陽はまた昇り、世界が色を変える
安全第一の降下でも雲海を脱出して地上が見えてくるのはあっという間だった。かつての私が見上げるばかりだった暗雲はイメージほど厚くなかった。
私は今もドラゴンの肩に跨り、巨大な首に両腕を絡めたままエスコートに甘んじている。
空中戦を終えて静寂にかえると、所々が熱に溶かされたアオザイ姿でカエルのような体勢を強いられていることが恥ずかしくなってくる。
ただ、不思議とこの体勢を維持すること自体は苦痛ではなく、共存を許されていることが何だか誇らしかった。
「帰ってきた……」
火刑に処され、先程のワームのように肉体を焼き尽くされたはずの私が地上へ再び舞い戻る。格好が惨めなせいで締まらないなんて、全長28メートルの怪物と共に在る以上は誰にも言わせない。
しかし、何もかもが都合よく運ぶわけでもないらしい。大蛇の形をした紳士に案内され、辿り着いたこの場所は一面の草原地帯だった。
確かに、考えもなしにツキウ国へ凱旋したところで魔女が化けて出たと思われるのは目に見えている。あらためて嬲られるだけに違いないから、一先ず安全な場所で気持ちを整理する時間が欲しいのは本心であり、賢明な判断だと思う。
とはいえ、あまりにもここには何もない。人類の生存に必要な要素が足りない。世間知らずの温室育ちが野に放たれたところで餓死を待つだけということをこの上位者は知っているのかしら。
――あたり一面が鮮やかなグリーンカラーで染められている。その上空には……。
私の不安などに構わず、ドラゴンは両翼を自在にコントロールして大きな足跡を大地に刻んだ。私たちの世界に新たな遺産が誕生した瞬間だった。
ただ、どれだけ丁寧な着地であってもその巨体が不可抗力で発生させる風圧は凄まじく、周囲の雑草に溜まった水分が噴水のよう飛び散った。
ドラゴンが跪くような体勢で首を地面に近づけてくれたおかげで着地は容易だった。足裏に弾む深い草原が心地良く、同時にくすぐったかった。処刑台に連行される前、この格好にさせられた頃からずっと裸足だったことを忘れていた。
……本当に地上へ帰ってきてしまった。ここがどこかは分からなくとも、復活は確かに果たされたのだった。
後脚で佇むドラゴンと体面する。二足歩行も可能なのかもしれない。その雄大な存在に凝視されると、あまりのスペックの違いに劣等感を覚えることすら馬鹿らしくなってくる。
熱線に目が眩む直前、黒竜の瞳が日光のように煌めくのが見えたけど、今は元の金色に戻っている。
――不思議なことに、その黄金は金貨や宝物というより、懐かしい空の色みたいだと感じた。
ドラゴンの瞳に覗かれると、自分の邪な部分が全て露出されるような気分になる。
ワームの大群を一掃できたのはこの黒竜だけの戦果。私はその首に必死にしがみついていただけで、勝利には一切貢献していない。
昔話が脳裏をよぎる。ザンに助けられるたび、碌に感謝を伝えることもせずに虚勢を張っては、独りで自分の愚かさに失望するようなくだりを何度も繰り返してきた。
今も変わらない。死してなおも、私は彼らの指導者に足る器にはなれなかった。
地上に舞い降りた空の覇者と静寂の中で向き合っている。勝手に弱っていく私を相手に黒竜からのアプローチは何もなかった。
この気まずさ。見てきたもの、触れてきたものがあまりにも違うせいでお互いのペースが分からず、どう歩み寄れば波風が立たないのかを探っては時間だけが過ぎていくやるせなさにかつての憧憬が蘇る頃、おもむろに巨大な両翼が羽ばたきを見せた。
「……ぁ」
風圧にエメラルドの長髪が乱れ、綻びだらけの死装束がなびく。雨に塗れてテカった雑草が飛び散る様は神々しい光の粒子みたいだった。
しかしそれは、試練を乗り越えた私を迎えに来た天使の演出ではなく、あの大空を駆る者が在るべき場所へ帰還する前触れに他ならなかった。
グリーンを踏み潰していた深い足跡が覗えた。それは、ドラゴンが私の元から離れていくことを意味している。ワームの大群から助けてくれただけでなく、その後のアフターサービスまで見事だった紳士との決別の時が来た。
それは甘んじて受け入れるべき結果であり、この者に対して私がしてあげられることなど何一つとしてないのだから黙して離陸を見送ればいい。だけど……。
