有意義な最期

十二領 海里

有意義な最期

「あなたとの婚約は解消することになったの。ごめんなさいね」


 茂みの中で伏せながら、はたと過去の記憶が反芻した。

 何故こんな時に――と思いながら、そういえば今星明りの中で眺めている腕時計は、かつて婚約者から贈られたものだったと思い出す。

 思えば彼がここで茂みの中に伏せているのも、元はと言えばかつての婚約者のせいだったと、彼は思った。


 セルジオ・ミローネ。

 帝国中南部のいくつかの農村を領地とするミローネ子爵家に次男として産まれた彼は、10歳の時に初等学校に一緒に通っていた幼馴染の少女と婚約を結んだ。

 彼女は領内の商会の娘で、家督を継ぐ兄を商会の若旦那として支えていくのだと、そんな未来に思いを馳せた。

 幼馴染の婚約者との交流はとても幸せなものだったといえるだろう。

 万事控えめな性格の彼女は、いつもセルジオと共に笑い、共に悲しんでくれる少女だった。お互いの恋心は疑いようもないもので、双方の家族も2人の幸せな未来を信じていた。

 しかし中等学校卒業が間近に迫った14歳の夏。

 2人の幸せは無残にも引き裂かれた。


 発端は、同い年の伯爵令嬢が社交界でセルジオに目を付けたことだった。

 彼自身その自覚は全くなかったのだが、彼は確かに女性の目を惹きやすい容姿をしてはいた。

 だが、一般に彼より端麗な容姿の持ち主はいくらでも居るし、彼ももし誰かに魅力的に映るのだとしたらそれは婚約者の少女に対してだけであって欲しいとも願っていた。

 しかし、その伯爵令嬢にとって、セルジオの顔は非常に魅力的に映ったのだろう。

 ミローネ家に突然伯爵家から縁談が持ち掛けられたのは、セルジオが中等学校4年生になったばかりの秋のことだった。

 ミローネ家は、当然この縁談を断った。セルジオには既に婚約者が居り、愛し合っていると。

 それでも伯爵家はしつこく縁談を迫った。2度目からは支度金を跳ね上げ、4度目からは遠回しな脅迫までしてきた。娘の我儘をどうしても叶えたいらしかった。

 ミローネ子爵はそれを全て撥ねつけていたが、社交期が終わろうとしていた夏の終わり、それは起きてしまった。

 婚約者の家に数人の暴漢が押し入り、金品が強奪されると共に婚約者も誘拐され、数日後に河原で無残な姿を晒したのだ。地方警察の捜査の結果、散々に辱められた形跡が認められ、直接の死因は溺死――監禁場所から逃げ出して、川に身を投げたのであろうとのことだった。

 彼女の実家とミローネ家、そしてセルジオは怒りに荒れた。同時に、悲嘆にも暮れた。

 物的証拠はなく、ただの推測に過ぎないが、伯爵家が何かしらの糸を引いているのは間違いない。脅迫の一環として、婚約者をしたのだ。

 だが、それを暴く手段も、伯爵家相手に声を上げる力も、幼馴染の実家は勿論、ミローネ子爵にもなかった。

 結局、セルジオは中等学校を卒業して高等学校の3年生に編入されると共に、伯爵令嬢との婚約を結ばされた。

 彼女は容姿こそ整っているが非常に我儘で、セルジオをまるで自分を飾り立てる装飾品のように連れ回し、そして使用人のように様々な命令を言い付けた。独占欲も強く、ある時何かを勘違いした取り巻きの令嬢が同じように彼に命令した時には、彼女は烈火の如く怒り、その令嬢を退学に追い込んだ。お陰で彼は友人らしい友人を作ることすら出来なかった。


 そんな学生生活が3年目を迎えた高等学校4年生の春先。5年生が目前に迫っていた頃だった。

 社交期の始まりの季節だったので、彼は例年通り伯爵家の町屋敷に婚約者を迎えに行った。3年目ともなると最早慣れたであったが、この年は少し前から様子が違っていた。

 年始の式典の頃から、彼女は別の貴族令息に入れ揚げ始めたのだ。

 この2年間ので、彼女の飽きっぽい性分をよく知っていたセルジオは、漸く自分にも飽きたのかと、無感動に受け止めていた。毎日のように食べていたお菓子や気に入って使っていた衣類を突然いらないと言い出した時のように、自分も突然いらないと言われるのだろうと。

