瑞色の唇

うみけねこ

第1話

「あ~……疲れた……」


6月30日、金曜日。時刻は19時03分。すっかり夏の香りが漂う時期になって、見上げた空に、まだ僅かに残陽が残っていた。

そんな空の下を私──白瀬優菜はコンビニの袋を片手に、汗をぬぐいながら歩いている。

カレンダー上ではまだ6月だというのに、既にむせかえるように暑い。今年はいつもより夏が近づいてくるのが早いような気がするが、それ以上に、肌にまとわりついてくる、この湿気が鬱陶しい。

どうせ暑くなるならカラッと乾燥して暑くなってほしい。この湿度の高い時期が、1年の中で最も嫌いな時期といってもいい。


「早くシャワー浴びたい……」

こんな日は早くシャワーを浴びて、ゆっくりとくつろぎたい。あまりの暑さに1人でそう呟きながら、黙々と歩に、コンビニの次の角を左に曲がって路地に入る。そこから少し歩くと、自動販売機のあるY字路があるので、そこを右に曲がると、アパートの前につく。


2階建て、木造建築、全10部屋の学生向けの小さなアパート。ここが私たちの住む家だ。ポロシャツの胸元をはためかせ、2階へと続く階段を登っていく。私たちの部屋は階段を登った右手、7号室だ。



「ふぅ……」

最寄駅から徒歩25分。誰かと歩けばすぐだけど、1人で歩くと長く感じるこの道を、1人でえっちらおっちらと歩いてきた。それに、今日は朝からバタバタしていたのもあって、軽食しか食べていない。暑いしお腹減ったしで、もう疲労がいっぱいだ。


汗を拭って、さっきから主張してやまない腹の虫を抑えこみつつ、ポケットから取り出した鍵を差し込む。


ガチャッと音を立てて、扉を開ける。扉を開けると、中から冷たい空気が漏れ出してきた。


「ただいま〜……」


「おかえりなさい!」

ドアを開けるとすぐに、エプロンをつけた同居人が、パタパタとスリッパを鳴らしながら近づいてきて、


そして──そのまま、私にハグをした。


帰宅したら必ずハグをすることは、いつからか私たちのルーティンになっていた。


「ただいま。今日はご飯ありがとね」

私も彼女を抱きしめる。もうお風呂に入ったのだろう、髪からはうっすらとシャンプーの匂いが漂ってきた。


「ううん、先週は優菜ちゃんが作ってくれたんだから、おあいこだよ」


「今日のご飯は美味しくできた?」


「うん!今日は特に自信あるよ!期待して待っててね!」


──この家で私、白瀬優菜と黒咲紅が同棲を始めてから、早3年が経った。私と紅の出会いは幼稚園だから、それから今の今までずっと一緒だということになる。同棲を始めた最初こそ、共同生活ならではの困難があるものかと思っていたが、いざ始めて見ると、全くそんなことはなく、むしろ、話し相手がいるのもあって、1人でいるより気楽かもしれない。

 ただ、もちろん、この生活が上手くいってるのは、紅がいてこそだというのは分かっている。もちろん私も紅にまかせっきりにしているわけではないけれど……もう少し紅に負けないように頑張らなくては、と思うことばっかりだ。



「……優菜ちゃん?疲れてる?」


「そうだね……ちょっと疲れてるかも」

午前中は難しい大学の講義を受け、午後はゼミの発表、更にそろそろ定期試験も近づいてきて、勉強をしなければいけない。そして、なによりこの暑さだ。この1週間、毎日遅くまで勉強して、朝早くから大学に行っていたのもあって、流石に疲労が溜まっていたのだろう。紅に抱きしめられたまま、目の焦点が合わない感じがしていた。


「それなら早くご飯にしちゃお!」

抱きついていた手をぱっと放して、紅は私に微笑んだ。ああ、紅の笑顔はなんて眩しいんだろう。そんな可憐な笑顔を向けられてしまうと、疲労も一瞬で吹き飛んでしまいそうな錯覚がしてしまう。


