輝く満月の下で、あなたと。

あき伽耶

輝く満月の下で、あなたと。

夜、九時半。

耳慣れたいつもの曲が、マンションの部屋でゆったりと流れ始めた。

アニメーション映画ピノキオで有名な『星に願いを』だ。


そしてこの曲は、亮也りょうやからのビデオ通話の着信音。

ロマンチックな曲調が気恥ずかしかったけれど、私は亮也からの着信音はこの曲と決めたのだった。

『星に願いを』は、私たちが付きあってちょうど三年目のとき、記念デートに行ったデスティニーランドの思い出の曲なのだ。

あの日も、今夜のように美しく見事な満月が空に鎮座していた。

そして残念ながら、それきり私たちは、デートに行くことができないでいる。


『星に願いを』が流れ出して、私は慌ててバスルームの鏡の前で身支度を整えた。

今日こそは、と亮也りょうやとの定時連絡に間にあうよう、コンビニのおにぎりをかじりながら残業を片付けて、会社を飛び出してきたのだ。マンションに帰って鏡を見たら、この一週間、深夜まで残業ずくめだった自分の顏には、しっかりと疲労が刻まれていた。こんな顔は亮也に見せられないと、急いでシャワーで身体を温めた。そうすれば、ちょっとは血色の良い元気な顔で対面できるだろう。

最近のビデオ通話画面は肉眼よりも細部が鮮明で、肌の肌理まで相手に見えてしまうから困ったものだ。技術は確実に進んでいるけれど、一方で迷惑なこともある。

私は鏡に向かって、この秋の新色リップを軽く引いた。リップに合わせたように頬がほんのり茜色に染まって、明るい表情の自分がいた。

そこにタイミング良く、あの『星に願いを』。

そろそろかかってくるだろうと思っていた私は、髪の毛を手櫛で整えながらリビングルームに戻り、急いで仕上げた身支度を勘ぐられないようにスンと澄まして背筋を伸ばすと、タブレットの通話ボタンを押した。


「あ、希望のぞみ? ああ良かった!」


弾んだ声と共に、タブレットの中には安堵した亮也りょうやの顏が映し出された。が、私の姿を確認した途端、その表情が曇る。


「今週、仕事たいへんだったね」


「うん、全然通話に出れなくてごめんね。ちょうど半期の締めだったから」


疲れを気取られたくなくて、私は朗らかに言い放ってその話題を流そうとした。

私の声を聞きながら、亮也は画面に顔を近づけた。視線が私とすこし外れたから、きっと画面の私の顏をのぞきこんでいるんだろう。


「……もう! あんまり見ないでよ」


私は恥ずかしくて両手で顔を覆う。指の間から見えるタブレットの亮也は、姿勢を元に戻しながら言った。


希望のぞみは嘘つくのが上手だからなあ。……なあ、あんまり根詰めるなよ?」


その言葉は私を複雑な気持ちにさせる。

ちょっとは嘘に騙されて欲しい、と思うと同時に、そう言ってくれた嬉しさで心が満たされてしまう。

そしてビデオ通話ではなくて、『今隣にいてくれたらいいのに』という想いが湧き上がり――それを私はいつものようにぐっと抑え込んだ。


「ねえ亮也、そっちって今、昼?」


いつもその質問するんだよな、と亮也はにやにやしながら呟いている。


「真昼間だよ。だからすごく暑いって。しばらくはこれが続くらしいよ。でもまあ、僕は日本時間で生活しているから、昼間だけど夜九時半てことだな」


「うーん、何回聞いても変な感じ」


一度も海外に行ったことがない私には、頭ではわかっているけれど不思議な話に聞こえるのだ。


亮也は会社から現地への赴任を命じられ、もうじき一年になる。

日本とやり取りしながら仕事を進めているので、現地時間に関係なく日本時間で生活をしている。おかげで、私と定時連絡ができるのだけど。

こっちは夜なのにあっちは昼で、昼間の中にいる亮也は日本時間の夜だなんて、私にはややこしい。


そう考えながら私は照明を落としたキッチンの奥に目をやった。出窓の向こうに、満月がくっきりと浮かんでいるのが見える。――満月を見ると、私はどうしてもあの一年前のデスティニーランドを思い出してしまう。

