女の幽霊
闇之一夜
一
「最近、Kに悪い虫がついたみたいなのよ。ねえMちゃん、なんとか言ってやってよ」
母がうるさく言うので、私は今度帰ってきたら話す、と返事した。
Kは私の兄で、二人兄弟のうちの長男である。母はKにえらく厳しく、東京都心の大学に通うのも、自分の目が届かなくなるからと反対するほどだった。母は、Kには将来一流企業に勤めて出世してもらうと昔から決めていた。Kは幼児期から「強く」「男らしく」「立派な」男に育つよう、母から徹底して管理された。それほどまでに、母は長男であるKを立派にすることにこだわった。一方の私は次男だから、さほど厳しくされなかった。
別に家を継ぐような事情があったわけではない。ただ、母が息子の性格や心身その他、あらゆる面で強い男性であることを求めており、長男のKにはたまたま、それをかなえる義務と能力があったというだけだ。幼少に父親をなくし、それ以後、自分の母親が再婚せず父というものを知らずに育った母は、あきらかに極度のファザコンだった。
Kが一人暮らしして家からいなくなると、母はとたんにそわそわして、彼にしつこく電話したり、わざわざ電車賃を使ってアパートに「偵察に」いくほどになった。そしてこのたび、ついに彼に「女の影」を見つけたのである。
同居である次男の私から、Kにひとこと言うようしつこく言われたが、彼が家に帰ってくることはめったにないので、電話するくらいだった。電話口の彼は家にいたときとは別人のように生き生きしており、家を出て本当に良かったんだな、と思った。
女について聞くと、「何も知らない、またお母さんの勝手な思い込みだろう」とすげなく言うので、けっこう驚いた。家にいたときのKは、母がどんなに厳しくしても口答えすらしない、従順すぎるほどの良い子だったからだ。
もしや、本当に女が出来たのかも、と思った。経験はないが、恋愛が上手くいっているせいで自信過剰になる、というのはよく聞く。だとすると、これはけっこうヤバいかもしれない。
だが母とて、Kもいつかは結婚すると分かっているだろう。もちろん自分がKにふさわしいと判断した相手でないと絶対に許さないだろうから、いまKが付き合っている女が気に入れば、問題はない。だが、そうでなかった場合は、かなり厄介なことになる。
これはKの問題で、私にはどうこうできないから、彼が大人しく母の言うとおりにするか、それとも反抗して自分の恋愛を貫くかは、彼次第でしかない。
ところがある日、事態は突如、最悪の方向へシフトした。
たとえば息子や娘が、そこから大学に通っている寮やアパートなどに、教育熱心な親が予告もなく勝手に来る、というのはよくある。子の管理者として、抜き打ちで様子を見にくるわけだが、うちの母も幾度かそれをした。そしてついにある日、母はアパートのKの部屋のドアから出てくる一人の若い女を見た。
彼女は一目見て、気分がむかむかしたという。
それは、さらさらの長い髪をキンキンの金髪に染め、ケバい化粧をし、赤基調の派手な身なりで、真っ赤なヒールを履いた女だった。母は水商売系の女と呼んだが、見た目だけで決め付けるのはどうかと思った(もちろん話を聞いたときの私は、そう思っても黙っていた)。顔は美人ぽかったそうだが、そんなのは化粧でどうとでもなる、きっとブスだよあれは、などと酷い言い草だった。
だが、私にそこまで言ったのも、相手と実際に会話したうえでのことだった。
低めでセクシー系の声で、いちおう挨拶は返したものの、Kとの関係を聞かれた女は、「付き合っています」とてらいもなく言い、母が安直に「別れてくれ」と頼むと、「それは絶対に出来ません」ときっぱり断った。
まあ当然だろう。いくら相手の母親の頼みでも、恋人とそう簡単に別れるバカはいない。しかも会っていきなりである。いい加減と思われても仕方がない。
だが母は普通の人間ではない。それからしょっちゅう出かけては、別れ話を持ちかけては断られ、帰ってから私に愚痴る、という愚行を繰り返した。
ところが、もういい加減あきらめたら、と提案しようかと思っていた矢先の夕方、帰宅した母の顔がやたら明るかった。女と話がついたというのだ。Kにそのことをこれから話すのが億劫だった私は、とりあえずほっとした。