「ま……待って!」
そう分かっていてもなお、私の我儘と自分勝手は止まらなかった。成就されることなく黒焦げになった想いを忘れることができず、上位者の逆鱗に触れることも承知でその飛翔に待ったをかけた。
「あ……えっと……」
しかし、情けないことに言葉が出ない。格上の慈悲を無碍にするほどの非礼かもしれないけど、ずっと他者を見下してきた私にこそ礼節というものがよく分からない……。
ただ「行かないで」と、素直に弱音を吐露することさえ出来なかった。やり方が分からなかった。
「聞きたいことがあるの……」
「グルルル……」
決別を避けるために時間を稼ぐ。そのためには質問が最適だと、言語コミュニケーションが叶わない相手だと知っても構わず試みた。学習しない私に呆れたか、あるいは苛立っているのか。離陸をやめたドラゴンが唸っている。
その様子に畏怖は感じない。格好悪くこの肩に跨り、首にしがみ付いていた頃からこの時まで、ドラゴンが私に敵意を向けてきたことなんて一度もなかったのを確信している。
それはきっと、生まれた時から最高の地位を約束され、豪奢な城で大事に育てられただけの私では到底持ち得るはずのない『■■』をずっと背負ってきた彼の姿が重なって見えたからだと思う。
1カ月前のこと。まだ錆びついた思い出にもなっていないあの出会い以降、私の充実した日々は始まった。私とは真逆の境遇に置かれながら、私が憧れてやまなかった本当の強さを持つ真の英雄と過ごした革命前夜。
どれだけ生物のレベルが違くてもそこは問題ではない。共通点があまりに多過ぎる。彼とあなたはとてもよく似ている。
今からデタラメなことを聞くわ。デタラメの只中にいるのだから別にいいでしょう?
私の言葉が理解できているかも怪しいけど、せめてリアクションくらいは起こしてみてほしい。それが余程の不快だったなら、この首を千切って捨てても構わないわ。
――だって、ここにはあなたしかいない。たとえ短い付き合いだったとしても、私には『貴方』しかいなかったのだから。
「……ザン、なの?」
向こうからしたら訳の分からない質問かもしれない。そも、人語が伝わるかも定かではないから、この人間の雌はさっきから何をそんなに焦っているのかと呆れ果てている可能性もある。
だけど、譲れない想いがあった。まだ時期が早過ぎると臆病になって伝えきれなかった情熱の告白。芽吹くことなく終わった大切なものが。
その分、二度目となる今回はもう遠慮はいらない。
彼に対しては正直になろうと、以前は私自身はっきりと自覚できなかった彼に対する特別な感情の正体に死してようやく気付くことができた。もう、制御不能でおかしくなりそう。
「ザン……?」
「……グゥゥ」
女王としての『誇り』は捨てた。そんなものがあるから素直になれなかった。国を変えるとか、世界を憂うとか……そんなことより最優先でやるべきことがあるのだから。
決断はまだ成されない。それでも、その譲れないものへの拘りが度を越えて燃焼した時、私はドラゴンのように架空のストーリーで躍動する『■』に悩むヒロインへと成り果てた。
今の私を彼が知ったら尚更哀れに感じるかしら?それとも……。
「ガァァァァァァ!」
――それとも、このドラゴンのように(いつもの貴方のままで)……私の希望を承ってくれるのだろうか。
それは英雄の凱歌に等しい誉れ高い叫びだった。
自らの本領。いつでも届くあの空を見上げて黒竜は鳴いた。両翼の羽ばたきを凌ぐほどの迫力に空気が乱れ、大地が揺れる。
黒竜は私を降ろしてくれた時と同じようにその長い首を地面に近づけた。言葉が通じなくてもその行為の意味が分かったため、私は歓喜の涙と共に両手を広げてそれを受け入れた。
それは同時に、再びまみえることが叶った空の球体を拝む格好にもなった。
「ああ、やっぱり……」
ドラゴンの顎を優しく撫でた。
肩に跨った際。、特に熱線を放った際など、その体温はいかなる生物も寄せ付けない灼熱の域に達していた。それなのに、私にはこの者と触れ合う資格があった。
