に触れていた指が止まる。歌も止まり親子から不満の声が出た。仕方ないでしょう、こんな騒音きっと望まれてない。
最後までやっていないけど、アンコールはしてあげたんだ、それで良しとしてくれと、腰を上げようとした瞬間、
「続けなさい」
優しい声が聴こえてきた。
誰の声かなんて、探るまでもなく。
「あ、おかえりなさい店長。林檎買えました?」
鐘誓さんに話し掛けられ、店長と呼ばれたその人は──おとうさんは、うん美味しそうなのをね、と返していた。
そして、
「美弦」
私の名前を呼ぶ。
たったそれだけで、再開を求めてくる。
「……」
また、私は座り直し、指を動かしていく。親子達は歌わなかった。今度は静かに聴いている。さっきまでうるさいとしか思わなかったのに、今は欲しくて堪らない。
そうして私は弾き終えた。
拍手はない、アンコールの声もない。
それでも私は三曲目を弾いた。
「あら、これ」
「学校で習ったやつ!」
歌いそうな気配があったけれど、子供達は歌わない。訝しげに、お母さん? と母を呼んでいる。
この曲にあまり良い印象を持っていないらしい。
一回目、二回目、繰り返すこと三回目。
おとうさんはどんな顔をしているだろう。何の気なしに弾いて、何も考えずに傷付けたきっかけ。
おとうさん、どうかやり直させてください。
──四回目。
そこで弾くのをやめて、振り返る。
おとうさんは出入口に立ったままだった。眉根を寄せて、私を見ている。怒っているのか。それでも言わせて。
「おとうさん」
その目が見開かれる。
「ごめんなさい、おとうさん。私のおとうさんは……うん、お父さんは、毎日ちゃんと帰ってきてくれますよね? それだけでいいんです。いいんですよ、お父さん」
その口が震えているように見えるのは気のせいか。
「だからもう、何も気にしないでください」
──お父さん。
その瞼は閉じられ、すぐに開いた。
「美弦」
幸せそうに呼ぶものだから、なんだかその腹に肘打ちをしたくなってきて、そんな気持ちを逃がすようにぽんぽんと、椅子を叩く。
「久し振りにどうですか?」
「……そうだね」
お父さんはそこら辺の椅子を手に取って、私の元に来た。何年振りかの連弾、アンコールを何曲も求められ、アイスミルクコーヒーは鐘誓さんが飲んでしまったけれど、そんなことはもうどうでもよかった。
「ピアノがないと会話できない親子なんだから、我慢せず連弾すれば良かったのに」
母や鐘誓さんには間に入ってもらってかなり迷惑を掛けた。そう言われても仕方ない。でも、本当に。今は、本当に。
お父さんと弾くピアノが楽しい。
時間の許す限り求められる限り、私達親子の連弾は続いた。
緑々 黒本聖南 @black_book
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