 それは寧ろ彼自身もこの懲罰じみた婚約生活から漸く解放されるのだと、待ち望んでいたことだった。

 そしてその日が、その時だった。

 伯爵家の町屋敷の門前で、自動車から降りた彼を待ち受けていたのは、その頃入れ揚げていた令息を侍らせた彼女だった。

 彼女は開口一番、冒頭の台詞で婚約解消を言い渡してきた。この令息と婚約を結び直すと。セルジオとの婚約はが、と。

 待ち望んだ婚約解消ではあったが、いざ実際に聞くと、彼の中には沸々と怒りが湧き出してきた。

 伯爵令嬢への愛情ではない。彼女は顔こそ整っているが、彼にとっては幼馴染を失ったその時から彼女の顔はこの世の何よりも醜悪なものに見えていた。

 では彼の怒りは一体どこからきたものか。彼自身の冷静な部分が、それを見つけ出した。


 ――それでは自分と幼馴染は、まるで道化ではないか。


 元々この婚約は、彼の幼馴染の死によって成立したものだ。

 彼がこの2年間を耐えてきたのは、その贖罪の意味もあったのだと、どこかで思っていたのだ。

 それを一言で片付け、終わらせようとしているこの女と、それに納得しようとしている自分が許せないのだと、その時彼は初めて気付いた。


 セルジオが伯爵令嬢につかつかと歩み寄ると、侍っていた令息が遮るように前に立った。

 なのでセルジオは溜息を吐き、婚約解消を了承する旨を伝え、懐から懐中時計を取り出した。

 伯爵令嬢は時々気紛れにセルジオに贈り物をしていた。無論、彼に要求することの方が遥かに多かったが。

 して、そういった伯爵令嬢からの贈り物は、身に着けるものが圧倒的に多かった。自分が贈ったものを身に着ける婚約者を、周囲に見せつけていたのだろう。上着、靴、ハンカチ――懐中時計もその一つだった。

 彼はその日偶々身に着けていた懐中時計を返すと申し出たのだ。他の贈り物も全て返すと。しかし伯爵令嬢は、記念にあげるわ、、と鼻で嗤った。

 彼女とはそれっきりだった。


 懐中時計と何枚かのハンカチだけを残して、伯爵令嬢からの贈り物を殆ど処分した5年生。セルジオには一気に友人が増えた。

 これまでは、伯爵令嬢の怒りを恐れる取り巻き達はどこか彼と距離を置いており、それ以外の人間と交流を持つことも殆どなかったので友人らしい友人が居なかったが、伯爵令嬢の婚約者という立場から解放されてからは、寧ろ積極的に話し掛けてくる学友が増えたのだ。

 元々セルジオは成績が悪くない。最上位というわけではないが、それに迫る実力の持ち主だった。先述の通り容姿も悪くなく、子爵家の次男ということで声をかけたい生徒は彼が思っていたより遥かに多いらしかった。

 だが、恋人だけは出来なかった。下位貴族や平民の娘は何人か寄ってきたが、いずれも彼と付き合う内に、恋人や婚約者という座を諦めていってしまうようだった。「結局、に勝てないの」とはある日の放課後、誰も居ない教室で親しい女子生徒に語られた告白である。彼もその自覚があった。

 そうして最初の2年間に比べて充実した1年間を過ごした彼だったが、高等学校卒業が迫る中で、将来の進路が問題となった。父や兄の補佐役として実家に帰っても良いが、大学に進学しても良い。後者ならばその4年で自分の実力を更に高めつつ、進路をじっくりと決められるだろう。