今宵の主役である満月は、重厚な濃藍を背に、黄金色をことさらに美しく輝かせていた。


「綺麗……」


思わず口にすると亮也が聞き返す。


「綺麗?」


「うん、月が。今日は中秋の名月だからかな、とても奇麗なの」


「へえ、僕も見てみたいな」


亮也は肩を竦めて、続けた。


「まあこっちは今、昼だけどな」


私は吹き出した。


「あはは……そっちからじゃ無理無理! でもときどき、昼に月が見えることもあるものね。それに、その気になったら見えるんじゃない?」


希望のぞみも、面白いこと言うね?」


亮也も声を立てて笑った。


「亮也はいいなあ、残業のない生活で。夢の定時退勤だものね」


私が唇を尖らせると、亮也はわざと自慢気に言い返してきた。


「ふふ……、いいだろう、羨ましいだろ?」


亮也の会社は社員の健康管理を重視しているので残業が無く、午後五時きっかりに仕事は終わる。


「だけどさ、五時までに終わらせなきゃならないってのも結構忙しいし、終業後はトレーニングしなくちゃならないんだぞ?」


「うーん、それは嫌。亮也と違って、体動かすことあんまり好きじゃないもの」


「希望みたいなタイプでも、やんなきゃいけないとなると、結構必死になれるもんだよ」


「でもジョギングとか絶対できないもの。私がインドア派なの、知ってるでしょ?」


「じゃあなおさら、僕の生活は君におあつらえ向きだと思うけどな。インドアならジムで汗を流せばいいだろ?」


「もう、すぐ揚げ足とるんだから! とにかく私は運動が億劫おっくうなんだってば」


わざと頬を膨らませて言い返す私を、画面の亮也は楽しそうに眺めている。


他人が聴いたらなんということのない、たわいもないやりとり。でもそれが今の私たち二人にとって、生活の中で一番大切な時間。

亮也とこうやってビデオ通話をするようになって、一年。

タブレットの世界ではしょっちゅう顔を突き合わせているけれど、亮也と同じ空気を吸えないでいる。


「あのデートの数日後に、亮也がこんなにへ行っちゃうなんて、思ってもみなかったわ」


あれは突然の辞令だった。

現地に行くはずだった人が怪我で骨折をして、急遽亮也に白羽の矢が立ったのだ。

まさかあのデートのあと、一年も会えなくなってしまうだなんて。


私がだなんて、ちょっと意地悪な言葉を使ってしまうのには理由がある。

おそらく亮也に、会えない寂しさをぶつけたいのだ。

でもきっと亮也も同じ寂しさを抱えて、一人慣れない地で頑張っている。

だから真直ぐにぶつけることのできないその想いは、捻じれた形になってしまうのだろう。


この一年、四角い画面の亮也と話しながら、何回も込み上げては飲みこんだ、真実ほんとうに伝えたい言葉。

それはただ一言。


『会いたい』


口にしてしまったら、気丈に振舞う自分が崩れて、己も知らない自分の気持ちが一気に溢れ出てしまいそうで。

頑張っている亮也を濁流に巻き込んでしまいそうで。


だから私は『会いたい』の代わりに、別の言葉で茶化してしまう。


とはひどいなあ」


亮也は、私の気持ちを感じ取っているのだろう。だからいつも乗っかってくれる。


「だって実際遠いじゃないの。ここから四日もかかるのよ? 


「希望、言うなあ。でもここだって、なかなかに凄い都会なんだぞ?」


「ふふ、住めばどこだって都よね」


「うわ、そう来ましたか!」


無駄口を叩いてじゃれ合って……。

そうすることで、私たちはお互いがすぐ隣にいたときの、あの空気感が味わいたいのだと思う。

でもその空気を味わえば味わうほど、私は、今、このとき、亮也に隣にいて欲しいという想いが募る。

もうすぐ任期の一年が終わると思うと、それは尚更。


そろそろ日本に戻る話が出る頃なのだけど……

その話が聴きたくて、私は勇気を奮って切り出した。


「ねえ亮也、会えなくなって、もうすぐ一年だけど……」


ニヤリとした亮也がいつもの調子で私に言い返す。


「こうやってしょっちゅう会えているけど?」


真面目に話を振ったつもりだったのに、ふざけた亮也に私はむくれた。


「もう亮也ったら!」


「お、希望怒ったな?」


なおもふざける亮也に、私も言い返す。


「そういうこと言うんだったら、私なんか画面の亮也じゃなくって、あなたの居る場所がちゃんと見えてるんだからね?」


「うわ、希望、こわっ! 君、超能力者だったっけ?」


「誰にだって見えるわよ!」


「残念だな、僕からは希望の居る場所は見えないよ。そっちは見えててこっちは見えないなんて、不公平だよな」


「家から出てきたら見えるでしょ? ……って、もう、私そんな話をしたいわけじゃ……!」


笑顔がみるみる消えていく私を見て、亮也は慌てていたずらな顔を引っこめた。

そして私と同じく真面目な顔つきになる。


「……希望が言いたいこと、わかってるつもりだよ。僕だって君とのデートがあれきりになるなんて、思いもよらなかった」


亮也が視線を漂わせて記憶をたどる。


「あの日も、満月が綺麗だったよな。希望が僕のすぐ隣にいて……。あれから、一年経つんだな」


亮也があの日のことを口にするのは、初めてだ。

私から幾度となく話したことはあったけれど、いつも亮也は笑顔で頷くだけで、自分から話すことはなかったのに……


私もあの日を思い出そうと、一年前と同じように浮かんでいる美しい満月を見つめた。


あの日、亮也はポケットに何かを忍ばせていた。朝からなんだか落ち着きが無くて、何度もポケットに手を入れて確かめていたから、何が私たちに起こるのか、すぐにわかった。

夜になって、デスティニーランド恒例の花火が満月の夜空に打ち上げられた時、白亜の城の前で亮也が見たこともないぐらい真剣な表情になった。私も思わずかしこまる。でもポケットに手を伸ばした途端、私は急に恥ずかしくなって、つい他の話題を振って茶化してしまった。そうこうしていたら、近くにいた小さい子が花火の音で大声で泣き出して、両親がなぐさめても泣き止まず、私が持っていたマスコットであやしてあげて……。