だが、その後、話は急に不気味な方向へ進んでいった。
唐突にオカルトめいた展開が、我々家族を襲ったのだ。
まず母がいきなり、「いい霊能者を知らないか」と聞いてきた。いつになく要領を得ず、なんなのかさっぱり分からないので、問いただして、やっと事実が見えた。
驚いた。
女の幽霊が出る、というのだ。
母は東京郊外に別宅を一軒持っている。多摩西部まで行かないぎりぎりのところで、それでも周りは山が多く、ただちょっと行けばすぐ駅前でロータリーも商店街もあり、住むには不自由しないくらいのところだ。なぜそんな場所に家があるかといえば、今は亡き私の父(つまり母の夫)が以前持っていた別荘を受け継いだもので、特に使う理由がなく、といって売る気にもならず、ずっとうっちゃっていたものである。
だが最近、母はそこによく行くようになっていた。言わなかったが、わけはなんとなく察しがついた。そこはKの大学とけっこう近かったからだ。いわば監視のための拠点だったのだろう。
一度だけ掃除の手伝いで見に行ったことがあったが、別荘というよりはただの掘っ立て小屋で、丸木を重ねた壁など、洋風でおしゃれ感はあるが、中はせまく、部屋の真ん中に木のテーブルをおいて、まわりに椅子を二つおいただけで、もう歩きづらいくらいである。丸木の壁をくりぬいた窓からの景色も土手ばかりで殺風景で、いてもあまり面白みのない別宅である。
そこは駅に近いといっても、まわりはぐるりと森が囲み、木々と土手ばかりが続く粗野な場所に、その小屋がぽつんと建っている。見たとき木こりの休憩所みたいだと思ったが、気に障ると思って黙っていた。
だが結局掃除も適当で、その後使い道もなく、じゃあなんで掃除したのかと聞くと、「なんかに使えるかもしれないだろ」といい加減な返事なので、あきれた。まあ、いつものことだが。
私はある日、そんなふうに母が長男監視のための前線基地にしていた「別荘」に「女の幽霊が出る、なんとかしてくれ」といわれたのだった。
それは母が嬉しそうに私に「あの女と話がついたよ」と言った数日後のことだったので、私はいぶかって「幽霊って、まさかその女の?」と聞いてみた。
「そうさ」
母は、いやなことを思い出す目で言った。
「あの顔、目、鼻、化粧、体つき。そして派手なまっかっかな服。どう見ても、Kにつきまとってた、あの虫だよ」
「じゃ、そいつが死んだってこと?」
「さあね。別れるってあたしに約束してから、会ってないからね。まあ、もしかしたら、そうかもしれんわ。Kと別れたくなさに自殺とかさ」
「そんな、簡単に死ぬかな。だって、別れろってしつこく言っても、なかなか聞かなかったんでしょ?」
「わかんないわよ。あたしやKに嫌がらせのために死んだかもしれんし。そのくらいはやりそうな感じするわ。あいつの目つきったら、蛇みたいに陰険で執念深そうだったしねえ」
だが霊能者に知り合いなどいないので、あれこれ調べて、信用できそうな人を選んだ。都心の某有名なお寺の、岬さんという五十代の女性住職で、そのたぐいなき霊感によってかなりの数の事件を解決してきたベテランということなので、かなり期待できそうだった。
「生き霊の可能性もあります」
その晩、小屋に来た岬さんは、母の話を聞いて言った。剃髪した白い頭は上品な感じをあたえ、細い目が優しげだった。仕事着である袈裟を着て、小柄だがベテランの風格があり、私たちは一目で安心した。彼女は弟子のまだ若そうな細身の尼さんを連れていて、いま二人はテーブルに並んで座り、母と私に対峙している。
「死んでないのに、たたることがあるんですか?」
私が聞くと、岬さんはうなずいて言った。
「はい、恨みや恋慕などの念があまりに強いと、それが体を抜け出て、相手のところへ行って害をなすことがあります。
その女性の方は、息子さんと別れたくない、と強く思ってらしたのですね?」
聞かれて母は苦い顔で答えた。
「ええ、最後にはわかったと言って帰りましたけど」
「とすれば、その方の生き霊が、ここまでやってきているかもしれません。その霊は、そちらの窓に現れるのですか?」
住職が指すと、我々はそっちを見た。窓の外はまっくらで、墨を塗ったようになにも見えない。さっきまで月が出ていたが、雲に隠れたようだ。