私の同居人、黒咲紅は──客観的に見ても主観的に見ても──「可憐」という言葉が似合う女の子だ。まず紅はスタイルが良い。身長は155㎝とそこまで大きくはないけれど、顔が小さくて四肢が長いから体の均整が取れている。そして何よりは特筆すべきはその整った顔立ちだろう。小さな顔に反して、活発そうな印象を与える大きな目に、すっと通ったキレイな鼻筋、ナチュラルウェーブしたその真っ黒な長髪からは、自然と上品な香りが漂ってくるような気さえしてくる。

更に、この子は優しくて社交的で、何か欠点といえるほどの欠点が存在しているのだろうか、もしかしたら宇宙人なのかもしれないと思ってしまう、百人に聞いたら百二十人が可愛いと答える、黒咲紅というのはそんな女の子だ。


「……ん?さっきから私の顔見つめてるけど、なんかついてる?」


「あ、いや……むしろその逆で……やっぱり紅ってキレイだなと思って」


「ふふっ、なにそれ。いきなり褒められても困っちゃうな」

そういいながら紅は口元を抑えて楽しそうに笑う。そういう仕草の1つ1つまで、私の目には魅力的に映る。


「そもそも、私はいつも言ってるけど……」


「私より優菜ちゃんの方が可愛いと思ってるよ」

紅は笑顔で、けど、真剣な調子で言う。紅が嘘をつかないことは私が一番知っているから、紅は本気でそう思っているのだろう。


「紅に言われると、本気にしちゃいそうだからやめて」


「えー、私は本気なのにな」


「あ、そうだ、頼んだお酒って買ってきてくれたかな?」


「うん。買ってきたよ」

右手に下げていたコンビニ袋を手渡す。今日は2人でお酒を飲む約束をしていて、私がその買い出し担当だった。


「お、どれどれ〜?」

紅は子どものように目を煌めかせながら袋の中を除いている。


「お〜!どっちもちょうど飲みたかったやつだ!」


「そっか、よかった」

お酒のチョイスはお任せと言われていたから、不安だったけど、紅のお眼鏡にかなって安心した。


「えへへ、やっぱり優菜ちゃん、私のことよくわかってるね」


「伊達に15年も一緒にいないよ」


「あはは!それもそうだね」

紅は楽しそうな手つきで冷蔵庫にお酒をしまいに、キッチンへと戻っていった。私も靴を脱いで、帰宅時の雑務をこなしてから、リビングへと向かう。


ちなみに紅のために買ってきたのは、かなり度数の高いレモンサワーのロング缶2本と、度数の高い韓国のお酒1ビンだ。


「優菜ちゃん、2つお酒買ったんだ?」

私がリビングに着くと、紅はお酒をしまい終えて、フライパンに向かっていた。


「今週は頑張ったから、ご褒美かな」

私は紅と違ってあまりお酒を頻繫に飲む方ではないけれど、こうも暑いと爽快感のあるお酒が飲みたくなる。


「そういえば、紅ってもうお風呂入ってる?」


「うん、今日はお酒飲むつもりだから」

やっぱり、先ほどハグされた時の香りはシャンプーのものだったか。


「それなら私、今シャワー浴びてきちゃっても平気かな?」


紅の手元と、炊飯器の炊きあがりをちらっと眺める。時間にはまだ多少余裕がありそうだ。それならば、汗を流してから、紅の美味しいご飯をいただきたい。


「うん、平気!」


「わかった、すぐに出て手伝うね」

浴室に向かう前に荷物を置きに自室へ向かう。私たちの個室はそれぞれダイニングの奥にある。左手側、つまり玄関の正面にある方が紅の部屋で、右手側が私の部屋だ。


「うわ……あっつ」

ドアを開けた瞬間、部屋の中に籠っていた熱気が体を包む。適当にベッドのそばに荷物を放り投げて、引き出しから部屋着と下着を掴むと、さっさと浴室に退散する。


浴室は玄関とリビングを繋ぐ廊下の脇にあって、その手前には小さいながら脱衣所もついている。脱衣所に入って、汗でベタついたポロシャツとインナーを脱ぐ。上着を脱いだのに、まだ肌に汗のベトベト感が残っていて鬱陶しくなる。


