あなたと働きたい

うたた寝

第1話


 自分は職場で必要とされているのだろうか? 彼はふとそんなことを考え始めた。

 テレワークで働いていると孤独を覚えるなんていう。初めこそ、彼はあまりその感覚が分からなかったが、そういうことを考え始めているところを見るに、多少なりとその影響は彼にも出ているのかもしれなかった。

 繁忙期、日付が変わっても仕事を続けていた彼を労うような声は同じ課のメンバーから聞こえない。深夜の遅い時間に作業完了のチャットを残している彼に一言くらい労いの声があってもいいだろうに、誰も何も言わない。『お疲れ様』も無いし、『ご苦労様』も無い。

 いい歳にもなって、自分の仕事を褒めて欲しい、と思うのが間違っているのかもしれない。仕事はするのが当たり前なのかもしれない。だが、彼だって人間だ。自分のやったことを評価してほしい、という気持ちはあるし、遅い時間まで働いていることを労ってほしい、という気持ちくらいある。

 だが、誰も何も言わないのだ。上司も後輩も。

 仕事が完了したことを伝えても、上司からお褒めの言葉など一つも無い。労いの言葉も無い。ただ淡々と次の仕事を渡してくるだけ。終わらせた仕事への興味など無いようであった。

 そういうものだ、と言われてしまえばそれまでだ。仕事を終わらせるために雇われていて、対価で給与も貰っているだろう、というのもその通り。それ以上を求めるのは間違っているのかもしれないし、欲張りなのかもしれない。

 それでも、仕事を終わらせて『お疲れ』の一言も無いのが彼は嫌で、彼は後輩たちには極力チャットをして気持ちを伝えるようにした。後輩のために夜遅くまで資料作りもしたし、一人一人の仕事の内容を長文のチャットで労いもした。

 だが、その反応はどれも芳しくない。送ったチャットにリアクションボタンをポチっと押して、それで終わり。夜遅い時間に送っていることはチャットの送信時間から分かっているハズなのに、そこに対する感謝の言葉も無ければ、労いの言葉も無い。

 夜遅くに投げたチャット。そこに返事が来るなんて期待してはいない。朝起きて、1行でも2行でも、何か感謝の言葉でも書いてくれれば、彼だって『やって良かった』と思えたかもしれないのに、来るのはいつもリアクションボタンだけ。

 リアクションさえ無い時もあった。グループチャットの通知ならいざ知らず、個別で投げているチャットの通知に気付かないわけはない。リアクションさえ面倒、そういう意思表示だったのかもしれない。

 始業してから半日ほど無視されたチャットだったが、不意にリアクションボタンが押された。そして続けざまに業務に関する質問が来た。質問するからリアクションボタンくらい押してご機嫌取らなきゃな、そんな意図を感じた。

 何でこんな奴らのために遅くまで資料作りなんてしなきゃいけないんだろう。言いこそしないがそんな風に思うことが増えた。夜遅くまでキミたちのために作業をしていたことくらい分かるだろう。何でそれをリアクションボタン一つで片付けられるのだろうか。

 後輩からすれば頼んでやってもらっていることではない。彼が勝手にやっているだけ、というのもその通り。見返りを求めるのも変な話ではあるのだろう。だけど、夜遅くまで後輩たちのために頑張って、その返事がリアクションボタン一つなのであれば、もうやらなくていいや、そんな気さえしてくる。

 頼まれた作業でも無いから残業代も出ない。ただ働きで後輩に喜んでもらいたい、とやっていることだったのだが、全て無駄なのかもしれない。あるいはリアクションを見る限り迷惑でさえあるのかもしれない。

