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曹操の所謂徐州大虐殺は最近読んだ話にある程度納得できる話があったのですが、曹操の父を殺された敵討ちという側面もあったと思いますが、その場合は敵の対象は陶謙だったり、諸説ありますが張闓だったりだと思います。
それが徐州民皆殺しだと徐州を奪っても、治める民がおらず土地が荒廃するだけだったり、或いは皆殺しまでは行かなくもも、その後の統治が困難になります。
その為、演義版の描写にもある様な手当たり次第皆殺しの様な虐殺はやってないのでは無いでしょうか?
当時、中国の戦国時代辺りの史書にも記録が残っていますが、みせしめの為の虐殺というのは普通に行われていた様です。
特に皇帝に対する反逆罪などは巻き添えで叛逆した人の出身地を皆殺しなんて事もあったとか。
三国志でも城を攻めた際にまず降伏勧告をしますが、抵抗した場合攻め落とした際には守備の将などは処刑、特にひどかった時は皆殺しにして見せしめとする事があった様です。
当時、曹操軍は強力で、徐州攻めの初期に野戦で徐州側が迎え撃ったとき、徐州軍は弱兵であっさり負けてしまっており、そのため身の危険を感じた陶謙は高齢で以前ほどの覇気が失われていることもあって早々と逃げ出したそうです。
それから徐州軍が取った戦略は徹底した持久戦と焦土戦術。
苦労して城を落としても食糧や物資は燃やされたり破壊されたりで補給することが出来ず、どの城も持久戦術で激しく抵抗するから見せしめに皆殺しにしたと。
それは効果があった様で戦わず開城した城もあってその場合は皆殺しにはあってませんし降った将兵は曹操軍に加えられています。
ただ、陶謙が持久戦と焦土戦を命じたのかは定かでかなく、いくつもの城が皆殺しに遭い、徐州軍大敗の時に大勢の戦死者が出て遺体が川を染め堰き止めるほどだった事からそれも合わせて徐州の虐殺者というイメージがついたのでしょう。
しかし、結局曹操の目的は荒廃しきって飢餓状態でいつ暴発するかわからない青州の元黄巾を徐州を奪って食わす事だったのは明らかで、その証拠というほどでは無いですが、徐州を手に入れてから陶謙の一族や子供を探し出して処刑したという事もなかった様ですから。
そして、当時は城を皆殺しという行為は残虐ですが無かったわけでは無かった軍事行動の一つであり、陳登が曹操に仕え徐州の統治に携わると反乱離民が相次ぐという事も無く落ち着いていますから、戦乱に巻き込まれて難民となった人はいたでしょうし、それは黄巾が荒らしたところでも出たし当時としては珍しく無い話。
そう考えると、孔明が曹操に仕えなかったのは、タイミングの問題と孔明の性格、考え方の問題なのでは無いかなと思えてきました。
孔明が漢の再興を目指す劉備に力を貸したのは劉備がそれを望んだからで、記録に残るその言動を見ると漢帝国の衰退は時代の流れで止む無しと考えていた様ですし、献帝や漢帝国に対する忠誠心もそれほど高いとも思えません。
当時の孔明は隠者であり教えて貰わないとほとんどの人が知らない様な田舎に隠遁しており、若く何の実績もなく、ごく一部の彼を知る人しか知らない様な無名の人ですから、彼をわざわざ仕官させるために訪れる人はほとんど居なかったのでは無いでしょうか?
彼は志高く、自分の力を発揮するならそれこそ荀彧や郭嘉の様なポジションであるべきだと考えていた事は公明の友人達への人物評から明らかで、皇叔と称する劉備が自分を軍師として迎えに来た、それも何度も自ら訪れた時は若者らしく舞い上がる気持ちだったのでしょう三分の計を披露してしまう程に。
もし実際には無理でしたが、劉備が孔明を知る事なく漢の丞相たる曹操から招請の手紙が届いたなら彼の友人達がそうした様に、曹操に仕えた可能性はあると思います。
実のところ、彼は劉備に召し出されなければそのまま無名のまま田舎で晴耕雨読の人生で一生終えたと思います。
それは兎も角、仰る様に典黙が居るのに更に孔明となると曹操陣営に偏り過ぎますね。
徐庶は最終的に司空の位まで登っているところを見ると何も発言しなかったという事はないのでは?
