第10話 中原諸国

   史記 史略 史記比 史略比 比率対

魯  5722  673  5.14% 4.97%  96.67%

蔡  1510  41 1.36% 0.30%  22.32%

曹   781   25 0.70% 0.18%  26.31%

陳  1806  56 1.62% 0.41%  25.49%

衛  3211  281  2.88% 2.07%  71.93%

宋  4126  211  3.71% 1.56%  42.03%

鄭  4578  107  4.11% 0.79%  19.21%


 こちらは先に数値を出してしまおう。ご覧の通り、魯衛ろえいを除いて壊滅的である。とは言え衛については孔子こうしの高弟、子路しろが殺害された話であるとか、孔伋こうきゅうが衛の政治に絶望したりであるとか、ネガティブな内容ばかりであるため、「魯一国のみが圧倒的に重んじられている」と言ってよいだろう。


 そうだが、こちらも完全にネタ枠であるため、やはり良い扱いであるとは言えまい。「宋襄そうじょうの仁(笑)」を春秋五覇に据えたり、宋の康王こうおう、無道の限りを尽くし、先祖の名前(宋はいんの王家の子孫である)を借りて「宋桀そうけつ」と呼ばれる人物など、ウケ狙いとしか思えぬチョイスがなされておる。アンタレスおじさんはよくわからぬ。


 さいそうちんはもともと史記しきでも扱いが小さいため、十八史略の扱いが軽くなるのはやむをえぬのだろう。その中で陳は将来に子孫が田斉でんせいを開基する陳完ちんかんがいたため、若干文字数が増えておる。まぁ、とはいえ木っ端である。


 以上を一通り見たときに際立つのがていである。その減衰率は「あの・・しん」以上に凄まじい。東周とうしゅうを始めに支えた覇者の前身とも呼びうる国でありながら、なんとも残酷な扱いであろうか。その叩きぶりについては、曽先之が鄭に親を殺されたのでは、ぐらいしか思いつかぬ。

 ここに頑張って作者の限られた知見をひっくり返せば、論語ろんご衛霊公えいれいこうの「放鄭聲,遠佞人。鄭聲淫,佞人殆。」に行き当たるであろうか。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069/episodes/1177354054934653162

 論語において、孔子が「鄭の歌は卑俗だからクソなので捨てろ」と語っており、後世にこれが「鄭人=クソ」ぐらいに拡大解釈されたようなのである。鄭の地域出身の人々には嫌がらせのような話であるな。

 十八史略を初学者向け歴史書、と位置付けるなら、その講義はいきおい講談的にもなりそうである。また論語は十八史略よりも早くに暗誦が始まりそうな気もする。ともなれば、鄭の話が出たときに十八史略の授業が大荒れしたのではなかろうか。故に鄭の歴史が大幅に削られ、教え手の負担を最小限にするよう計らわれたのでは……まあ、妄想も甚だしいな。よもや晋と楚、魯とのはざまゆえに取らねばならなかったコウモリ外交を曽先之が嫌がった、というわけでもあるまいが。いや、あの辺りの従反常ならぬスタンスを追うのは地獄の苦しみでもあるしな……むむむ。

「鄭人」が嫌われるに値するミームとして機能していた、が、この鄭の薄さには一番しっくりとくるような気がしてならぬ。しかしそうすると鄭姓の皆様は地獄であるな。さぞいじめられたことであろう(発想の飛躍)。


 魯。十八史略にて大半の君主の名が載るのはしゅうしんちょう、そして魯である。周は宗主国、趙はよくわからぬが謎の厚遇なので、まぁありえぬことでも、ない。問題は楚と秦である。なぜこの二国だけ無駄に君主名が連なるのか。これの理由が知りたい、まるでわからぬ。おっとここは魯を語る所であった。とはいえ魯は問題ないのである。なにせ隠公いんこう以降、哀公あいこうまでを諳んじられねば春秋の事績把握に地獄を見る。二十一世紀の日本人がアルファベットをAからZまで言うのと同じくらいの感覚で暗唱できねば話にもなるまい。そういった意味で魯の君主名羅列には確かな意義があるし、哀公のあとの君主の扱いがやや雑なのもやむをえぬ……のか?