 繁忙期にプラスして自分で増やした仕事量のせいか、あるいは精神的な疲労が乗っかったせいか、彼は二日ほど続けて会社を休んだ。

 自分は会社に必要とされていないのでは? と思う極めつけになったきっかけはこれだった。

 休み明け、まだ体調が悪いにも関わらず出社した彼の体調を労ってくれる社員は、上司も後輩も、一人も居なかったのである。

 テレワークだから、というのはあるのかもしれない。出社していれば出社時に声でも掛けてもらえたのかもしれない。顔を見れば、ふとした拍子にその話題になったのかもしれない。チャットだと、自分から発信しない限りきっかけが無い、というのは確かだろう。

 だが、逆に言うと、自分からわざわざ体調を気遣うようなチャットを出してくれる人は一人も居ないんだな、と。二日も休んで誰も体調を心配してはくれないのだな、と。その事実がどこか重たく彼にのしかかった。

 作業を続ける気にならず、彼は体調不良を理由に早退した。このメンバーのために体調悪いのを我慢してまで働く気になれなかった。

 後日、休みの日、彼は本屋へと出掛けた。見ていたのは転職やフリーランスなど向けの本棚。何となく頭では考えつつ、それでも行動に移したことは無かったが、彼は過去一番というくらい、転職に今揺れていた。

 社会人として甘い考えなのかもしれないが、自分を必要としてくれる職場に行ってみたかった。一緒に働きたいと思ってくれるメンバーと働き、体調が悪い時にはお互いに気遣ってフォローをする。そんな職場は現実では高望みなのかもしれない。

 転職、か。と、彼は一旦本を本棚へと戻した後、プログラミング関係の本棚へと向かう。彼の職業柄、よくこの本棚にはお世話になる。

 何か新しい本でも出てないかな? と彼が本棚へと向かってみると、

「………………」

 物凄い難しそうな顔で本棚と睨めっこをしている女性と目があった。

 あら、先客が居たか。居なくなった頃合いを見て戻って来ようと彼がその場を去る直前、

 あ、やべ、目が合った。

 彼の視線に気付いたらしく、彼の方を振り向いた彼女と彼はガッツリと目が合った。

 気まずくなった彼はすぐに背を向けて遠ざかろうとしたのだが、

 クイッ、と。服の袖を背後から摘ままれた。

 え? と思って彼が振り返ると、彼女は藁にも縋る思いなのか涙目で、

「あ、あの……。この辺の本、詳しい、ですか……?」

 彼女は本棚を指差して彼に尋ねる。

「まぁ……、人並には……」

 10年間くらいその業界で働いてます、はい、と彼が心の中だけで付け足していると、

「お願いがあるんですぅ……」

 涙目どころか彼女はグズグズ泣き出しながらお願いしてきた。



「はぁ……。全く業務についていけない、と」

「そうなんですぅ……」

 どうやら彼女は彼と同じ業種らしく、そこの一年目の社員らしかったのだが、プログラミング未経験、ということもあり、全然業務についていけていないらしい。

「『初心者歓迎』って書いてあったのに……、『何でそんなことも知らないんだ!』って怒られる毎日でして……。病む……」

 初心者なんだから知らないの当たり前だろ、って感じではあるな、と彼は考える。ただまぁそこだけだと何とも言えない。1年目とはいえ、新人研修などは終わっている時期ではあるハズ。研修内容として教わっている内容とかなのであれば、何で知らないんだ、と怒られても文句は言えない気はする。

 なので、

「新人研修とかってどんな感じだったんですか?」

 初心者にどれだけ優しい職場だったのか、彼がちょっと聞いてみると、彼女は背負っていたリュックから大分年季の入った分厚い技術本を取り出し、

「これ読めって……」

「…………まさかと思いますが、それで放置?」

 彼の問いにコクリと頷く彼女。ひでー、と彼は率直に言って思わんでもなかったが、まぁ他所の会社には他所の会社の方針があるわけで、黙っておくことにする。

 とはいえ、

「その技術本大分古いし……、何より中級者向けの本なのですが……」

「そうなんですかっ? どうりで1ページ目から何も分からない……」

 だろうな、と彼は思う。しかもただでさえその本、英語で書かれた本をほとんど直訳しただけの本だから説明も読みづらい。彼は本に書いてある内容の知識があるから、何となく言いたいことが分かるが、本の内容の知識が無い人だとチンプンカンプンだろう。あまり初心者に読ませるのに向いている本とは言い難い。