そのまま下着を外していると、不意に脱衣所の鏡が目に入って、自分の顔が映る。不意にさっきの『優菜ちゃんは可愛いよ』という紅の言葉が頭をよぎった。


「別に……期待するわけじゃないけど……」

誰に言うわけでもなく言い訳をしながら、鏡を覗いてみる。

──少しは、魅力的に映っているかもしれないと期待して。


──けれど、鏡の中に映っていたのは、何千何百回とみた、冴えない自分の顔があるだけだった。


「やっぱり……可愛くはないよなぁ……」

つい独り言が漏れてしまう。別に自分の顔が嫌いなわけではないけれど、紅のような華やかな顔立ちとは到底言いにくい──どこにでもいるような顔だ。身長だけは比較的高いけれど、それが個性になるほど目立ったものではない。


「ん……」

口角をあげて、無理矢理笑顔をつくるけど、鏡に向かってそんなことをしている自分が滑稽に思えて、すぐに辞める。やっぱり私にはこういう明るくて可愛い表情はあんまり似合っていないのだ。


────私がもう少し可愛ければ、自信を持って紅と一緒にいられるのかも


「……そんなこと、気にしてもしょうがないか」


残りの下着を手早く外して、浴室のドアを開けた。


シャワーの蛇口を捻ってお湯で体を流す。汗ばんだ体を流していく感覚が心地よい。「風呂は命の洗濯」とは、まさにこういう時に使う言葉なのだろう。体を伝って流れていく水の音を聞きながら、そのままぼんやりと考え事をする。


「……可愛い、か」

先ほど紅に言われた言葉が頭の中を反芻していく。そういえば、紅に告白された時も、同じ言葉を言われたことを思い出す。


紅の告白に私が応えて、私たちがいわゆるカップル(私はこの関係にこの言葉を使うことは余り好きではないけど)になったのは、ちょうど高校の卒業式の日だった。私たちの通っていた高校は女子校だったこともあって、稀にそうやって女性同士で付き合ってる人の噂は聞いたことがあったけど、まさか自分がその当事者になるとは思わなかった。しかもまさか告白してきたのが、親友で幼馴染だと思っていた黒咲紅だったのだ。あの時ほど衝撃的な出来事は、今後の人生においても一切ないだろう。


────


『……優菜ちゃんのことが好きです付き合ってください!』


『え……?』

文字通り、唐突な「告白」を受けて、私の脳は情報過多でフリーズしてしまった。ただ、目の前で私に頭を下げているのが、親友である黒咲紅であるということだけは、すぐに分かった。


『えっと……』

紅のことは友達として大好きだった。明るくて、引っ込み思案な私にも優しく接してくれる、自慢の幼馴染だった。けれど、そんな彼女を、その、お付き合いする相手として意識したことは、一度もなかったし、紅の「好き」という気持ちに、私が応えることができるかは自信がなかった。


だから私は戸惑っていたし、すぐには返答することはできなかった。


そんな風に沈黙している私をみて、紅は目の端を潤ませて、気まずそうに切り出した。


『……ごめんね』

『迷惑……だったよね』


『ごめんね』その言葉を聞いて、悲しそう自嘲的に笑う紅の笑顔を見て、胸の奥が締め付けられるような、喉の奥がツンとするような、そんな、言い表すことのできない感情が芽生えた。その感情について、私は未だまだうまく形容することができない。

