二
兄の女装趣味のことは、ずっと知らないつもりでいたが、じつは思い起こすと、子供のころに一度だけ見たことがあった。そのときはふざけて母のスカートをはいただけだったが、いつもは温和な母が鬼ごとく激怒し、泣き叫んで謝る兄を何度も張り倒しているのが、本当に恐ろしかった。
母は基本的にはいい人だったが、男らしさに異常なほどにこだわり、女装など、男から少しでも逸脱したものを見聞きするや、烈火のごとく怒り出し、テレビにオネエキャラが出れば口汚くののしってチャンネルをかえるほどだった。
母の男性崇拝は、彼女の極度のファザコンが根底にあったと思う。母は長女で、生まれる前に父親が酒で死んだので父の顔も知らずに育った。酒癖の悪かった旦那のせいか、祖母はその後は再婚せず、貧乏家庭を女手ひとつで切り盛りし、長女である母は酷くコキ使われ、愛情をまるでもらえなかった(と後に母自身が酒のうえで私にしゃべった)。おそらくそれがトラウマになり、母の中に強く立派な父親像への異常なほどの執着が生まれたのだろう。
そのこだわりの標的はもっぱら長男である兄に向けられ、次男の私はそれほどではなかったが、それでも私が自分の部屋で、学園祭のウケ狙いで仲間と撮った女装写真を見ていたとき、入ってきてそれをひったくって見るや、たちまち顔をぐっと嫌悪にゆがめ、私を殺意むき出しの目でにらみつけ、「二度とするな」と言い捨てて引っ込んだことはある。
だが、二人目の息子だからその程度で済んだだけで、兄のほうはまさに地獄だった。「長男なんだから、私の父親くらい務まらなきゃダメだよ!」などと無理難題を押し付けられ、もちろん、なにがあっても泣くなどもってのほか、少しでも子供らしい弱音やわがままが出れば、すぐ怒鳴られては殴られ、あげくは疲れて足を組んで座っただけで、「なにセクシーぶってんだ! 女みたいなことすんな!」と足を蹴飛ばされるなど、わけの分からない言いがかりのような仕打ちを受けたこともある。
しかし、そこまでされても兄は、なぜかグレて不良になったり、精神を病んだりはしなかった。私にも秘密だったが、おそらく隠れて女装していたと思うので、そのせいで精神的に逃げ場があったのだと思う。記憶を思い起こせば、実はその証拠はちらほら浮かんでくる。
母にはバレずにすんだと思う。もし分かったら、どれだけ怒り狂ったか分からないが、そうなった話は聞かないからだ。母は何かあれば、同居の私にすぐに言う。
兄は東京都心の、うちから通えない距離の大学に入ったが、これは母から逃げるために絶対に必要だったと思う。一人暮らしさえ出来れば女装し放題だろうし、彼はやっと真の自由を得られるからだ。そして、それは実現した。
だが、そのことが巨大な代償を彼に払わせた。
それは取り返しのつかない、まさに最悪の結末だった。
「女装だってええええー?!」
その言葉を聞くや、母はかつて私が聞いたことがないほどの、いかずちのような大声で怒鳴りだした。
「なにバカ言ってんだい! あの子がそんな気持ち悪い、クソみたいなことするわけないだろう! いくら婆あでも許さないよ!」
だが岬さんは、あくまで冷静に母を見すえ、手帳を手に取って最後のページをめくった。
「ここに、Kさんのお名前があります。この手帳はKさんのものです」
「名前くらい、なんぼでも捏造できんだろ!」
「そして、名刺が貼ってあります」
白いカードを見せて、読み上げる。
「『アリス・アイランド 女装の館、店長、山田アリス』
Kさんがここに通っていたのは、間違いありません。お母さん、よくごらんなさい」と、Kの女装写真を突きつける。「この目、口元、お鼻立ち。あなたの息子さんのKさんそのものです」
「おぞましいこと抜かすんじゃないよ! 目が似てるなんて、よくあることだろ!」
「では、これを見てから、もう一度、あそこの幽霊の顔を、よーく見てください」
相変わらず浮遊している霊を指すと、母もそっちを見た。霊の顔は、恐ろしかったが、どこか悲しげにも見えた。
最初は私も気づかなかったが、今はもう確信した。そうだ、この目、口元、鼻立ち。
これはKだ。
兄のKが女装している姿だ。
「お母さん、なぜ大事な息子さんを、ご長男を殺してしまったのです?」