そうして、私たちは完全にタイミングを逃してしまい、最後までポケットの中身が私に差し出されることはなかったのだ。

でもあの時は、すぐにまたチャンスが訪れると思っていたのだけど……


「……なあ希望」


亮也の声が、私を過去から現在へと引き戻した。


「とうとう決まったよ、帰国する日」


ずっと待ち望んでいた話題に、天にも駆け昇るような心地になる。


「えっ? いつ? いつなの?」


「来週の月曜出発だよ」


「来週!? すぐじゃない! じゃあ、到着するのは木曜ね?」


「うん。……あの、……帰ったら、君に話がある」


どきり、と心が跳ねた。


帰ってきたら、あのとき、耳にするはずだった亮也の言葉を聴きたい。

ずっとずっと、そう思っていた。


亮也は私の笑顔に、自身も目を細める。

その瞳は心なしか潤んでいるように見えた。

それは私の瞳で溢れそうになってしまった涙のせいだったのかもしれないけれど……

潤んだ瞳を誤魔化すかのように亮也は明るく話し出す。


「ようやくこのモグラ生活とお別れだよ。ついに奥地から地上に出られるよ」


「うふふ……。うん、一年間ご苦労様でした」


「でもまあそれなりに快適だったよ? 小さいけれど都市機能も備わっているし。ああでも、しばらく空は見れなかったからなあ。広い空がなつかしいよ」


「ああそうね、地下には空はないものねえ」


「帰ったら……そうだな、満月を君と一緒に見上げたいよ」


亮也ったら、『君と一緒に』だなんて喋っている。もう私に何を伝えたいのか言ってしまったのも同然だ。

本人は全く気がついていないので、私は可笑しくてクスクスと笑い出してしまった。


「うん、そうね。きっと一緒に満月を見上げたら、いろいろなことを思い出すだろうね」


「僕、希望が笑うようなこと言ったか? 真面目にそう思ってるんだぞ」


ちょっとむくれた口調の亮也。

さっきの私みたいだ。


「ごめんごめん。……ねえ、木曜日、空港に迎えに行くからね」


その途端、亮也が申し訳なさそうな顔をする。


「ごめん希望、まだ会えないんだよ」


「えっ、どういうこと?」


まさかの返事だった。


「……到着したあと健康観察とリハビリがあって、君に会えるのはちょうど一ヶ月後なんだ」


私は呆然とする。

すぐに会えると思っていたのに、一ヶ月後だなんて……!

私の大きく膨らんだ期待が、一気にしぼむ。

ああでも、そうよね。すっかり忘れていたけれど、それは当然のことだった。

頭ではなんとか納得できたけれど、気持ちのほうが追い付けない。


嬉しさで緩んでしまった気持ちが、再びピンと張ることはもう無理だった。

だから抑えこんできた私の本音が、零れ出てしまう。


「やっと亮也に会えるって思ったのに……!」


「……希望。……待たせてばかりで、ごめんな」


寂しさと嬉しさを噛みしめながら、私は首を横に振った。


「しかたないわ、こっちの生活に体がついて行かないもの。会えるのは、もう少しだけ、先ね」


頑張って笑顔を作る私を見た亮也は、あの日見せた真剣な表情になって、口を開く。


「僕も、ずっと。……ずっと君に会いたいと思ってるよ」


今まで聞いたことのない、とても柔らかな声で語られた、亮也の本音。

画面越しに、お互いの視線が絡まった。

その途端、私の心はふわりと包まれて、温もりを帯びていく。


「あともう少しだけ、待っていて欲しい。来月の満月の時に、今度こそ君に伝えたいから」


「うん、待ってるわ。ひと月なんて、きっとすぐね」



毎日楽しみにしてきた定番の着信音、『星に願いを』。

再会する特別な日を心待ちにしながら聞くメロディーは、今までよりも、もっと胸が弾むにちがいない。

そう思いながら私はもう一度、窓の向こうの光たたえる満月に目をやった。



夜空に浮かぶ満月だが、月自身は太陽に照らされて輝き、昼の姿を見せている。

その明るさに負けじと、地上から一等星よりも強い光点が、まっすぐに月を目がけて飛んでいく。

月旅客宇宙船だ。

月面都市「アルテミス」への定期便。

人類は、大気の無い月に降り注ぐ、人体に有害な宇宙線から逃れるために、月の地下に広がる巨大溶岩洞の中に都市アルテミスを構えたのだ。


来週、あの宇宙船に乗って、亮也は帰還する。

この地球へと。




これから先の人生を

私は亮也の隣でずっと生きていきたい。


だから私は、

亮也からの待ち望んでいた言葉を、

この胸に迎えたい。



ひと月後、

再び満ちる月の下で。







(了)







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輝く満月の下で、あなたと。 あき伽耶 @AkiKaya

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