三、光り輝く今日

一寸ちょっと、いいかしら。お話があるの」

 卒業式当日、同級生や恩師、そしてあまねとの別れを済ませた葵代きよは、彼女を呼び止めた。

「先日いただいた素敵なお手紙の差出人は、貴女あなたなのでしょう」

 葵代が持つ薄花色の封筒を前にして、瑠璃子るりこ狼狽うろたえる様子もなく淡々と言葉を返す。

「どうして、わたしだと思うのかしら」

「だって、貴女の昨晩の口ぶり、まるで差出人のようだったわ」

 筆跡を変え、下級生を装っても、誤魔化せない。読んだことないはずの手紙と同様の物言いからにじみ出る想いを、葵代は感じ取っていた。

 瑠璃子は自嘲するように吐き捨てる。

「わたしが浅はかにも、手紙を盗み見たのだとしたら?」

「瑠璃子さんはそんなことをしないって、私はよく知っているつもりよ」

 葵代の言葉を、瑠璃子は「適当なことを仰らないで」と冷たく切り捨てた。

「あなたは何もご存じないのよ。わたしがどれだけ欲深く、卑しく、図々しいか」

 瑠璃子の顔は憂いと嘆きに染まり、抑えきれない心情を切々と語る。

「ああ、どうしてわたしは、あなたと同じ年に生まれ落ちてしまったのかしら。わたしはエスが、徇さんのことが羨ましくて仕方がなかった」

「シスターにならずとも、貴女は私にとって特別な存在よ。机を並べて学んだ親友で、同じ部屋で暮らした家族なのよ」

 葵代の慰める言葉も、今は瑠璃子の心を余計に波立たせるだけだ。そよ風に吹かれたさざなみがやがて大きくうねり海嘯かいしょうとして押し寄せるように、一度点いた火が容易に消え失せないように、気持ちが膨らみ弾ける。この感情を堰き止める術を、瑠璃子は持ち合わせていなかった。

「いいえ、それだけでは足りないの。これ以上ないくらい幸せだと自分に言い聞かせても、すぐに欲望が頭をもたげてくるのよ。満たされても、離れた途端にすぐ足りなく思ってしまう。まるで炎暑に放り出されたみたいに心が渇くの。わたしは、あなたの親友で、家族で、エスで、恋人で、唯一無二でありたかった。あなたの全てを独り占めしたくて堪らないの。どうしてくれるのよ。わたし、あなたと出逢うまで、こんな気持ち知らなかったのに……!」

 全てを吐き出した瑠璃子は、最後に力無く「きっと、こんなわたしを軽蔑するのでしょう」と言うと、はかまが汚れるのもいとわずその場にへたり込んだ。

 初めて見る親友の慟哭どうこくを前にして、葵代の心に今までにない愛おしさがこみ上げてくる。まだ知らない一面があったことを口惜しく思う以上に、今このとき、知ることが出来た喜びに心が湧き上がる。

 葵代は瑠璃子の隣にしゃがむと、少しばかりの悪戯心を込めて声をかけた。

「私がそんなことをするとお思いなの? 貴女が好いたのは、この程度のことで軽蔑するつまらない女なのかしら」

「……いじわるなことを仰らないで」

「私も貴女のことが好きよ、瑠璃子さん。愛しているわ」

 優しく寄り添う葵代にあやされながら、瑠璃子が「こんなことなら、もっと早くに、打ち明けてしまえばよかった」と涙ながらに漏らす。葵代は愛おしげに瑠璃子の髪をき、頬を寄せた。

「今からでも遅くはないわ。今日一日で、一生分の私を独占してみせて」

 こうして二人は、たった一日だけ互いの全てを手に入れた。今日という日が終わってしまえば、片や師範学校の学生として、片や嫁ぐ前の花嫁として、それぞれに道を分かつ。その先の人生において二人の運命が交わることは無く、愛を語らう機会は訪れない。二人も、そのことは重々承知していた。

 葵代は幸せなひと時を空想し、歌うように問いかける。

「まずは何をしましょうか。青空の元で庭球テニスに興じてもいいし、流行りの喫茶店へ繰り出してもいいのよ」

「それでは、いつもと変わらなくてよ」

「それじゃあ、不良になって活動写真キネマでも見に行こうかしら」

「お父さまが卒倒してしまいそう」

 やわらかな春風が吹くと同時に、瑠璃子に笑顔が戻る。そうして泣き濡れた顔に可憐で儚い笑みをたたえ、隠すことのない、穏やかな本心を打ち明けた。

「わたし、不安で仕方がなかったの。卒業することで、進路を違えることで、全てが崩れて、消え去ってしまうのではないかって。そうしたら急に気持ちが抑えられなくなってしまったのよ。忘れてくださいと書いたくせに、本当は忘れてなんてほしくないの。葵代さんの、心の一番やわらかいところに、ずっと私を住まわせてほしかったのよ」

 瑠璃子は改めて葵代に向き合う。瑠璃子の瞳には凛々しい葵代のかんばせが、葵代の瞳には麗しい瑠璃子の顔が映っている。

「この学び舎を去っても、お嫁に行っても、わたしはきっと心の奥底で葵代さんを恋慕い続けるわ」

「未来の旦那様に申し訳ないわね」

 葵代は少しも悪びれる様子もなく、太陽のように笑った。


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勿忘草の君 十余一 @0hm1t0y01

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