岬さんに問い詰められ、母は逆ギレした。
「なんであたしが、愛する息子をこの手でやらなけりゃならないんだよ! さっきから言ってるだろ! あたしはKと別れようとしない女を殺して、そこに埋めただけさ! まあバレちまったもんはしゃあねえ。警察にも行くよ、行きゃいいんだろ」
「わからないんですか?」
あまりのことに、岬さんも驚いた顔で言った。
「よく見てください。ここにいるこの幽霊は、あなたの息子さんですよ? Kさんを愛しておられるなら、認めてあげてください。でなければ、この方は永久に成仏できません」
だが、ここまで説得されても、母はますます激昂するだけだった。指さして悪鬼のごとく怒鳴り散らす。
「そんな気味の悪い、身の毛もよだつ化け物が、あたしの可愛いKなわけないじゃないか! 人を侮辱するのも、いい加減にしろよ! おまえは今、Kを汚物以下のクソにおとしめたんだ! もう許さないからね!」
「化け物ではありません。あなたのお子さんです」
住職はいったん目を閉じると、憐れむような顔になった。
「お母さん、嫌なのは分かりますが、どうか、この姿のKさんを認めてあげてください。Kさんの魂を救うには、あなたの愛情が必要なんです」
「なんであたしが、そんなどこからわいて出たかも分からんクソ女に、愛情なんぞやらにゃならねんだよ!
M(私の名)、Kをここへ連れてきとくれ! ずっと連絡とれないんだよ。なんかあったかもしれない。ああKの身になんかあったら、あたしは、あたしは――」
怖いからだけでなく、なにを言っても無駄だと確信したので、私は黙っていた。
母はもう、まともではない。
が、これだけ怒鳴られても、住職は火に油を注ぐのをやめなかった。「Kを成仏させるために、Kの女装を認めろ」としつこく言うので、ついに母は完全にブチ切れてしまった。
「おまえらみんなブチ殺してやる!」とわめいてスコップを持って振り回すので、我々三人は小屋に避難し、ドアに鍵をかけた。窓ガラスをスコップでぶち割って中に入ろうとした母の腕を、後ろから黒いそでの手が、がっしとつかんだ。お弟子さんが、とうに警察を呼んでいたのだった。
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母の精神は完全に崩壊していた。取調べでも一貫して女性の殺害のみを認め、警察がどんなに、たとえば遺体のDNAがKのそれと一致した、などの決定的な証拠を見せようと、それを信じることはなかった。周りがグルになって嘘をついている、と決め付けた。
母にとって、Kが女装していたことを認めることは、絶対にあってはならないことで、それをすれば、死すら招く恐ろしいダメージに繋がるのだった。Kが男らしくあることは、彼女の絶対のアイデンティティであり、生きるすべでさえあった。
アパートから女装したKが出てきたのを見た瞬間、母の脳は、彼女が致命的ダメージを受けるのを回避するべく、その情報を完全にシャットアウトした。それがKではない、全く別人の女性である、と信じ込ませた。母は女装したKを、「Kにちょっかいを出して付きまとっている不快な女」だと思い込み、そのように対応した。彼女はK本人を完全にKでない他人扱いし、「Kと別れてくれ」と頼んだ。
小屋で幽霊を見たとき、私はしばらくそれがKだと気がつかなかったが、それはあまりに不気味な雰囲気と、恐ろしさに飲まれて、まともに顔を見れなかったからだ。じっくり見れば、すぐに彼と分かったと思う。というか手帳の女装写真を見たとき、どこかで見た顔だという気はしていた。
Kの女装は、家族や知人に完全にバレないほどには完璧ではなかった。目、鼻、口元などに、面影は充分残っているし、そればかりか、そもそも背が高くて大柄なので、彼を知らない人でも、これは男性だとすぐにわかるレベルだった。
母も初見で気づいたはずで、だからこそ、彼女の精神が、自身の受ける恐ろしい衝撃を未然に防いだのである。
Kは母が自分を他人扱いしたとき、さすがにかなり驚いたろうが、おそらく瞬時にこう解釈したに違いない。「Kと別れてくれ」ということは、つまりこれは、「女装なんかやめなさい」という意味で言ってるんだろう、と。彼女特有の厳しさの表れだと。
