第三話 回復ポイントをつくりながら歩く

「たくさん食べて、いっぱい太ってね。最近娘ちゃんはブタに似てきたけど、もっと似たら面白いよね」

「うん……。ぶひー」

「あはは、面白ーい。これからブタって呼ぼうか。ブタ!」

「ぶひひー……」

 母はとても喜んでいます。私は悲しい気持ちと、奇妙な疲労感におそわれました。

「あ、そうだ、この前、ブタは親戚からディズニープリンセスのハンカチもらったでしょ。あれ、ママ友にあげたよ。あと、運動会のダンスのときに着た浴衣と髪飾りもあげたよ」

「ど、どうして?」

「だって、私、ディズニー好きの女って嫌いだもん。あとブタが浴衣着て髪飾りつけるとか、ぷっ、もう笑わせないで」

 私の大事なものを人に配るのが、母にとって楽しみの一つのようでした。水玉靴下も、存在を知られてしまった以上、そのうち失うことになるのでしょう。でも、もう慣れてしまって何も感じません。

「もらった子、ことしの夏は浴衣が着られて嬉しいって感謝してたよ、良かったね!」

 母に悪気はありません。ただ、私に心があることを知らないだけなのです。それに子供のころから女友だちがいないので、娘を犠牲にするやり方でしかママ友付き合いができないだけなのです。

 私はとても疲れた感じがします。それでいて大声で叫びたいような気もします。でも心は不思議なくらい無痛です。



 そのとき、玄関で鍵があく音がしました。お父さんが帰ってきたのです。お母さんは嬉しそうな微笑みを浮かべて、玄関まで出迎えにいきました。私も少しおくれて、あとから出迎えにいきました。

 お父さんが無言でバッグを差し出すと、お母さんは黙って受け取りました。お互い何も言いません。二人は仲が良いはずなのに、どういうわけか滅多に会話をしないのです。だから、たまにレストランに行くと、ほかの家族が会話をしているのを見て、私は驚かされるのでした。

 よその家庭では、夫婦って、どんな会話をするんだろう?

