幽巡

長谷川昏

ある老女の告白

 私がその年老いた女性と出会ったのは、積もり積もった借金と支払いを滞らせたままの養育費の工面にいよいよ首が回らなくなってきた頃だった。


 しがないライターでしかない私は書き物のネタと雀の涙ほどの金をどうにか得ようと他力本願で仲間や知り合いに連絡を取り、ある一人の女性を紹介してもらうことになった。

 紹介してくれた友人が言うには、彼女は少女時代にある村で奇異な体験をしたという。友人のどこか厄介払いしたくもあるような表情(もしかしたら私に向けられたものかもしれないが)が多少気になったが、返済期限が迫っていた私は二つ返事で引き受けた。


 秋の気配がようやく漂い始めた九月下旬、彼女、土岐ときつたは待ち合わせた老舗の喫茶店に時間どおりにやって来た。

 八十一才という年齢の割に顔立ちは若々しかったが、肌や髪には年相応のものが見られ、皺が刻まれた首や濃紺のブラウスから覗く腕や手首は、こちらが心配なるほどに病的に痩せ細っていた。


「……もう長くはないのです。だからこの話を誰かに聞いてほしかったのです」


 そのように前置きした彼女は私に一礼すると、滔々と語り始めた。




***




 わたしがその村に連れてこられたのは十三のときでした。

 戦争で家族を亡くし、身寄りを失ったわたしが紆余曲折の末に辿り着いたのがその村だったのです。のちの長い人生を振り返っても、あの村で過ごした数ヶ月のことは今も鮮明に覚えています。

 

 D県にかつて存在したN村。既に住人は皆死に絶え、もう地図にも載ってません。

 当時の村人は三十人にも満たないもので、家も十軒ほどでした。周囲は山深く、昭和三十年頃の片田舎の話ですから交通手段にも乏しく、冬には雪に閉ざされるような所です。


 そんな村にわたしを引き取ったのは、村を治める村長のような役割を持つ久世くぜという、当時五十才くらいの男でした。

 村にあるほかの家はあばら屋に毛が生えた程度のものでしたが、久世の家は多少立派でした。質素でありながらも木造りの門があり、その先には母屋、奥には離れがあって、一番奥にはかなり古びてはいましたが土蔵までありました。

 久世の家には彼の妻、母、三十代前半の独り身の息子がいましたが、それらの紹介もそこそこにわたしが連れて行かれたのは土蔵の地下でした。

 先を行く久世の後を追って黴のにおいが漂う階段を降りていくと、そこは八畳ほどの座敷になっていました。


 電灯は灯っていましたが、薄暗かったです。地下なのでもちろん窓もありません。

 目が慣れてくると、座敷の奥の方に格子があるのに気づきました。久世はその格子の近くまで歩み寄ると手にしたランプをかざして、「おまえの役目はこの男の世話をすることだ」と言いました。わたしはランプが照らす方に目を向け、その先にあったものを見て悲鳴を上げそうになりました。


 頑丈に閉ざされた格子の向こう、所謂座敷牢と呼ばれるもの中に人がいました。促されて恐る恐る近づきましたが、その人は微動だにしません。

 久世が男と言ったので男性なのだと理解しました。粗末な着物を纏うその人は、暗い格子の向こうで正座をしています。膝の上に置かれた手に皺などがないのを見て、青年なのかなと思いました。それ以外に彼の人となりを判断できるものはありませんでした。彼の頭部はすっぽりと、薄汚れた布袋で覆われていたからです。

 わたしはその得体の知れなさにおそろしくなって、久世を見上げました。しかし返ってきたのは冷たい視線だけです。

 身寄りもなく、他に行き場のないわたしはここからもう逃げることはできないのだと、とても絶望したのを覚えています。


 この家でわたしに与えられた仕事は、文字どおり彼の世話でした。

 毎日朝夕に食事を運び、週に一度彼の身体を拭う。

 初めは彼に近づくことすらおそろしかった。彼はひと言も口を利くこともなければ、用を足すときと食事をするとき以外、動きもしない。人と接している気はまったくしませんでした。でもその気持ちは次第に薄れていきました。彼を憐れむ気持ちの方が大きくなっていったからかもしれません。


 彼が布袋を被せられているのには理由がありました。彼の顔は焼け爛れたようになっていたからです。

 首の半ばまで続くそれが生まれつきなのか、何らかの事故でそうなったのか分かりません。けれどそれ以外の爛れていない肌は女性のようになめらかで透きとおっていて、それがより悲壮感を誘いました。

 こんな姿である故に地下に閉じ込められている。

 強くそう思ったわたしは彼を閉じ込めている久世の家族や、恐らくこのことを知りながらも見ぬふりをしている村の人々に対して、怒りにも似たよくない思いを抱き始めました。


 村での生活が幾週間も過ぎると、ここがどういった村であるのか段々と理解し始めるようになりました。

 流れる川から遠く離れた村の中心には、人々の命綱でもある唯一の井戸がありました。洗濯や炊事、そのために村人達が集まってきます。その様子をわたしは傍から窺うことで彼らの生活ぶりを観察しました。

 食べものはほぼ自給自足で賄っているようでした。老人世帯が半数を占め、若者も若い夫婦も少なく、子供も僅か。

 それ以外にも気づいたことがありました。村人のわたしを見る視線が酷く冷たかったことです。よそ者であることもその理由でしょうが、それだけではなかったようです。

 彼の世話をさせるためにわざわざ外から人を連れてくる。それは村の貴重な財産である若者や娘に、その役目をさせたくなかったからだと察しました。もしわたしが嫌がったり、完全に拒否したりすればきっとまた別の子供を連れてくる。村人の一段下のものを見る蔑んだ目を見て、わたしは〝替えの効くよそ者〟なんだろうと思いました。