 勿論、どこかの会社か役所に勤めるのも手だ。

 幸いにしてセルジオの成績であればどこでも選び放題だった。

 彼が選んだのは、陸軍士官学校だった。彼のことを特に目にかけていた教員が推薦状を書いてくれた。

 彼は、を求め始めていた。


 そうして17歳から4年間、陸軍士官学校で陸軍将校としての教育を受けた。

 陸軍士官学校は一般課程は4年、幼年学校出身者は2年で、彼は前者だった。一般課程は最初の2年間で基本教育を受け、軍隊の基本を学ぶ。それを終えると准尉の階級を与えられ、後の2年間の兵科教育で各兵科の専門的な技能等を学ぶ。そして卒業時に少尉に任官されるのだが、幼年学校出身者は最初の2年の基本教育が免除されるわけだ。

 実はそれ以外に学歴等の制限はなく、15歳から入校可能なので中等学校(14歳で卒業)からや、高等学校から編入した者も多かった為、高等学校をきちんと卒業して入校した彼は少数派であったが、秀才で容姿も整っていることから同期の学生達とは上手く付き合うことが出来た。

 父親の訃報が届いたのは、2年生に進級してすぐの時期だった。

 10日間の長距離行軍演習から戻ったばかりあったが、寮監からその手紙を受け取ると即座に休暇の申請を出し、演習の疲れも忘れて実家へと飛んで帰った。その頃には父の葬儀は粗方済んでおり、兄への引継ぎ作業が行われている最中だった。

 心労からだろう、とは兄の言。いつもセルジオを心配していた、とは母の言。そんな家族も、皆憔悴しているように見えた。

 セルジオは、彼らにかける言葉が見つからなかった。自身も相当に憔悴していた。

 2日間、土偶のように過ごして首都に戻り、数日残った休暇は士官学校の学生寮で過ごした。幼馴染の実家には、顔を出さなかった。


 兵科教育は、陸軍の中でもかなり危険度の高い部類に入るといわれる工兵を選択した。

 建設工兵か戦闘工兵かはまた部隊に配置されてから変わってくるが、構造物の構築や破壊が主任務である以上、爆発物を始めとした数々の特殊器材を使いこなす兵科である為、日常の勤務ですら危険が伴うことが多い。

 特に戦闘工兵は、歩兵や車両の部隊が前進する際はその前に出て障害を排除し、後退する際はその後ろに残って障害を設置する。当然、危険度は段違いに高い。

 だからこそ、を求めるセルジオは工兵を選んだ。


 かつて婚約していた伯爵令嬢の実家が没落したと聞いたのは、兵科教育が始まってすぐの頃であった。

 伯爵が寄子の下位貴族に高圧的に振舞っていたことによって不正蓄財や贈収賄が内部告発されたらしく、余罪も相当にあったことから伯爵家は取り潰しとなり、領地は皇室へ返還された。

 死刑等の重刑罰はなく、伯爵本人は身分剝奪の上で懲役刑、その家族も身分を剥奪されたそうだが、伯爵令嬢本人がどうなったのかは、セルジオ自身大して興味がなかったのでそれ以上調べようともしなかった。

 ただ、丁度この時期にかつて彼女から贈られた懐中時計が止まってしまった。ハンカチは様々な理由で処分しており、手元に唯一残っていた伯爵令嬢からの贈り物だった。これを機にこの時計も捨ててしまおうかとも考えた彼だったが、何故か時計屋に持ち込んで修理してもらったのであった。

 その理由について、彼自身大して興味がなかったので深く考え込んだりもしなかった。


 士官学校を卒業し、戦闘工兵として任官されてから3年。

 彼が中尉に昇進してすぐの頃に勃発した戦争は、そろそろ開戦から1年を迎える。

 発端は帝国とその北にある連邦との間にある、帝国の衛星国である大公国での内乱だったが、それが大公国を舞台とした帝国と連邦との戦争に発展した。帝国と連邦が直接国境を接している地域よりも大公国戦線の方が激しい戦闘が行われているという奇妙な戦争だが、帝国と連邦の国境地帯でも全く戦闘がないというわけではない。

 国境線の川や山の尾根を挟んでの砲撃戦が盛んに行われ、国境地帯の街では砲撃や空襲も毎日のようにある。

 双方共に地上軍での越境攻勢を行わない理由は、その国境地帯が大軍の運用に向いていないが為に敵防御線を突破することが困難で、仮に突破しても敵国内での進軍は被害ばかり増して結局戦争に勝利することは出来ないと双方が理解しているからに過ぎない。