「職場の先輩とかはどうなんですか?」

 渡している教材が悪くとも、その教材を補完してくれる先輩が居るならまだ救いがあるな、と彼は思ったのだが、聞くと彼女の顔はさらに暗くなる。そういえばさっき彼女はよく怒られると言っていたか。

「職場の先輩に5つくらい離れた先輩が居て、その人がOJT担当なんですけど……」

「また大分離れてますね」

 大体一個上か二個上くらいが担当するのが相場だと彼が思っていると、

「離職率が高いらしく……」

「あー……」

 彼は察した。恐らく3年以内の離職率が異様に高い会社であろう。一個上、二個上がもう居なくなっている会社なのだ。多分ネットで会社名を検索すると、予測変換の上の方に『ブラック』と出てくるだろう。

「質問しに行くととりあえず一回すっごい怖い顔で睨まれ……。一応質問は聞いてもらえるんですけど、何を聞いても基本的には怒られ……。挙句初めての質問なのに『何度同じ質問するんだ!』と怒られ……。病む……」

 もう辞めればいいんじゃん、そんな職場、とか彼は思ったが、人様の人生なので黙っておくことにする。『初心者歓迎』とは? って感じである。強めの圧で歓迎します、ということだろうか?

「だからもう質問しに行かなくていいように知識を付けようと本を買いに来たんですけど……」

 逞しいな、この子、と彼が思っていると、

「……何がどれやらもう全く分からず……」

「なるほど……」

 初心者なんだからそりゃそうか。とりあえず、

「その手に持ってるの、中級者向けだからおすすめしませんよ?」

「……戻しまーす」

 そっと手に持っていた本を本棚へと戻す彼女。戻した本のタイトルから彼女が業務で使用しているのであろう言語を察した彼は、

「これかこれがおすすめですかね。全くの初心者なのであれば、イラストも多いこれがいいと思いますが」

 彼が指差した2冊を彼女は手に取って見てみる。彼に言われた通り、先ほど彼女が自分で手に取った本より大分読みやすい。

「………………」

 じーっと、彼女が彼の方を見上げてくる。

「な、何か?」

 彼が聞くと彼女は、

「ひょっとして、この本棚にある本全部読んだことあるんですか?」

 先ほど彼は本を手に取ることなく、本の背表紙のタイトルだけで初心者向けであること、どっちがイラストが多いかを言い当ててみせた。初心者向け、はまだタイトルから察せないこともないだろうが、本の中身のイラストまでは読んだことないと分からないだろう。

「まさか。流石に全部は」

「で、ですよねー」

 技術者になるにはこの本棚にある本全部読まなきゃいけないのか? と危惧した彼女は彼の返答に一回は安堵したのだが、

「2,3割くらいじゃないですかね?」

「……結構じゃないですか?」

「……ですね」

 休日に技術本を読むのがそれほど苦にならない彼は、本屋に来ては面白そうな技術本は手に取っていたので、言われてみれば結構な本を読んできたなー、と感慨深くなる。

「他にもおすすめとかってありますか?」

「ありますが……」

 彼女の質問に彼は一回考えた後、

「一度にたくさん買っても読めないと思うので、まず一冊読んでから次の本を探すことをおすすめしますが」

 そもそも休日に技術本を読むのが苦痛なタイプかもしれない。結果読まないで積んでおく、なんてこともありえる。まずはちゃんと一冊読めるのか、を試してからの方がいいだろう。

「なるほど……」

 彼女は彼の言葉に素直に頷くと、彼を見上げて、

「ありがとうございます!」

 満面の笑みで言われた感謝の言葉に、彼は面食らって固まってしまった。『ありがとう』なんて言われたの、いつ以来だっただろうか?