ただ──私は紅に笑っていて欲しい。その時は、ただそれだけを考えていた。

『そんなことない!』

気がつけば、自分でも驚くほどの大きい声を出していた。下を向いていた涙を堪えていた紅も思わず驚いて顔を上げた。

『確かに……紅のいう好きと、私の好きは違うのかもしれない』

紅と私の間に差があるというのは、事実だ。

『けど……だから……私も紅のことを好きになりたいの』

『だから……私でよければ、よろしくお願いします』

そういって紅を不器用に抱きしめる。その体温が、自分の今の状況が嘘でないことを告げていた。


『……けどさ、本当に私でいいの?』

『紅って人気者だし、別に私じゃなくてもいっぱい色んな人がいると思うんだけど……』

『ううん、私は優菜ちゃんがいいの』

それは曖昧さの余地を残さないほどの即答だった。

『……もう一個だけ聞いてもいい?』

『なんでもいいよ』

眼の端の涙をぬぐいながら明るい声で紅は答える。やっぱり紅は笑顔の方が似合う子だ。

『私の、どこを、好きになってくれたの?』

『うーん、いっぱいあって中々言葉にできないけど……』

『さっきみたいに優しいところと……あとは……」

『可愛いところかな』

『……かわいい?私が?』

『うん』

『優菜ちゃんは可愛いよ!』


──────


「かわいい、か」

もう一度だけ反芻して、私はシャワーを止める。告白された時には、仲の良い幼馴染だった紅も、今では立派な恋人だ。私の認識すらも変えてしまうほど長く付き合ってきたことを誇りに思うと共に、不安を感じることも多くなる。


「……はやくでないと」

少し長くシャワーを浴びすぎてしまったかもしれない。さっさと汗を洗い流して紅の手伝いをしよう。そこで、私は一度、考えをリセットした。


──────

「お風呂、上がったよ」

浴室を出て、リビングに戻ると、紅がお皿に料理をよそっているところだった。


「あ、こっちもちょうど出来上がったところだよ!」


「これ、いつもみたいによそえばいい?」


「うん!ありがとう!」

お茶碗にそれぞれのお米をよそっている間に、紅は手際よくハンバーグと副菜のポテトサラダをそれぞれ盛り付け、グラスにお互いのお酒を注ぐ。


「よーし、かーんせい!」

楽しそうな声をあげながら、エプロンを外した紅が席につく。小さな机の上に、オレンジの光に照らされたハンバーグとポテトサラダがキラキラと輝いていた。


「それじゃあ」

「いただきまーす!」

2人の声が重なり、グラスがカチンとぶつかる。


「んー……!久々に飲むお酒おいしいー!」

ごくごく、という擬音がぴったりな紅の飲みっぷりを見て、私も少しだけ多くお酒を口に含む。


「久しぶりに飲むと、お酒っておいしいね」

口の中にアルコールとブドウの味が広がる。


「そうだね〜……あ、今日のハンバーグ自信あるから早く食べてみて!」


普段料理の出来については、かなり控えめな紅が、ここまで豪語するとは珍しい。それを久しぶりに味わえるなんて……今日一日過ごした疲労も、この瞬間のためのものだと思えば全て我慢できる。ああ、紅の手作りのハンバーグを食べられるなんて、いつ以来だろう。逸る心をどうにか抑えながらハンバーグを切り分ける。


「いただきます!」

いざ実食。


「……ん!おいしい!!」



「えへへ、ほんと?」


「うん!すっごい美味しい!」

口に入れた瞬間、肉のジューシーな味わいが口の中いっぱいに広がっていく。まさに王道の美味しさ、紅が手作りしたというソースも、お肉の旨味をよく引き立てている。味に感嘆しながら、ハンバーグの次はポテトサラダにも手を伸ばす。


「……ん!こっちもおいしい!」」

こちらはいつもよりクリーミーな味わいで、お酒との相性が抜群に良い。


「よかった〜!今日は特に気合い入れて作ったから、いっぱい食べてね!」

こんなに美味しいご飯を食べられるなんて、私は幸せ者に違いない。空腹なのも合間って、ご飯を食べる手が本当に止まらない。一生懸命ご飯を頬張る私を紅はニコニコと眺めていた。