 いや、戦国時代の話で恐縮なのだが、三晋文立の時の魯公である穆公ぼくこう以後、共公きょうこう康公こうこう景公けいこうと続くのだが、何故か曾先之が景公をすっ飛ばすのである。ただのボケであればまぁよいのだが。

 ちょうど名を出したので、そのまま穆公の話をしよう。諡法解しほうかいという諡辞書を引くと、穆とは「徳行を世によく振り撒いた(布德執義)」「その情け深さが顔にも出ている(中情見貌)」者に付けられると言う。対して十八史略に載るは繆公びゅうこう。やはり諡法解を引くと「見せ掛け倒し(名與實爽)」と載る。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054891761481/episodes/1177354054891761507

 見事に真逆なのである。アフター獲麟かくりんの魯公であるため史記で確認を取ることとなるが、こちらでの記載は穆公である。その事績を眺めると「三孫氏から実権を取り返した」「孔伋を採用仕損じた」。前者の功績はまさに名君と呼ぶにふさわしいものであるが、十八史略には載らぬ。載るのは後者のみである。前者が「国公が大夫に実権を握られた」と言うあらすじに適合せぬために省かれておるようにも思える。晋文公のところを見れば明らかであるが、曾先之は自らの主張のためなら平然と憶説をもぶちこむ。ならば穆を「うっかり繆と見間違え(棒)」、暗君に相応しきふるまいに仕立て上げた、としても不思議ではない。どうせこの頃の魯は戦国覇権国らに削られ、すでにクソ小国であるしな。

 それにしても曾先之は、どうも春秋時代の諸侯らをのきなみ「周王をまともに盛り立てなかったクソ」的に見なしておるような気がする。これは南宋の滅亡を目の当たりとしてしまった亡国人の自責か何か、なのであろうかな。


    史記 史略 史記比 史略比 比率対

孔子 7142 584   6.41%  4.31%  67.21%

老子  457 179  0.41%  1.32% 321.94%


 中原諸国コメンタリーのおまけとして、この二人についても触れておこう。春秋時代においてこの二人の特記は、他がみな政治人物である中異色である(孔子が政治人物? はははご冗談でしょう)。そして文字数そのもので比較すれば圧倒的に孔子のほうが上だが、問題は比率対である。老子の倍率がありえぬことになっている。他国、他人物、すべてを勘案し、ここまで比率がはねている存在はない。

 無論小さい数字が更に小さい数字になっただけであり、やや牽強付会な論であることの謗りは免れきれぬであろう。とはいえ道教の存在感を考えると、名目としては儒教、素の部分では道教、を重んじたくなるのが中国文化のような気もせぬではない。ともなれば、ひとまず孔子は称揚するが、とは言え老子も一緒に称揚したい、となったのやも知れぬ。

 魏晋南北朝期におけるまことしやかな噂話として、名の後ろに「之」字をつけるものは道教徒である、といったものがある。魏晋南北朝と南宋末では 900 年近くのタイムラグがあり、そのまま受け入れるわけにもゆかぬ。とはいえ、どこかのタイミングで「名に之を付けるものが道教徒」なる説話に信憑性を帯びたからこそ、こうした試論が生まれたのであろう。それが、もしやして曾先之の時代だったのやもしれぬ。

 まあ、そうではないのやも知れぬ。妄想は自由である。重要なのは、各仮説に対して少しでも検証に値する史料が見出されたときに柔軟に動けること、であろう。そのためにも、妄想をただの妄想と片付けず、遊びたいときにすぐさま引き出せるよう、折りに触れ愛でておきたいものである。

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