勿忘草の君

十余一

一、過ぎ行く日常

 事の始まりは一通の手紙だった。

 卒業を数日後に控えた麗らかな早春の朝、葵代きよの元に手紙が届く。特段珍しいことでもない。友人同士で、あるいはエス同士で手紙のやり取りをするのは彼女たちの日常だ。その際、直接手渡さず下駄箱に忍ばせ、校内で相手と顔を会わせても素知らぬふりを通すのが暗黙の了解である。

 差出人が書かれていないことに多少の疑問を抱きつつも、葵代は封筒を大切に鞄へ仕舞いこんだ。


 教室は暖かな春の陽射しに包まれ、穏やかな時が流れていた。しかし、どこか浮足立ってもいる。無事に学業を修了する喜び、友人や恩師と別れる悲しみ、まだ見ぬ将来への不安。彼女たちの胸中には様々な感情が渦巻いているのだろう。

 そんなざわめきの中で、葵代は隣席の瑠璃子るりこと挨拶を交わす。

「瑠璃子さん、今日は随分とお早いのね」

 一足先に登校していた瑠璃子は、にこやかに葵代を迎えた。

「ええ、花壇の手入れのためにね。可愛い後輩たちに綺麗な桜草を残したいのよ」

 マガレイトの髪に薄花色の飾り紐リボンを挿し、ぶどう色の袴を纏う瑠璃子は、花を愛する繊細な少女であった。短く切り揃えた髪に洋装の似合う、快活な葵代とは正反対だ。それでも二人は五年にわたり机を並べ勉学に励み、苦楽を共にしてきた親友に他ならない。

「あら、あなたのエスがいらしてるわよ」

 ひと息つく間もなく、瑠璃子が視線を教室後方の扉へ向けた。葵代のエスであるあまねが、控えめに顔を覗かせている。葵代は「一寸ちょっと、行ってくるわね」と断りを入れると、徇の元へ足早に向かった。

 エスとは、シスターの頭文字で、女学校の上級生と下級生が結ぶ特別な関係のことだ。姉妹のように慕い合い、あるいは擬似的な恋愛を楽しむ。どのような間柄になるかは、関係を結ぶ二人に左右された。


「お姉さま。私は寂しゅうございます」

 徇が、葵代に縋るような視線を向ける。別れを惜しみ、少しでも長く一緒に過ごしたいと会いに来たのだろう。その瞳には悲しみの色が差していた。

「入学以来、私はずぅっとお姉さまを本当の姉のようにお慕いしてまいりました。お姉さまに導かれる学校生活は少しの不安も無くて、楽しいことばかりでしたのよ」

 徇の大仰ともいえる物言いに、葵代は「大層なことはしてなくてよ」と冗談めかして笑う。徇はあどけなさの残る頬を膨らませ、自身の横髪をくるくるともてあそぶ。その前髪には葵代と揃いの、金色に光るヘアピンが輝いていた。

 二人の間には、互いに遠慮のないからりとした空気が流れている。

「ご謙遜なさらないで。お姉さまのおかげで今の私がありますの。私は、お姉さまと過ごせて幸せでしたわ」

「私もよ。……次は、貴女が下の子たちを導いてあげてちょうだいね」

 特別な関係を築いてきた二人にとって別れはつらくもあり、また、葵代にとっては妹のように可愛がってきた徇の成長を見守れた満足感があった。


 葵代が教室へ戻ると、瑠璃子は窓から見える景色をぼんやりと眺めていた。心ここにあらずの瑠璃子が呟く。

「きっと、あの子は幸せでしょうね。だって、葵代さんと一緒にたくさんの思い出を作れたんですもの」

 目も合わせずに言う瑠璃子の視線の先にあるのは、四季折々の花が彩ってきた花壇、仲良く連れだつ小鳥、優しいそよ風に揺れる木立、木漏れ日の元に集う少女たち。その全てが、もうじき過去になってしまう。

 葵代の目には、瑠璃子の後ろ姿がどこか寂しげに映った。

「貴女もそんなことを仰るのね。でも、それを言うなら瑠璃子さんもそうなのかしら。だって私たちも、ずぅっと一緒に過ごしてきたじゃないの」

 振り返った瑠璃子の目が驚きによって僅かに見開かれる。が、すぐに目元は伏せられ、儚げな笑みを浮かべるのだった。

「そうね、幸せ。これ以上ないくらいに幸せだわ」


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