「やっぱり紅の料理が世界で一番おいしいよ」 


「えへへ……そうかな?けど、優菜ちゃんにそう言ってもらえるなら嬉しいな」

紅も今日の料理の出来には満足しているらしく、ハンバーグを噛み締めるように食べている。


「けど……ちょっとだけ悔しいな」

「悔しい?」

きょとんとした顔で紅が聞き返す。


「うん、私ももうちょっと料理上手くなりたくて、色々試してるんだけど……やっぱ紅のレベルには全然到達できなくて……」

「なんで私と紅でこんなに味が違うんだろ……そんなレシピが違うとも思わないし、材料とかもほとんど変わらないと思うんだけど……」

「けど、優菜ちゃんのご飯も美味しいよ。こないだ作ってくれた鯖の味噌煮とニラ玉、お世辞とかなしで、また食べたいと思ってるよ」

「ほんと?うーん……そう言ってくれるのは嬉しいけど……」

確かに私のご飯も下手ではないけど、紅のような感動できるほどの味ではないのも事実だ。

「あー……私もいつか、紅の好きな料理を作ってあげられるようになりたいな……」

「わたしの?」

「うん……いつも私ばっかり美味しい物作ってもらってて申し訳ないし、いつか紅に恩返ししたいなって」

「……それに、やっぱり、好きな人から貰いっぱなしだとさ……カッコ悪いじゃん」

「……だから、いつか私が美味しいご飯を作ってあげたいんだ」

紅の前では、カッコ悪い自分を見せたくない。元から魅力的な紅と違って、私にはそういう魅力がないから、少しでも紅に並べるような存在になりたいのだ。


「そっか……」


「それなら、一緒に料理作ろうよ。そこで手取り足取り教えてあげる」


「一緒にか……楽しそう」

紅の優しさに感謝すると共に、そんな紅に少しでも追い付きたいという気持ちで、私はまたお酒を煽った。


──────

「優菜ちゃん、ここ一緒に座ろ!」

いっぱいあった料理はほとんど全て平らげて、今は食後のリラックスタイム。食卓を片付けて、TVの前のソファで2人ともゆったりと過ごしている。


「はいはい……少しは落ちつきなって」

スマホを眺めている私の隣で、紅はお酒を飲みながらテレビのバラエティー番組を見ていた……のだが、飽きてしまったようで、隣で退屈そうにしている。

ちらっと見えた紅の横顔は随分と赤くなっていた。紅は元々が色白だから、少しの紅潮でもかなり目立つ。


「えへへ、優菜ちゃんと一緒だと楽しいから、ついついはしゃいじゃうんだよ」

酔っ払った時の、紅は動きや発言が妙に艶やかというか、しなやかというか……とにかく見ていてドキッとしてしまう。


「ほら、優菜ちゃん!スマホばっかり見てると……!」


紅は、いつのまにか私の正面にたって、私にキスをしようとしていた。


「わっ!!何すんのさ!」

突然の行為に驚きつつ、どうにか距離を取り、近づけてきた顔を手で押し留める。


「この酔っ払い……!」


「酔っ払いじゃないです〜!まだ酔ってません~!」


「酔っぱらいはみんなそういうんだよ……!」

紅は普段はとても明るくて、優しく、快活!といった言葉が似合う子なのだけれど、お酒が絡むと、その明るさが変な方向に強調されるのもいうか、少し……いや、かなりめんどくさくなる。絡み上戸とでも言うのだろう。しかも酔いが回るのはとても早いくせに、量自体はかなり飲めるので、尚更厄介だ。