ただ、多士多才の曹操陣営の中で重用を勝ち取るほどの歴史に残る様な献策が出来なかったのでは無いでしょうか。
しかし、文官として有能だったからこそ司空まで登れたのでしょう。一つのゴールですから大したものです。
暗殺してしまうというのは初めて読みました(笑)
作者からの返信
"孔明の気持ちはどういう物だったか"
ここで僕らの意見が別れましたね!
文字という媒体だからこそ人によって捉え方の違いが生まれますね!
龐統が落鳳坂で命を落とした結果についても
"龐統が手柄を焦って勝手にやった事"と"成都侵攻の口実作り"など見解が別れたし
このように同じ登場人物でも違う視点で見れば他の人と意見の交換ができる!
これこそ歴史小説の面白みですね!
これからもこのような違う視点のコメントを期待します(っ ॑꒳ ॑c)ワクワク
諸葛亮暗殺に踏み切るとは新しい展開。
諸葛亮が曹操に仕えない理由で一番大きいのは徐州の大虐殺を起こした(もしくは止めなかった)事が原因の一つとされてますからね。
曹操による徐州大虐殺の自分なりの見解
青州牧に任命された孔融の儒の教えに則った政治(孔子の時代の生活をすれば民が幸せになるというトンデモ理論)→青州の住民「こんな生活出来るか!」→
青州で太平道による大反乱→孔融、失政を理解せず洛陽へ招喚(という名の逃走)→
名家「孔子の末裔を裁くなどとんでもない!」で孔融の無罪確定→
青州の住民「青州で生活出来ないから他所へ行こう(多数は無自覚に黄巾巻いてる)」→
曹操(劉岱が戦死後、兗州刺史になった)「こっち来んな、来たら征伐する」→
張闓「同胞を受け入れない曹操に目にもの見せる」(陶謙に冤罪被せる様に曹嵩殺害)→
曹操「おのれ陶謙!黄巾賊と組んで父上と弟を殺しやがったな!」(徐州手に入れる序でに青州黄巾賊も虐殺。徐州民も多少巻き添え。諸葛一家も荊州へ避難)→
張邈と張超「曹操が青州黄巾賊と組んで徐州民を虐殺しやがった!」(誤解の挙句に漢朝の将軍である呂布を陳宮の伝手で招聘し、曹操から離反)→
宦官に散々煮え湯を飲まされたありふれた名家集団「全て曹操が悪い!!」→
何も知らない大耳さん達「曹操ならやっても不思議じゃない」
おそらくこんな感じだったりすると思うのですが。
作者からの返信
鋭い分析ですね!
三国演義では諸葛亮は隆中から出た時には既に漢王朝の命運が尽きたと予知していた
それでも曹操では無く劉備に仕えたのは恐らく荀彧と同じような"大漢への忠誠を尽す"という思想を持っていたでしょうか。(荀彧は曹操の野心を見てから初めて気づくけど🥲)
いつの時代でも思想という物は戦火を引き起こす呪いのような物
このような思想を持つ諸葛亮は恐らく曹操の配下に加わる事は無いでしょうね🥲
編集済
>「いいえ、標的は劉備ではありません、他に居ます!」
>「どんな恨みがあるかはさて置き、君がそう言ったんだ、その人に往生してもらおうか」
(━_━)うーむ
物語の主人公として『安易な暗殺』はどうだろうなあ。
せめて、『諸葛亮の才を曹操に説明して、曹操に仕えるように勧誘して、それがダメならせめて劉備には仕えないと約束させ、それも断るなら』という条件付きの暗殺依頼にして、すれ違いとか現場判断で暗殺が行われたという体裁があると『正統派主人公としての格』が下がらないけれどなあ。
そうすれば、ついでに曹操の人材収集癖にも配慮する体や曹操の王道にも配慮できるけど
それをしないと、主従がダークヒーロー系とか、悪役系に近づくのがなあ。
そっちの路線も普通の戦記なら普通にやってるけど、『転生』と結びつくと途端に狡猾な悪意という意味でのチート臭が漂うので要注意なんだよなあ。