 なので敵国の国力を少しでも削る為、またはこの地域に資源を割かせることで大公国での戦場に圧力をかける為にこうしたが日々行われているのである。

 セルジオと、彼が率いる小隊が今就いている任務も、そんな嫌がらせの一環であった。


 国境を密かに越えて、連邦国内の空軍基地に侵入し、その機能を破壊する。この基地から連邦軍機が飛び立つことがなければ、帝国空軍は国境地帯の敵軍事施設や鉄道を悠々と爆撃することが出来るようになる。

 彼は開戦以来、こうした任務に度々参加していた。

 なので密かに越境するのも、敵の軍事施設に侵入するのも、そして連邦軍の追撃を振り切って帝国へ帰還するのも慣れたものだ。

 率いる小隊の兵士達も慣れており、彼らはいつも通り越境し、連邦軍の哨戒網を掻い潜り、序でに道中で発見した燃料補給所を事故に見せかけて放火(侵入して燃料仕切弁を開き、その場に火のついたタバコを捨てていくという簡素な工作であった)し、新たに発見した敵の施設をメモしながら目的の空軍基地へと辿り着いた。3日間の行程であった。

 燃料貯蔵庫と整備格納庫、そして滑走路に爆薬を仕掛ける為、部隊を3班に分け、深夜に空軍基地へと侵入した。歩哨を何人か排除した以外には、戦闘は一切なく、作戦は順調だった。

 しかし、セルジオが率いる格納庫班で問題が発生した。

 帝国軍が採用する新式の時限装置は、機械時計を使用しているので事前に時刻を設定しておけば設置が簡単で、こうした同時多発的な爆破には非常に使いやすいが、繊細で故障しやすく、古参の戦闘工兵からは不評な代物である。

 今回彼らが持ってきた時限装置もどこかで壊れてしまったらしく、時を刻まなくなってしまっていた。だが予備の時限装置などというものはない。破壊目標が多いので可能な限り爆薬を持ってくる為に、予備の器材を持ってくる余裕はなかったのだ。


 やむを得ない、と判断したセルジオは懐から懐中時計を取り出した。

 伯爵令嬢から贈られた時計だ。

 その天盤を外し、即席の時限装置を作った。

 以前その懐中時計について「昔婚約者から贈られたものだ」とだけ聞いていた部下は、腕時計を使っては、と提案してきたが、彼は首を横に振った。

 元婚約者の実家が没落した時に加えて、任官されてからも1度止まってしまっていたのだが、いずれも時計屋に持ち込んで直していた。しかし、結局腕時計があるので時計としては全く使っていなかったものだ。

 つまり、ただただ、無意味に持っていた。別れた時に彼女が吐いた「」という言葉を、忠実に守っていたに等しかった。

 だからこれは、決別のようなものだったのかもしれない。


 格納庫の重要な柱に爆薬を仕掛け、駐機場に駐機中の戦闘機や爆撃機にも連鎖するようをし、基地を脱出した。

 他の班とも無事に合流し、基地の様子を密かに窺うことの出来る森林に身を隠す。

 そこで爆破の様子を見届け、それから脱出するのだ。


 ――時間だ。

 激しい爆発音と共に、木々の向こうが煌々と照らされる。燃料貯蔵庫は他の施設から少し離れたところに建てられているが、それだけにそこで起こった爆発は非常に目立った。

 連邦兵が慌ただしく逃げ惑う影が見え、数秒後には滑走路でも爆発が起きた。そしてその数秒後に、格納庫が火を吐き、駐機中の戦闘機と爆撃機が順番に吹き飛んでいった。

 懐中時計はきちんと役割を果たし、を迎えたのだ。

 橙色に照らされる、にまたチラリと視線を落とし、セルジオは小隊に撤収の指示を出した。濛々と巻き上がる黒煙と、それを照らす焔を尻目に小隊の兵士達は森林の奥へと消えていく。


「……っは、ざまーみろ」


 セルジオも倒壊していく格納庫に向かって一言吐き捨てて、木々が作り出す闇の中へと消えていった。

 彼は、未だ有意義な最期を迎えられていない。

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