十五夜、俺はかぐや姫に抱かれて月へと旅立つ

丸毛鈴

十五夜、俺はかぐや姫に抱かれて月へと旅立つ

 月を見ていた、はずだった。ごくふつうのワンルームの狭いベランダで。残業帰りの疲れた体を柵に寄りかからせて。


 月なんて見上げたのは、いつぶりだろう。帰宅はいつも深夜だから、見ようと思えばいつだって見られたはずなのに。ストロングゼロの酔いが回った頭でそう考えていた。雲ひとつない夜空を照らす、清らかな月の光に心が洗われる。


 それがどうだ。いつの間にか隣に「それ」がいた。シギギギギ、キキキキキと何かがこすれるような音をたてて、俺のほうを見ている。海老と蟹とムカデをかけ合わせたようなその容姿。背丈は俺の背をゆうにこしていた。黒々とした硬そうな表皮が、月光に照り映える。


俺はそれをまともに見た。腹にはうねうねと脚のようなものが幾本も動き、その中央では口らしきものが収縮を繰り返す。まがまがしい。しかし、あまりにまがまがしくて、目をそらせない。


 それは俺を見ていた。どこが目かいまひとつわからないが、脚の奥に赤く光るものがある。頭から生えた四本の触角が、俺の頬をなでた。背中がゾワッとして、ますます動けなくなった。さやけき月光が、見つめ合うそれと俺を照らし出す。


 それが突然、俺を抱き寄せた。虫のようだと思っていた脚は予想外に硬く、俺は遠い昔、当時付き合っていた彼女と奮発して食べた蟹の脚を思い出した。


直後、首の後ろに衝撃が走る。頭が垂れ、よだれがぽたりぽたりとベランダに落ちた。視界の端から見えたものから、どうやら目の前の異形が背中から出した「腕」が、俺の首根っこを貫いたのだと理解した。首にも口にも力が入らない。ぽた、ぽた、ぽた。唾液でベランダの床はとけたりしないだろうか。唐突に俺はそんなことを心配する。もしとけてしまったらしゅうぜんひ、が。


熱を帯びた痛みの後、冷たいものが流れ込む。脳内で何かがぱちぱちとはじけ、同時に視界でも線香花火のような光がまたたいた。


世界に、砂嵐がかかる。その向こうでうねうねと動いていた脚が消え、白い肌が見える、気がする。


 世界が明滅する。宇宙、おふくろ、今日食べたからあげ、ガキのころ飼っていた犬、ミトコンドリア、タイムカード、彼女、蟹、雪、隣のトモ君。「たっくん、はやくはやく。お母さんにバレちゃう!」。そうだトモ君と俺は隕石を見た。「十五夜を見に行こう」と夜、家を抜け出して。野原に落ちたそれは赤くくすぶって、なかでは何かがうごめいていた。「そんなものあるわけないでしょ!」。夜の外出を怒るおふくろの声。げんこつ。頭に衝撃が走る。あれいまおれはなにをしてだれなんだっけ。しこうはでんきしんごう。しなぷすのまたたきが。



 俺はベランダの床で目を覚ます。いつの間にか寝落ちしていたらしい。からだを丸めていたせいか、節々、とくに首の後ろが痛む。


「たっくん」


そんな俺を、彼女がしゃがみこんで見ていた。白い肌と黒い髪が、月光に照り映えている。母のような、昔付き合った女のような、懐かしいような、むしゃぶりつきたいような、でもそれのどれにも似ていないような。床から身を起こし、その顔を見つめると、女の薄赤い瞳と、俺の目が合った。どこかでこの瞳を見た気がする。そんな昔じゃない。ついさっき。


「たっくん」


もう一度呼びかけられ、「ああ」と呆けた返事をすると、俺の口の端からよだれがつっと一筋垂れた。


***


 その年の十五夜。SNSには謎の飛翔物体の動画がアップされ、ちょっとした騒ぎとなった。大きな透明の翅を月光に透かせ、腕に何かを大切に抱えて飛び立つそれは、節足動物か甲殻類のようなシルエットにもかかわらず、不思議と天女のように見えたという。

 ネット上でもっとも拡散され、合成ではないのかと物議をかもした動画は、たどたどしい子どもの声とともにその姿をとらえていた。

「見て! かぐやひめ! お月様へ帰るの!」

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十五夜、俺はかぐや姫に抱かれて月へと旅立つ 丸毛鈴 @suzu_maruke

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