第二話 通じなくて悲しくて

「間違っているのは世間のほうなのに! おかしい!」

 そう考えている父にとって、私は敵だったのかもしれません。いつだって私は世間のほうに味方しているのですから。

 そのせいでしょうか、父は私の顔も名前も生年月日も、その他もろもろ、私に関するあらゆることを覚えてはくれませんでした。そして、おまえのことなんか忘れて何が悪いんだ、悪気はないのだから責めるのは間違いだ、そう繰り返し私に言い聞かせるのでした。


 しかし、父は怒りのスイッチがオフになっているときは穏やかで人畜無害、人から何か注意されたら、頭をぼりぼりかきながら一応謝罪はできるので、「優しそうなお父さん」と周囲には評判なのでした。父は社会的に信用のある職業、母は専業主婦で凝った手料理をつくります。二人とも付き合いの浅い人に対しては常識人のように演技するのもお手のものでした。一人娘がわがままで苦労している優しいご両親。それが周囲からの評価でした。


 もちろん両親の正体を知っている人たちもいます。たとえば恩人やまともなママ友などがそうですが、良識ある人たちですから悪い噂を流したりはしません。それに、うっかり周囲に異常さがバレるとすぐに転居しますので、両親の評判は非常に良いままに保たれているのでした。



◇◆◇


 今日もまた謎すぎるお父さんの怒りのスイッチが入ってしまったようです。

「豆まきだからきれいな靴下だなんて聞いたことがない。非常識だ。いつも学校にいくときに履いている靴下があるんじゃないのか。それでいい!」

 激怒してしまったお父さんは、ふだん以上に話が通じませんし、お母さんは私のためにお父さんに反論することはないので、諦めるしかありません。


 じゃあ、せめて一番きれいな靴下を……隠し持っていた水玉模様の靴下を用意することにしました。まだ数回しか履いてないから一番きれいです。洗濯するときも、自分で手洗いして大事にしていました。でもちょっと毛玉がある……。

 私が洗面所で毛玉をとっていたら、母がやってきて手元を覗き込んできました。

「うわ、水玉模様! それどうしたの」

「う、誕生日にお友達がくれたの」

「やだあ、リボンついてる。女アピールしてる」

 騒ぎを聞きつけた父がやってきて、母に加勢しました。

「僕、女って馬鹿だから嫌い。論理的に話ができないし、くだらないことしか言わないし」

「女って嫌だよね。性格悪くて女アピールするから気持ち悪いもん」

 両親にとって女は悪であり、そして悲しいことに私は女なのです。

「この靴下はやめる。それで明日はどうしたらいい?」

「今履いている靴下を、明日も履きなさい」

 汚れてるけどいいのかな。

「教師なんかより僕のほうが立派な職業なんだから、僕のほうが正しい」

 本当に……?

「お母さんは海鮮巻きだよ」

 えっ? ああ、恵方巻きの話ね。

「お寿司! 僕どうしよう」

 二人とも、思いついたことは何でもすぐさま私に言わないと気が済まないのでした。話すタイミングを待つこともできません。

「僕、玉子にする! だってね、お兄ちゃんが子供の頃に……」

「私、海鮮じゃなきゃ嫌なんだもん!」

「待って、二人同時に話しかけてこないで。ひとりずつ順番にね」

 両親はにこにこ笑って、嬉しそうにしゃべります。10歳の私は虚ろな気持ちになります。親は私に向かって話しているけれど、本当に私がそこにいることを認識できているのでしょうか。私の話は聞いてもらえず、一方的に言葉を耳に流し込まれて、どうしてだか私はゴミ箱になったような気持ちになるのです。