「はい、その窓いっぱいに、張り付くみたいにして、こっちを覗き込むんですよ」と母。「あたしはもう、恐ろしくてテーブルの下に隠れちゃいますけどね」
そう言って顔をしかめたが、怖がっている様子はほとんどない。私は思わずため息が出た。この程度でビビるタマじゃないよな。
だが、いくらこのゴーゴンかメドゥーサみたいな母でも、超自然現象のたぐいに慣れているはずはない。きっと、ほんとは怖いのを気張って、平気なふりをしてるんだろう。気にしていなければ、こんなふうにわざわざお祓いなんて頼まないだろうし。
そして問題の午前零時になった。その窓に女の幽霊が現れる時間である。出るようになって今日で一週間で、このごろは毎日のように窓ガラスに張り付くようにぬっと現れるという。
我々は待った。外に突然風が吹いた。ひゅーという口笛のような音が合図になり、果たして、そこにはまっかなドレスを着た化粧の濃い女がいた。母の言ったとおり、蛇のような恨みがましい目で、こっちをじっと見つめている。幽霊なんて初めて見たが、確かに生きた人間が外にいるような感じがまるでせず、ぞっとした。しかも顔が窓の上のほうにあり、立つ位置が高すぎる。宙に浮いていなければ、ありえない場所だ。
霊はそのまま窓の中を移動して消えたので、我々は外に出た。もちろん先頭は霊能者の先生お二人、その後ろを私たち親子が続く。岬さんは手に黒い数珠を握り締めている。
霊は深い森の前にある土手の上に、両足をぶらりと下げて浮いていた。スカートが長く、膝から下しか見えない。岬さんが「あなたは誰? なぜここに来ているの?」と聞くと、女はおもむろに地面のあるところを指さした。どうも、そこになにかあると言いたいらしい。
岬さんが母に聞いた。
「そこを掘ってみても、よろしいですか?」
母はなぜか嫌そうな顔だったが、すぐに「はい」と言い、私は物置からスコップを持ってきて、母以外の三人で、そこの地面を掘りはじめた。
実は掘る前から何か嫌な予感がしていた。それは地面のその部分だけ色が薄く、最近掘って、また埋めたことが見てすぐわかったからだ。こんな場所でそんなことをするといったら、まず母だろう。いったいなにを埋めたのか。
母の不愉快そうな様子は、掘る承諾を求める前から、私たちが土を見たときから、いやもっと言うと、その位置にいる幽霊を見たときに、とうに母は顔が曇っていたのだ。それは、見つかって欲しくない、秘密にしているものを発見されたときの不快さに思えた。
我々が掘るあいだ、母はじっと見ていた。霊はそこから少し離れた位置で、変わらずにずっと浮いている。
掘り始めて数分で、何かに当たった。触ると、赤い布の端のようだった。破れないよう周りを掘り返して引き出し、土を落とすと、まっかな女性のワンピースだった。
「これに見覚えがありますか?」
住職が服を手に持って示しながら、母に聞いた。
「さあ、知りませんね」
母はぶっきらぼうに答えた。が、その目が一瞬わきの幽霊をちらと見たのを、住職は見逃さなかったようである。
さらに掘ると、今度は長い肩掛けひものついた小さなカバンが出た。あけると、黒い革の生徒手帳が入っていた。ひらいて、母をのぞく三人はわきの幽霊をさっと見て、目を見張った。手帳の最初のページに貼ってある女性の顔写真と、そこにいる霊の顔が、全く同じなのだ。
「はいはい、そうですよ!」
いきなり母が、もうめんどくさい、と言わんばかりに叫びだした。
「その女はねえ、私が! この私が! 殺して、埋めたんですよ!」
「な、なに言ってんの、お母さん?!」
さすがに私は目が点になって言ったが、母は開き直ったのか、まるで動じないばかりか、薄笑いまでして続けた。
「言っただろ、殺したって。Kにたかってたあのイヤらしい女を、殺してそこに埋めたのさ。そしたらこいつ、化けて出やがって。最悪だよ、まったく。
なんだよ、疑ってんのかい?」と、穴を指さす。「そいつの服と持ち物の下に、ちゃんとそいつ自身が埋まってるから、掘ってきゃ出てくるよ。まあ、とうに白骨になってるだろうがね」
「な、なんてことを」
私は腰が抜けそうになった。いくら息子のためとはいえ、殺人までするとは。兄が知ったらどうするんだ。ていうかKはこのことを知ってるのか?