そこで調子をあわせ、「いいえ、この趣味は自分の生きがいで、やめるわけにはいきません」というつもりで、「いいえ、別れるわけにはいきません」「私たちは、愛しあっている(これが本当に好きで、自分にとって絶対に必要なことである)からです」と主張した。
兄はおそらく、頑固な母も、こうして言い続ければ、いつかは折れて認めてくれるだろう、と思っていた。しかし母のほうは、本気で彼を見知らぬ女と信じ、何度も別れを強要していた。
そのうち、これはいくら言っても無駄だと悟った母は、ついに恐るべき計画を立てた。彼女はある日、Kに「あなたには負けたわ。いいです、Kとお付き合いなさい。お祝いにごちそうしてあげるから、うちにいらっしゃい」などと誘った。
Kは、さぞ嬉しかったろう。長年、Kが持っている、自分にとって都合の悪いところは全て否定し、ただ自分の理想の男性像のみを押し付けてきた母が、初めて本当の自分を受け入れてくれたのだから。
その晩、Kは女装姿で母の別荘を訪れた。まさか、母が自分を殺そうとしている、などとは、夢にも思わずに。
Kは○×という瞬時に命を奪う猛毒が入ったシチューを食べ、すぐに血を吐いて絶命した。母は彼の服を全て脱がし、裏の土手に掘ってあった穴に、持ち物ごと全てを放り込んで、また埋めなおした。
彼女は、全裸になった息子の骨ばった男性の肉体を見ても、それが男だとはまるで気づかなかったのだから、恐ろしい。というか、完全にイカれていた母には、もはやそういう思考は出来なかった。どんなにすぐそばで見ようが、それをじかに手で触ろうがつかもうが、運ぶときに背負いまでしても、それが胸のある女性のきゃしゃな体にしか思えなかったのである。
こうして兄は、あまりに理不尽な理由で母親に殺害されたが、その怨念は彼を悪霊にした。そして前述したとおり、我々を死体まで導き、警察に逮捕させたのだった。
私はあまりのことに、その後、ショックで数日間食事がとれず、一睡もできなかった。落ち着くと、母に対する怒りがわき、また兄の受けた仕打ちの悲惨さ、無念さに泣いた。
もう彼は戻ってこない。
ただ「女の幽霊」だけが、この世に墓標のごとく残った。
精神鑑定の結果、母は責任能力なしとされ、多摩西部の山中にある閉鎖病棟に、永久的に入院することになった。治る見込みはなかった。彼女がKの殺害を認めることは、最後までなかった。ただ毎晩のように病室で「女の幽霊が来る、あいつが来る」とおびえ続けて余生を過ごした。母が逮捕され、監獄のような病院に入れられ、実質、終身刑と同じ報いを受けても、兄の魂は成仏しなかったのである。
母の気のせいではない。私が何度か面会に行ったとき、実際に母の背後に女装したKの姿がうっすら見えたのだ。Kはずっと彼女を呪い続けているのである。
私は岬さんに電話して「Kをなんとか救えないか」と何度も頼んだが、彼女は「悪霊として封印するしか出来ず、それではなんの解決にもならないし、また、そんなことは個人的に絶対にしたくないので」と拒否された。先生はこの件について、相当の不快を感じているようで、取り付く島もなかった。
母はそれから数年後に、その病院で死んだ。その年齢にしてはあまりに早すぎる死だったが、衰弱死とのことだった。だが、そこはもともと評判の悪いところで、医療事故も多かったから、なんらかの不手際があった可能性もある。
だが今はもう、そのことを追求しようとは思わない。そこは母が死んで一年もしないうちに、立て続けにおきた訴訟による多額の負債であっというまに潰れ、廃病院になってしまったからだ。
それからまたしばらくして、ある噂を聞いた。その廃病院へ探索に行った廃墟好きが、病棟の中を飛び回る二体の霊を目撃した。逃げる中年女性の霊を、若い女性の霊が追い回していた、という。
どうやら母は死んだあともずっと、Kを自分が殺した女性だと思いこんで、おびえ続けているようである。(終)
女の幽霊 闇之一夜 @yaminokaz
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