 彼はリモートワークだから直接『ありがとう』と言われる機会が無い、とかではない。通話を繋いで何かを教えた時も、『ありがとう』と言われた記憶は無い。チャットとかでもリアクションボタンで済まされ、『ありがとう』と言われたことは無かった気がする。

 最後にいつ言われたかも覚えていない、久しぶりに言われた『ありがとう』。『ありがとう』の言葉って、言われるとこんなに嬉しいんだな。嬉しくなって舞い上がった彼は、

「あっ、あのっ」

「?」

 彼は彼女が抱えている技術本を指差して、

「よ、良ければ……、今度、色々お教えしましょうか……?」

「………………」

 パチクリ、と彼女はキョトンとしている。あ、ヤバい、引かれたかな、と彼は即座に後悔する。ナンパと受け取られているかもしれない。彼はすぐに『あ、いや、何でもないです』と言おうとしたが、その前に、

「いいんですかぁっ!?」

 彼女から歓喜の悲鳴が上がる。その場でピョンピョンと飛び跳ねてさえいる。提案しておいてなんだが、そこまで喜ぶようなことだろうか? と彼が思っていると、

「嬉しいですっ! ホントに嬉しいっ! 誰かに教えてもらえるなんて夢みたいですぅ~っ!!」

 この子、相当に過酷な労働環境に居るんだな、と彼はコッソリと同情した。



 以来、業務終了後や休みの日などに予定を合わせて会うようになった二人。

 初心者向けの本だとはいえ、それでも本だけだと分からないこともあるようで、彼女はノートに質問事項をまとめて、端から彼に聞いてきた。

 凄いやる気のある子だな、と彼はその質問に一個一個丁寧に答えていった。そして、質問に答える度に、彼女は『ありがとう』と言ってくれる。質問に答えているのだから、お礼を言うのは当たり前なのかもしれないが、そんな当たり前が彼には嬉しかった。

 一通り質問に回答を貰えて嬉しそうにしていた彼女はノートを閉じると、どこか残念そうに彼を見て、

「あ~あ、こんな先輩欲しかったなぁ……」

 言いながら彼女はガックリと机に突っ伏す。そんなこと言ってくれるんだ、って彼は嬉しくなる。そしてそれはお互い様である。

「僕もこんな後輩が欲しかったな」

 彼の言葉に彼女は机に突っ伏したまま、顔をちょっとだけ上げて彼の方を見て、

「…………ウチに来ません?」

「……それ僕後輩にならない?」

「あっ、ホントだ」

 ケラケラケラ~、と彼女は笑う。冗談半分、願望半分で言ったのだろう。

 そして、その言葉に彼はふと思い出す。言われてみれば、転職って考えてたな、と。

 スマホで彼女の会社の募集要項を見てみる。中途は……、募集してそうであった。ただ待遇面は大分悪くなりそうである。給与だって大分下がるだろう。だが、

「……ん?」

 スマホから目を離して見てきた彼に首を傾げる彼女。

 もし入社できれば、そこには彼女が居る。

「何でもないよ」

 彼はそう言ってスマホを置く。

 会社の選び方など人それぞれ。

 待遇で選ぶことも給与で選ぶことも否定はしない。どちらも働く上で大事な要因であろう。

 彼にとっては、どれだけ待遇が悪くなろうと、どれだけ給与が下がろうと、一緒に働きたいと思える相手と、一緒に働きたいと思ってくれる相手と一緒に働けることの方が大事なように思えた。

 必要としてくれる人の傍で働きたい、と彼は思った。

「もし僕が後輩になったらその時はよろしく、先輩」

 彼が言ったこの言葉をこの時の彼女は軽く笑い飛ばしたが、ある時の彼女はこの言葉に酷く驚かされることになる。

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