「ほら、腕動かせないから……諦めて離して」


「いや」

隣にぴょんと座りながら、紅はまだ私の右腕を話さない。まるで駄々をこねる子供のようだ。


「そんなにひっつかれると暑いって」


「ううん、私は暑くない」

会話が通じてない。こういう時の紅は、何を言っても無駄な可能性が高い。なので、ついに諦めてスマホを机に置く。


「はぁ……なんで紅って酔うとこんなにウザくなっちゃうんだろ……」


「あー!ひどい!こんな可愛い彼女にウザいだなんて」

そう言いながら紅は楽しそうにクスクス、クネクネとしている。


「……紅」


「?」


「いや、なんでもない」


「えへへ、そっか」


ご機嫌は紅はそれ以上追求してくることはない。紅は酔うといつもこうやって密着してくる。冬場なら暖かいし、私も気にならないのだけれど……紅の今日の格好は、なぜか勝手に着ている私のTシャツと、ショートパンツ。


つまり、その……そういう薄手の格好だから、紅がくっついている私の腕に、紅の体のラインがはっきりと伝わってきて……こっちも色々と……その、意識してしまう。


「けどさ、紅。外で飲む時はキレイに飲んでるんでしょ?」


そんな雑念を払うように、お酒を飲む。1缶目が空いてしまったので、仕方なく2缶目を開けている。まだ缶の中には7割強ほどお酒が残っている。


「あー、うん。外では真面目に飲んでるよ?」


「こんなにボディタッチをするのも、こんな変な絡み方するのも優菜ちゃんだけ」

そういって、紅はまたお酒を煽る。紅は酔っ払った時、いつも私にそうやっていうのだ。


「またそんなこと言って……」

いつもは、そうやって聞き流していたけど、そういえば、3年間も一緒に生活していて、紅が私以外の人とお酒を飲んでいるところ、一回も見たことがない。バイトやゼミで、それなりの頻度で飲み会をやっている事は聞いているけれど、紅が私以外の人と、どうやって接しているのか、気にしたことがなかった。


『どうして浮気したのよ!』

思考の海に沈んでいた意識が、突然聞こえてきたセリフで一気に現実に引き戻される。いつのまにかバラエティ番組は終わっていたらしく、テレビからは、安っぽいメロドラマのセリフが聞こえてきた。画面を見ると、どこかで顔を見たことがあるような、ないような女優が叫んでいるシーンで、細かいことはわからないが、どうやら夫の浮気を妻が咎めているという場面のようだ。


『私のこと、好きっていってくれてたじゃない!』


あまり上手じゃない役者だなと、適当なことを思い、また紅と私の会話にはノイズだと思い、リモコンに手を伸ばし消そうとする。


『正直、お前といるのがしんどいというか……お前に魅力を感じなくなったんだよ』


──魅力がない。いつもなら聞き流すことのできる陳腐なセリフのはずだが、なぜかこの日は胸にずしりと響いた。思わずリモコンに伸ばした腕が止まる。


──私は紅に、魅力を感じてもらえているのだろうか。


きっと、私は、常に不安なのかもしれない。私の事を好きだと言ってくれたのは、高校という閉鎖空間の中で生じた気の迷いであって、紅が、もし私の知らない所で、私より魅力的な人に出会っていたとしたら、紅は私の事を好きでいてくれるだろうか。時々、思うことがある。

紅には、別に私じゃなくても──男女問わず──もっと紅に相応しいような、"いい人"がいるんじゃないか、自分なんかを好きと言ってくれたのは、一時期のものなのじゃないかって。


「優菜ちゃん?」

リモコンに手を伸ばしたまま静止している私を不思議に思った紅が尋ねる。


「……ねぇ、紅」

こんな妄想、意味のない、そして根拠のない空想なのはわかっている。けれど、そんな想像をしただけで、心の底から嫌気が湧き上がってきて、温まっていたはずの心を一瞬で冷ましてしまう。


「紅は、私のこと、好き?」

私は紅が大好きだ。顔も、声も、身長も、仕草も、性格も、その全てを愛している。我ながら執着の強い、めんどくさい恋人だと言う自覚はあるけど、それでも、聞かずにはいられなかった。