 翌日、学校で、私はやっぱり恥ずかしい思いをしたのでした。


 先生はつまさきが黒ずんだ私の靴下をじっと見つめながら、

「靴下が汚れてるけど、きれいな靴下って言われたのを忘れちゃったんだね」と、言いました。

「ビニールシートの上で殻つきピーナッツをまいて、それをみんなで拾って食べるから、それじゃシートの上にあがれないよ」

「ごめんなさい」

 私は恥ずかしくて泣きたい気分です。

「あなたは普段はしっかり者なのに、たまに持ち物を間違えちゃうところがあるね」

「それは、その、親の言うとおりにしたら、こうなったんです……」

「うーん」

 先生の声が、急に厳しさを含んだものとなりました。

「自分が忘れたのを親のせいにするのは良くないよ。次からは忘れないようにメモしようね」

 違うのにな。でも、親のことを人に話して、信じてもらえたことは一度もないのですから、この先生だけを責めるわけにもいきません。


 親のことを人に相談しても誰も信じてくれないのは地味に辛いものがありました。

――きっと君が親を怒らせることをしたんだ。そうじゃなきゃ親はそんなことを言わないよ。

――あなたが誤解しているだけじゃない?

 誰も私の孤独には寄り添ってくれませんでした。それどころか、「あなたが大人になってあげて」と、小学生の私に言う大人もいました。



 その日、帰宅すると、台所で夕食の支度をしている母に、私は学校でのことを話しました。

「学校の豆まき、私だけ参加できなかったよ」

「ふーん。そんなことよりお母さん、新しい口紅買ったんだ。見て見て」

 母は真っ赤な唇を私に突き出してみせました。

「うん、綺麗だね。お母さんは美人だからいいね」

「やだあ、私なんか全然ブスだよ。だから娘ちゃんもブスなんだよね。みっともない姿に生んじゃってゴメンね。ブスすぎて可哀想!」

 私はみじめな気持ちになって俯きました。

「うん……。それでね、豆まきができなかったの」

「それさっきも聞いたよ」

「じゃあ、なんで何も言ってくれないの」

 残念だったねとか、何かあるでしょう。何か言ってよ。

「うん」

 いや、うん、じゃなくて。

「ふーん」

 ねえ、お母さん、私の話聞いてる?

「うん」

「じゃあ、今なんの話をしていたか説明できる?」

 母は、えっとね……と言ったっきり、黙り込んでしまいました。

「お母さん、寝てる?」

「やだ、寝てないよ。あはは」

 私が悲しいとき、親はいつも笑顔のような気がします。

「お母さん、私ね、みんなと一緒に学校の豆まきっていうのをやってみたかったんだよ。きれいな靴下を用意してくれたら、私も参加できたんだよ」

 母はきょとんとしました。

「え? 私が悪いの? じゃあ私なんかいなければよかったんだ。私なんか死ねばいいね」

 母はいつもこう言って、私の抗議の声を封じようとします。

「そんなこと思ってないよ。お母さんには死んでほしくないよ。そうじゃなくて靴下が」

「靴下が欲しいの? ならそう言えばいいのに。言わずに察してもらおうとするのやめて? 私、そういう察してちゃんの女ってキラーイ」

 あまりの伝わらなさに私は泣き出してしまいました。

「ああもう、そんなに靴下が欲しいんなら、今から買いに行けば?」

「いまさら買っても……。そうじゃなくて私は豆まきがしたかったの。だから、これから家で豆まきしたい」

「豆ごはんが好き! あのね、昔から好き!」

「……うん、知ってる……」

「今夜は恵方巻きなんだよ。娘ちゃんのためにエビを買ってきてあげたよ」

「そうなんだ。ありがとう……。それで豆まき……」

「そうよ、娘ちゃんはエビが好きなんだもんね」

 母はうんうんと頷きました。

「娘ちゃんは伊勢エビが食べたいだろうから、お母さんはスーパーを3軒もハシゴしたんだよ。でも、どこにも売ってなかったからお魚屋さんに買いにいったの。お店のご主人、娘さんはわがままで贅沢だねって、ろくな大人にならないよって言ってたよ」

 わがままな娘のために奔走する母親を演じるのが、お母さんは大好きです。そのため私は会ったこともない人から、ろくな大人にならないと言われまくっていました。誰かが私を悪く言っていたと教えてくれるときの母は、生き生きとして幸せそうでした。

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