理屈なんて未だに分からない。死後の体験全てが埒外でリアクションに疲れた頃、それらの事象にはもしかしたら確かな事情なんてないのかもしれないと考え始めていた。
だけど、今はそんなことどうでもいい。
ただ翻弄されるばかりなのが気にいらないからではなく、今はひたすらにこの黒騎士が愛しくて、私も彼の期待を裏切りたくなくて……その他の事象全てが余分に思えてならなかった。
「やっと触れ合える……」
まるで授かった小さな命を愛でるように、大きく頑丈な口角に優しく触れる。人懐っこくて毛深いだけの小動物などより、私にはこっちの方が好ましい。
この優しい黒竜がザンである確証はまだない。ザンがドラゴンに生まれ変わったなんて、私ですら信じ切るにはまだ時間が掛かる。
傍から見れば、化けて出た獣心の魔女が気持ち悪い妄想に溺れていくだけの醜いストーリーに映るかもしれないけど、もう本当に全てが関係ない。
「いいわ。信じてみせる」
舞台上にすら現れない第三者のお気持ちなどに構わず、彼の温かい顎に口づけをした。それは死してようやく覚知した愛情の表出であり、これから自分が何をするのかを決する契約の儀でもあった。
どうして復活できたのか。どうして雲海よりも高い場所から落とされたのか。そして、どうしてドラゴンは私を助けてくれたのか。そも、このドラゴンは一体……。
謎は解き明かされていない。処刑台送りにされた理由は明確なのに、その後のデタラメは手に負えない。
もしかしたら、意味なんてないのかもしれない。
先人たちが「そういうものだ」と考察を止めた事柄ばかりが蔓延る世界に生まれてきたせいで、真実を知る誰か(何か)が単に気分屋なだけだったとしても「そういうものなのね」と容易に受け入れてしまいそうな気がする。
相変わらず私は強い誰かに助けを乞うばかりの温室育ち。女王に相応しくなかった結果を悲観しては、いっそ乙女のような盲目になりたいと駄々をこねてドラゴンを引き止めた。
それでも生きているのなら、彼の意思がまだ私の隣に在るというのなら、黒竜に跨りどこまでも飛んでいけるというのなら……目的は自ずと絞られてくる。
「やっていいなら、やってやろうじゃない」
目蓋を閉じて落ち着くドラゴンを見ながら私の方は奮い立った。生前の取りこぼしを回収するために再挑戦を決意した。
私が死んでからどれくらいの時間が経過したのか。シセナと彼らがまだ存命で、ツキウ国の空がこことは違って未だに暗いままなら急がなければならない。
これは復讐ではなく救世。死してなおも約束の革命は果たされる。
私たちがこれからやることが、私を蘇らせた誰かの望みとは違うとしても……どうかその瞬間まで私たちを止めないでほしい。
「ツキウ国を救いに行きましょう、ザン」
これからの旅路で黒竜の正体がザンなのか、それとも私の勘違いだったのかと……答えが出るかは分からない。加えて、蘇った私がどれだけの時間動き続けられるのかも知る由がない。
ツギハギの決起。情報の不足はそのまま不安となり、立ち上がったばかりの私に重くのしかかる。
ただ、ドラゴンのおかげで判明した謎もあるため胸の灯火は消えない。
本当に世界を救ってしまいそうな事実のため、イレイヤとブラケイドですら一発で掌を返す可能性がある世紀の大発見だった。
それは、この雲一つない澄み切った青空を見上げれば確かなこと。
雲海の中に生息していたワームが一匹ずつ死滅する度に暗雲が次々と消滅していくのを確認した。どうやら、そういう仕組みになっているらしい。
結果、ワームが一匹もいなくなったこの草原の上空には陽が昇り、うんざりするばかりの暗い世界を明るく照らし出していた。
彼と一緒ならどこへでも行ける。何だって出来る。その信頼は戦いを知らない女の過信ではなくなった。
生憎、ここには私たちの他に誰もいない。現存する人類の中で最初に日光を浴びたのは、皮肉にもその人類により処刑された私たちとなった。
生まれて初めて見る完璧な晴天。遠くに座すあの眩し過ぎる太陽を、恋した貴方とふたりきりで占領できたことが幸せだった。
続く。
悪逆恋情・画竜点睛 壬生諦 @mibu_akira
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