「うん、好きだよ。愛してる」

それはさっきまでの軽い調子とは違う、真剣な「好き」だ。いつもなら素直に信じられる大好きな紅の言葉。けれど、今日はなぜか、その言葉が少しだけ気になってしまった。


「……本当?」


「本当に、私のこと、好き?」


「え?」

紅は驚いた表情をしていた。まさか、私からこんなこと言われるなんて思っていなかったのだろう。


「……ううん、なんでもないや。ごめん、変なこと言った」

自分が何を言っているかがわからなくなって、とりあえずまたお酒を煽った。今日は随分と飲むペースが早い。これじゃあ、紅の飲み過ぎのこと言えないや。


紅を好きなるにつれて、紅を独り占めしたくなる。そんな自分が嫌で、けど、そんな私もまた私なわけで、たまに、訳がわからなくなる。けど、出さないように気を付けていたはずの、自分の嫌な部分を紅に見せてしまったことは、反省しないといけない。


「変な空気にしてごめん。話題変えようか。えーっと、そういえば、このあいだ」


無理やり話題を変えようとした時、隣にいた紅がすくっと立ち上がって私の前に立って、ソファーに腰掛けている私の膝の上に、座った。


「な……」

「これなら、ちゃんと視線が合うね」

向き合う体勢になって、紅の綺麗な顔立ちが私の視界いっぱいに映る。私の首の後ろに紅の手が回るのがわかった。ここから見える紅の瞳は、燃え上がるように煌めいていた。焦がれるようなその視線に耐えきれず、思わず私は目を逸らしてしまう。


「優菜ちゃん、目逸らしちゃダメ」

「こっちをみて」

そうやって無理やり目線を戻される。手を回されているから、首を回して逃れることも難しくて、視線を逃す場所がない。


「優菜ちゃん……なにか、嫌なことでもあった?」

紅は、優しい声で私にそう語りかけた。その声色からは溢れんばかりの感情が伝わってきた。


「なんにも……」


「うそ」

私の下手な嘘を、紅はあっさりと否定する。


「好きな人の嘘がわからないほど、私は鈍くないよ」


さっきまでの気の抜けた笑顔をしていた紅が、別人なんじゃないかと思えるほど、凛々しくて、そんな紅の前にいる私は惨めで、まるで裁判官の前に引き出された罪人のようだ。


多分ここで、もういち、なんにもないといえば、それが明らかな嘘でも、紅は何にも追求してこないと思う。けど、いくら私でも、そこまではできずに、結局ぽつりぽつりと理由を話す。

「ほんとうに、特になんかあったわけじゃないんだけど……」


「今日みたいに疲れてると、自分に自信がなくなる時があって」


ボソボソとした私の声を聞き逃さないよう、紅は前傾姿勢になって、真剣に話を聞いている。


「そういう時、私は紅と自分を比べちゃうの」


「私と、優菜ちゃんを?」


頷く。


「ほんとうに、紅に相応しいのかなって」


「紅が、いつか、わたしのところから離れてしまうような、そんな気がするの」


「紅は私と違って可愛くて、家事も上手くて、頭もよくて、優しくて……けど、私にはなんにもなくて……」


「そんなこと………」


「ううん……そんなことある」

ない、と紅が言う前に否定する。紅は優しいからそう思うだけで、本当に私には、何にもないのだ。


「わたしも、もっと紅に、ふさわしくなりたいのに、それができなくて」


「なのに、紅はどんどんすごくなってて……」


「こわいし、いやなの」


最後の方は自分でも声にしていたのか、わからない。


付き合う時は、あんな偉そうなこといってたのに、今では、私の方が、紅がいないとダメなのになっている。


「……」


「……ごめん」

消え入るような声でそう呟くのが、精一杯だった。今すぐに泣きじゃくりたい私と、この状況を客観的に見つめる変に冷静な私が、頭の中で煩く主導権争いを続けている。


紅はその燃えるような瞳で、黙って私の話を聞いていた。そこに咎めるような雰囲気はなくて、今はそれが逆に不安だった。


沈黙に耐えきれずもう一度「ごめん」と、謝罪を重ねようとした。


その口が、突然塞がれた。一瞬、何が起こったか、わからなかったが、すぐに理解できた。


柔らかい紅の唇が、私の唇を塞いでいたのだ。


あまりにも突然の出来事に、私は完全に硬直してしまっていた。

紅は目を閉じて、優しく唇を押し当てている。柔らかくて、少し湿っていて、脳が溶かされていくように気持ちいい。時間にしてたった数秒のことなのに、その時間は永遠のように感じた。


