霧の中
白河夜船
霧の中
霧の中にいたんだよ。
何がって。
………
山菜採りに行ったんだ。そう、与作と。この間いい場所を見つけたって与作が云うんで、山ン中どんどん分け入って。あの道標にしてる岩、三角岩の辺りまでやって来た。その岩の右ン道が山の頂上に続いてるんだが、与作は左へ曲がっていって、おーい、おーいと俺を呼ぶ。
そっち行って迷わねぇかって俺、聞いたんだ。大丈夫だって与作は答えた。細いが一応道はあるし、三角岩からそんなに離れていない。だから大丈夫だって。半信半疑でついて行ったら、まあ、確かに与作の云う通りだった。
うど、こごみ、ぜんまい、ふきのとう、たらのめ……
ちょっと歩いたとこに、そりゃもういっぱい山菜の生えてる場所があってな。細道ン近くの樹に念のため、目立つ赤い布巻いてから、俺達夢中で山菜を採ったんだ。本当にたくさん生えた。穴場だろって与作は得意気にニコニコ笑ってた。
大きい背負い籠持ってったんだが、あんまり採れるんですぐ半ばを過ぎて、折角だからぎゅうぎゅうにして帰ってやろう、そんで家族を驚かそうって、俺達話したんだ。で、それからまた一所懸命山菜を採った。
集中して手許や足許ばかり見てたから、気づかなかったのかな。そろそろ帰るかって、ふと顔を上げたらさ―――真っ白なんだ。
一寸先も見えない霧が辺りに重く立ち籠めていた。
焦ったよ。だって何もかも濃霧に紛れっちまって、ほんの数歩先にある大きな樹すら、よぉく目を凝らさないと見えやしない。とにかく与作と合流しなきゃと思ってさ、おーい、おーいと俺は与作を呼んだんだ。おーい、おーい。すぐ、返事があった。
おーい、おーい。
呼び合いながら、声を頼りにゆっくりゆっくり歩いて行くと、霧の中にぼぅっと朧な人影が見えた。おーい、おーい。俺に呼び掛けて、手を振っている。
近づこうと思ったが、なんでか躰が動かなかった。全身の毛穴が開いて、肌が粟立つ。背筋が冷える。足が竦む。震えが骨の芯から湧いてくる。――分からないんだ。分からないんだよ。なんでそうなったのか。でも、怖かったんだ。
何がって。
それが。
俺が怯えてじっとしてても、人影は同じ場所に佇んだまま、おーい、おーいと云い続けてる。
おーい、おーい。
おーい、おーい。
おーい、おーい。
おーい、おーい。
おーい、おーい。
おーい、おーい。
……………………
……………………
……………………
ずっとだよ。動きもせず、ずぅっと。
お前、ほんとに与作か?って、俺思わず訊いたんだ。声は小さくて掠れてた。人影はやっぱり、おーい、おーいと俺を呼んでいる。
恐怖ってのは怒りに通じてるんだなぁ。怖いけど、とにかく何かしようとして、俺は叫んだ。その声が、自分でも驚くような怒鳴り声だったんだ。
おい与作、いるか?! 返事しろッ!!
目の前の人影じゃない。本物の与作に呼び掛けたつもりだった。でもな、俺が叫ぶと人影の声がぴたりと止んで―――
おい与作、いるか?! 返事しろッ!!
次の瞬間、怒鳴ったんだ。与作の声で、俺と同じ言葉を。ああ、とその時気がついた。あれは真似してたんだ。俺達の発する
釣りン様子がふと、頭に浮かんだ。
針に虫や小海老、小魚を刺して、糸を水に放り込む。で、餌がまだ生きてるみたいに、釣り竿を時々動かすんだよ。水中でそれを見てる魚は、ちょうどあの時の俺みたいな心持ちなのかもしれない。
見知ったものに似てるけど、何かが違う。
違うから、気持ちが悪い。
こいつが釣りしてンなら、俺は魚だ。捕まったら喰われるんだ。そう考えちまったら、頭がもう真っ白になってな、逃げなきゃって思ったよ。人影からちょっとでも離れなきゃって。
でも、躰がうまく動かないんだ。情けねぇけど震えてたから、手足が云うことを聞いてくれない。もしかしたら、あれが金縛りってやつだったのかもしれねぇな。
石みたく固まったまま、俺はそいつと向き合っていた。
おーい、おーい。
おーい、おーい。
おーい、おーい。
おーい、おーい。
おーい、おーい。
おーい、おーい。
……………………
……………………
……………………
そいつ、相変わらず手ぇ振って、呼んでんだよ。俺を。おーい、おーいの合間に時々怒鳴る。
おい与作、いるか?! 返事しろッ!!
その大声聞く度にさ、心臓がびくりと跳ねて厭だった。逃げなきゃ、逃げなきゃって気は焦るのに、やっぱりどうしても動けない―――
ああなっちまったらもう、神仏に縋るしかねぇよ。半泣きになって、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏って心の中で一心に念仏を唱えた。
そしたらさ、動けたんだよ。
御仏の御加護かもしれないし、念仏唱えてちっと気が安らいだかもしれない。とにかく動けた。じわりと後退ってから、一思いに踵を返して俺は夢中で駆け出したんだ。人影とは、反対の方に。
でも辺りは深い霧の中。どこが帰り道だか分かりやしない。
勇気を出すおまじないように、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……俺は頭ン中で唱えながら、歩き続けた。そうしている内に、視界の端に赤いものを見つけたんだ。
細道の近くの樹に結んでた、布っ切れだよ。
あっと思って細道に入り込んでさ、走った、走った、走った―――――
気づいたら、三角岩のとこに突っ立ってた。
今までのことが夢だったみたいに霧はすっかり晴れていて、背中が軽いんでふと見ると、ないんだよな。山菜が。俺はいつからだろう、空っぽの籠を背負ってたんだ。
与作は、待てども戻って来なかった。
迎えに行こうかとも思ったけど、躊躇っちまって。一人で行ったらさっきの二の舞だ、皆を呼んでくるべきだって自分に言い聞かせて、里に降りた。……半分は、言い訳だよなぁ。
で、その後は知っての通り。男衆かき集めて山入って、陽が傾くまで与作を探した。見つからなくて、あの細道すら見つからなくて、翌日も、翌々日も――駄目だったなぁ。結局どこにもいなかった。与作は、きっとあれに、
………
何だったのかね、あれは。
霧の中にいた、あれ。
里の皆は狐だろうって云ってるけれど、ほんとのところは分からない。見たのは俺だけだし、見たところでな。影だもの。正体なんて知れやない。――ああ、そうだな。狐ってのはそういうもんを指す言葉なのかもしれねぇな。
さて。寝物語はおしまいだ。
俺ァ寝る前にちょっと仏様を拝んでくるよ。
どういう理屈かはまぁ置いといて、いざって時に肩貸して下すったのは間違いねぇんだ。信心しないと罰が当たらぁ。
霧の中 白河夜船 @sirakawayohune
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