頭がぐるぐるした。
が、ベテランの岬さんは冷静だった。死体とかは慣れているのだろうか。
「それが本当だとしたら……」と、母を見すえて重々しく言う。「申し訳ないですが、この霊を祓うようなことは出来ません」
「このまま、ほっとくってのかい。こいつ、私を憑り殺す気だよ? 霊能者ともあろうものが、悪霊をほっといて見殺しかい。お金、返しとくれ!」
「この霊は成仏させます。ただ、あなたのご協力が必要です。罪を認め、警察に自首して――」
「誰がそんなことするかい! あたしゃなにも悪くないんだよ! ぜーんぶ、悪いのはそいつさ! あたしの可愛いKに手ぇ出すから、こうなるんだよ! 当然の報いだろ!」
噛み付くばかりに怒鳴る母に、あくまで冷静に対応する先生。
「しかしですね、あなたがご自分の罪を悔いてこの方に謝罪しない限り、この方はあなたに取り憑き続けます」
「それをなんとかしてもらうために、あんたを呼んだんじゃないか! 雇ったんだから、ちゃんと仕事しろよ!」
「先生、ちょっと……」
急に背後から呼ばれ、岬さんが見ると、お弟子さんがまっかなハイヒールを持っていた。それを見て、私も岬さんも目を丸くした。
彼女はそれを取り、母に見せて聞いた。
「ちょっとお聞きしますが、その女性は、かなり大柄な方でしたか?」
「そんなこたあない。男受けする小さい女だったよ」
「ですが、このヒールは……」
見ながら、腑に落ちない様子で続ける。
「ずいぶんと大きいようですが」
確かにそれはでかかった。二十八センチはありそうで、男でも楽に履けるサイズだ。
「うるさいね。かかとがやたら高いの履くのもいるし、見得はってでかいの履くのだっているだろ」
「先生すみません、ちょっと」
また呼ばれ、今度はお弟子さんが手帳を見せた。
「この方の、お名前なんですが……」
読んで、私のほうがたまげた。そして、改めて写真と霊の顔を見比べた。
(ま、まさか、そんな)(ありえない!)
だが、そのわずかな期待も、一瞬でついえた。
手帳を示して、岬さんが母に言う。
「この方の、お写真なんですが」
「二度と見たくないよ、そんなもん」
「女のほうじゃありません」
と、手帳から一枚の写真を取り出した。
「写真の裏に、もう一枚のお写真がありました。男のです」
見て、母は急に目を緩ませた。
「おや、Kの写真じゃない。なにが変なのさ。そりゃ、男の写真くらい手帳に入れるだろ」
「この女性が、」と今度は女の写真を、二本指ではさんで見せる。「恋人の写真を入れていた、とおっしゃるのですね?」
「あたりまえだろ」
「ちがいます」
住職は、ゆっくりとかぶりを振った。
「これは、Kさんの写真です」
「はあ?! なに言ってんだい?!」
目をむいてキレる母にまるで動じず、彼女は女性の写真を示しながら、はっきりと言った。
「これは――Kさんが、女装している写真です」
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