「……安心して」

少しして、紅の囁くような声が耳元で聞こえた。髪が首筋に触れてくすぐったい。


「優菜ちゃんの不安を取り除くために、私はなんだってする」

そういうと紅は私の手を取って、小指同士を絡めた。


「それに、優菜ちゃんは自分のことを卑下するけど……私だって、優菜ちゃんがすごいなって思う時はいっぱいあるよ」


「だから……そんなに私の好きな人のこと、悪く言わないでほしいな」


「……私は優菜ちゃんが思ってるより、優菜ちゃんのこと、ずっとずっと大好きだから」

そういって紅は私の頬を優しく撫でた。


「……ありがとう」


「……そうだ、今優菜ちゃんのお願い聞いてあげたでしょ?」


「だから、私も少しだけワガママ言ってもいい?」


「うん、なんでも」


「それじゃあ……」

気づけば紅の顔が自分の目の前にあった。


「もう一回、いい?」

吐息が混ざり合う距離で、紅は囁く。私たちの関係で、その言葉が何を意味するのかを察せないほど、私も鈍くない。


「……いいよ」

羞恥と雰囲気に当てられて、顔に血が上って真っ赤になっているのが自分でもわかる。

その返事を聞いた紅は、優しく私の手を握ると、そっと顔を近づけてくる。バニラの甘い香りと火照った額が近づいてきて……胸がドキドキする。


恥ずかしさで目を閉じると、唇にまた柔らかな感触があった。


「私は優菜ちゃんのこと、大好きだよ」


「……ありがと」


「私も……紅のこと、大好き」


「ふふ、もう一回言ってくれない?」


ぎゅっと肩を抱いて、穴が空きそうなほどの視線をじっと浴びせてくる。身長と体勢の関係で、紅と目線を合わせる時は、いつも上目遣いで見つめられることになるけど、今日みたいにこうして向き合って、目線が正面からぶつかる形になると、改めて紅の可憐さを意識してしまう。

こんな至近距離で見つめられたら、もはや断る理性なんて私には残っていない。


「ちょっと待って……気持ちだけ整えるから……」

手を飛ばして机の上の缶を取る。少しだけ残っていたお酒を一気に飲みほして、私も度胸を決める。頬の上気はアルコールのせいか、恥ずかしさのせいだろうか。


(まあ、どっちでもいいや)

心臓の音がうるさく響く。一つ息を大きく吐いてもう一回、今度はさっきよりも力強く告白する。


「紅、大好きだよ」

キレイに編み込まれたその髪を触って、顔を少し手前に引き寄せる。艶のせいか黒というよりは、むしろ美しい翠色にすら見える。顎を引き寄せると、紅の瑞々しい唇が目に入る。


「……私からも、いい?」

顔を見上げる紅と目が合った。少し涙で濡れている、痺れるような視線。やっぱりどうしようもなくキレイだ。


「……うん、いいよ、いつでも」

紅が言い終えないうちに、今度は、唇同士を静かに、けれど力強く重ねた。


「ん……」

こうしていると、この幸せな時間が永遠に続くような気がしてしまう。


唇を離して、くるりと体の向きを逆転させると、そのままゆっくりとソファに倒れ込む。上になった私の体をそっと、まるで赤子をあやすかのように紅は優しく抱き寄せて、もう一度キスをする。


視界の端から見える外の景色は、いつのまにか夜の帷に包まれていて、あれだけうるさくなっていたテレビはいつのまにか消えていた。



今はただ、紅から目が離せない。


夏の長い夜は、まだ幕を開けたばかりだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

瑞色の唇 うみけねこ @Umikeneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