 3人以上で会話をしている家族は、どうなっているのだろう。私みたいに、親の一方的な話を交互に聞いてあげるわけではないようだけれど……。


 お父さんは、私の足にちらりと目をやって、「あ」と言いました。

「足に線が入ってる。それ何」

 靴下のことを言ってくれるのかと期待してしまったので、ガッカリしました。

「これは5歳のときに自宅で怪我して縫った跡だよ」

 私は20センチほどの傷跡を撫でました。親に忘れられた傷跡です。

「そんなの僕知らなーい。僕ね、おなかに大きい傷があるんだよ! 3センチもあるんだよ!」

「うん、何度も見せてもらったから、脱いで見せてくれなくていいよ。確かとっても痛かったんだよね?」

「うん!」

 無邪気に笑うお父さんが、一瞬赤ちゃんに見えました。

「お父さん、きょう、この靴下で学校に行ったせいで、豆まきさせてもらえなかったよ」

「へえ」

「へえって……。なんでそんなどうでもいいって口調なの」

「僕よくわからないな」

 父は高学歴なのですが、私の話は理解できないことが多いようでした。

「だって僕関係ないもん。面倒事に僕を巻き込まないでよ」

「……じゃあもういいから、今からみんなで豆まきしたい」

「そんなのおかしい!」

 急に父が怒り出したので、私は戸惑いました。

「だって学校で豆まきしたのに、節分は一年に一度って決まっているのに、2回やるのは間違いだ」

「でも、私は豆まきできなかっ……」

「2回は変!」

「だから……もう、ちゃんと話を聞いてよ! お父さんさっきから何言ってるの、おかしいよ」

 ぱっと父の目つきが変わりました。スイッチが入ったようです。

「親に向かってなんてことを言うんだ! このわがまま娘、ほんっとうに可愛くない」

「だって、お父さん……うう……どうしてなの、どうしてお父さんもお母さんも話が通じないの」

「すぐ人のせいにするのをやめなさい。論理的に会話しなさい」

 豆まきがしたいって論理的にどう言えばいいの。親子の会話って一体どうやったらできるようになるの。わからない。

「悲しい……」

「僕は悪気がないんだぞ! だから悲しいと感じるのは心が間違っている! お母さんの育て方が悪いせいで、この子は心が間違っている」

「違うもん、私悪くないもん」

「はあ、これだから女は話にならない。この子……名前はなんて言うんだか忘れたけど、ロジカルじゃないしお母さんそっくりで頭がおかしいね」

「違うもん、私とは全然違うもん」

「僕やっぱり息子が欲しかったな。名前も決めてたのに、女でガッカリ」

 物心つく前から言われ続けている言葉のゴミを脳みそに詰め込まれながら、私は明日のことを考えます。


 あしたも、学校に持っていかなきゃいけないものがある。

 でも、言ったところで……。


 嫌だなあ、憂鬱だな。なんだか学校も行きたくないな。友人の家庭はうちとは全然違うみたいだし。私が当たり前のことだと思って家庭内のことを友人に話すと、嘘をついていると思われたり引かれたりしました。そこで初めて「あっ、これは普通じゃないんだ」と、うちの異常さを思い知ることになります。戸惑ったような信じられないというような目で見つめられるとき、私は裸でみんなの前に立っているような羞恥心と不安に襲われるのでした。


 恥ずかしくてみじめな気持ちは、アイデンティティーといってもいいぐらい、私を語る上で欠かせないキーワードとなりました。


 小学5年生のころから、疲労感に悩まされるようになりました。頭が重くて、体がだるくて、熱っぽいのです。あと原因不明の腰痛も。

 いわゆる五月雨登校になり、騙し騙し中学までは頑張りましたが、高校は本格的に登校が無理になりました。今にして思うとうつだったのかもしれません。

 学校でも疲労がたまる日々でした。私はいつの間にかイジメをやめさせる役割を背負わされており、欠席すると同級生から「あなたがいないとイジメ加害者が悪さをする。休まれたら困る」という手紙がプリントとともに届くのです。

 体育祭などのイベントごとの日は、同級生から特に強い登校要請があるので無理して登校するわけですが、そうすると先生から「楽しいときだけ学校に来るんだね」と嫌味を言われ、それでもいじめっ子たちには釘を刺さなきゃいけないし、なんかもうしんどい、疲れたって感じでした。


 家でも外でもゴミを引き受けるのが私の役目。

 喉が、渇いていく。


 親は、学校に行けなくなった私に自殺してほしいと頼んできました。でも、おかしいですね、「親に迷惑かけるぐらいなら、学校なんて辞めろ」と言い続けていたのに。「入学式も修学旅行も、準備とかよくわからないし面倒だから休めばいいよ」と言っていたのに。

 ああ、でも、主張は一貫しているのかも。親に迷惑をかけるぐらいなら「学校を辞めろ」が「死ね」になっただけなのですから。


 そのくせ、両親は以下のようなことも言っていました。


「娘のことをとても可愛がっています。人が見たら過保護、甘やかしているって思うんじゃないかなっていうぐらいの溺愛です。だから、娘ほど恵まれた子もいないと思います」




 『……おやおや?

 もうマラソン大会は終わったのに、路上に倒れている参加者がいますね。みすぼらしいブタですね。

 もしもーし、ほかの人たちはとっくにゴールしちゃいましたよ。そんなところで這いつくばっていないで、立ち上がったらどうですか。

 おや、ブタは倒れたまま懐からチラシと鉛筆を取り出しましたよ。うつぶせ状態でチラシの裏に、親への恨みつらみを書きながら何か言ってますね』


「私は私を大事にすることにした」


『一体なんなんでしょうかね。あ、ブタが立ちました』


「私は私を喜ばせようと思う!」


『急に叫び始めましたね。意味がわかりません』


「生きてるだけでえらい!」


『いや、そんなことよりマラソンをゴールしませんと。まともな人はみんなゴールしてますよ。

 あ、どこ行くんですか、そっちはゴールじゃない……』



 私はチラシを捨てて歩き出す。

 たまに立ち止まって、空を見上げたり、美味しいものを食べたりする。昔を思い出して悲しくなったときは、私が私の親になったつもりで抱きしめてあげる。

 歩いていると、ごくまれに、きれいなものを発見する。悪いところだけではないのだ、世界も人も私も。私の心の中にいる女児が笑う。すると雨が降る。そうすれば、ここが給水ポイントだ。忘れずに金色のノートに書いておこう。喉が潤ったら、きれいなものにお別れの挨拶をして、また歩き出す。

 ゴールなどない。

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両親が「こんな私」と「理あ彼くん」でした ゴオルド @hasupalen

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