二、勿忘草の手紙

 日下部 葵代さま

 突然のお手紙にさぞ驚かれましたことでしょう。

 葵代さま、親愛なるお姉さま。今だけはこうお呼びしますことをお赦しください。

 お姉さまはわたしの憧れでございます。学芸会の折り、たくみに異国語を操り学習の成果を発表された、あの気品あるお姿が目に焼き付いて離れないのです。運動会の折り、徒競走で力強く走り抜かれた、あの高潔なお姿に心を打たれたのです。才気に溢れ、冴えかがやく素敵なお姉さま。前下がりの御髪から覗く凛としたかんばせを拝見すると、不思議と勇気づけられる心地がいたしました。お姉さまの自信に満ちた笑顔は、わたしを照らす太陽なのです。

 お姉さまの清く美しいお姿が、どれだけわたしの心の支えになったことでしょう。さながら太陽神に焦がれる花乙女のように、見つめ続けてまいりました。そうして、わたしはいつしか、憧れ以上の気持ちをいだいてしまったのです。

 お姉さまのことをお慕い申し上げております。愛しているのです。

 お姉さまのことを困らせたいわけではございません。ただ、どうしてもこの気持ちを心の内に留めること能わないのです。お姉さまのことを想うと、心が千々に乱れてしまうのです。どうか手紙を読み終えたならば私のことなどお忘れください。明ける闇夜を惜しまぬように、枯れた花を顧みぬように、残さずお忘れになってほしいのです。

 ご卒業後は師範学校へ進学なさるとお伺いしました。ご無理などなさらず、どうかご自愛くださいませ。お姉さまのご多幸を心よりお祈りしております。


 ◇


 夜、寄宿舎へと帰った葵代きよは手紙の封を切った。

 そこにしたためられていたのは、憧憬と恋慕の情。そして忘れてほしいという願い。しかし手紙に綴られた言葉とは裏腹に、淡い青色の便箋には美しい勿忘草わすれなぐさえがかれていた。

 春霞と共に消えようとする想いを、葵代は掬いあげたいと思った。それと同時に、一方的に想いを伝えるくせに忘却を願う、そのエゴイズムすら漂う所業に、いじらしさと幽かな苛立ちを感じていた。そちらが自我エゴを通すのならば私だって忘れてやらない、と心が燃えあがる。


 翌日から、手紙の差出人――“勿忘草の君”探しが始まった。

 まずはクラブ活動の後輩、そして寄宿舎に住まう下級生たち。しかしその誰にも、手紙の差出人であるという確証は得られなかった。あるいは接点のない生徒か、それとも……。

 そうして葵代は、あまねが自分の気を引くために悪戯いたずらしたのではないかという考えに辿り着く。が、葵代がそれとなく尋ねると、徇は栗色の目を丸くして、きょとんと首をかしげた。彼女は嘘をつける性分ではない。こうして勿忘草の君探しは振り出しに戻ってしまった。


 いよいよ明日に卒業式を控えた夜、寄宿舎の一室で、葵代は文机に向かい悩んでいた。未だまみえぬ勿忘草の君はいったい誰なのか、と薄花色の封筒を指先でもてあそぶ。

「葵代さん、お休みにならないの? 明日は卒業式よ」

 同室で過ごす瑠璃子るりこが、心配の色を浮かべて声をかける。煮え切らない返事をする葵代に、瑠璃子は更に言葉を続けた。

「忘れてさしあげるのが良いのではなくて?」

「……え?」

「そのお手紙のことで悩んでいらっしゃるのでしょう。送り主はきっと、葵代さんの御心を煩わせることを望んでいないはずよ。綺麗さっぱり忘れてしまうのが良いと、わたしは思うわ」

 言い終えると、瑠璃子は背を向けて寝入ってしまった。

 もしも葵代が手紙のことを打ち明け、一緒に差出人を探してほしいと相談したならば、瑠璃子は喜んで承諾しただろう。そうでなくても、さいなむ葵代に自ら手を差し伸べただろう。心優しい瑠璃子が思い悩む友を前にして突き放すような態度を取ったのは、これが初めてだ。

 確かな意思を感じる拒絶に、葵代はそのまま暫く思案に耽るのだった。


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