 そんな中、興味深く重要な話も聞くことができました。村の若者の一人がわたしの気を引こうと、こっそりと話してくれたものです。若者は後にわたしに話したことがバレて、こっぴどく叱られたそうですがそうなっても仕方ない話でした。


 村唯一の井戸が決して涸れず、流行病にも襲われず、細々とした収穫しかなくとも村の人々が飢えずに生きられるのは、座敷牢にいるあの男のおかげだと。

 真相は不明でも、村の人々はそう信じている。男は久世の家に匿うしきたりであるが、彼はこの話を語った若者の祖父の代よりもっと昔、もう百年以上も前からあの姿であの座敷牢にいる――。


 わたしは語られたその話を聞いて最初は笑いました。でもすぐにきっと本当なんだろうと思いました。

 村の人々は飢えずに暮らしていけるが、決して豊かになることはない。

 村の人々は穏やかに暮らしているように見えるが、生きながら死んでいるようにも見える。

 生かさず、殺さず。

 まるでこの山深い村で静かに滅びていく呪い。

 もしかしたらわたしがそうなればいいと、思っていただけかもしれません。

 衣食住を与えられたとはいえ、こんな場所に連れてこられ、蔑んだ目で見られ、若さと人生を搾取され続けている。

 彼も同じです。一方的なしきたりと信心のために地下に閉じ込められているのに、接触すら避けられる忌み者だと思われている。

 村がいつか滅びる前にここから逃げ出そう。そう思いました。そうなったときには彼のことも逃がしてあげよう。彼の世話を毎日続けながらそんなことを考えていましたが、その日は案外早く訪れました。

 

 はしばらく前から気づいてはいたのです。

 久世の息子、太一たいちが時折夜更けに土蔵に入っていくのです。最初に見たのは偶然でした。夜中に用を足しに外に出たときに、こそこそと身を忍ばせながら土蔵に向かう太一の姿を見ました。使用人部屋に戻って窓から見張っていると、三十分ほどで出てきました。それ以降何度か太一の姿を見ましたが、全て満月の夜でした。


 ある夜、わたしは太一が何をしているのか確かめようと密かに後をつけました。土蔵へ向かい座敷牢に歩み入った太一は灯したランプを床に置くと、布団で寝ている彼の頭部を覆う布袋を剥ぎ取りました。わたしは物陰に隠れながら、ここに初めて来たときのように声を上げそうになりました。

 布袋の下から現れたのは、とても美しい顔だったのです。その美しい顔をしばらくうっとりと見つめた太一は次は着物を乱暴にはだけると、彼の脚を自分の肩に掲げ上げ、まぐわい始めました。

 湿った音が座敷牢内に響き、息も絶え絶えになりながら顔を歪めて快楽に浸る太一の姿は、醜悪以外の何ものでもありませんでした。けれどその様相から目を逸らしたくてもできませんでした。


 太一に組み敷かれ、獣のように呻く彼。

 その姿にわたしは魅入られました。

 幾度も見てきた彼の肌は一段となめらかで透きとおり、その美しさに目が離せません。

 呻く姿は太一と同じく醜悪であるはずなのに、まるで別もの。

 結局太一がその姿を眺めていました。

 満足した太一が土蔵を去り、彼が寝息を立てて眠り始めてもわたしはまだそこにいました。触れてみた下穿きの中が、ぐっしょりと濡れていたのを覚えています。

 それからも何度か彼と太一の行為を盗み見ましたが、この異常事態を〝どうにかしなければならない〟と決意したわたしは、その先の行動を淡々と進めました。

 

 殺鼠剤は物置の奥で見つけました。それを村の井戸に入れました。

 水を飲んだ村人はばたばたと倒れていきましたが、皆に決定的なとどめを刺すまでには至りませんでした。

 でも最初から村を焼くつもりでいたので、生きている者がいても気にしませんでした。

 燃え盛る村を背にわたしは彼の手を握って逃げました。

 望まぬともこの閉鎖的な因習村に囚われ続けた彼。

 勝手な都合でこの村に連れてこられた自分と重ね合わせていたのかもしれませんが、それは言い訳でしかありません。

 わたしは彼が欲しかった。

 それだけのように思います。

 村を出た後、わたしは歳をごまかして水商売の仕事にありつきました。居場所と職を転々とする生活は大変でしたが、彼を養うためと思えば何もつらくありませんでした。結婚もせず、子供も持たず、こつこつと働いてお金は蓄えてきたので老後の心配はしてませんでしたが、病には勝てませんでした。

 人生に未練はありませんが、残していく彼が不憫でなりません。

 わたしは彼を殺そうと思っています。

 けれど姿を殺すことなんてできるのでしょうか。

 反対にわたしが殺されてしまうかもしれません。

 でもそれで構いません。

 それが本望です。




***




 彼女が去った後、私は喫茶店に残って考えていた。

 紹介してくれた友人の厄介払いしたかった表情の意味が分かった気がした。

 彼女の話は本当なのか、もしくは死期が迫った老女の戯言か。


 私の手には彼女の住所がある。

 彼女はいつ〝実行〟するのだろう。

 もし、彼女が死んで〝彼〟が生き残ったら……。

 彼女は最後に本望と言った。

 女性の幸せを全て放棄し、彼に捧げた人生。

 その行為は幸せとは何か、人生とは何かを超越している。

 借金も養育費もしがらみも、全てが〝向こう岸〟の出来事……そう思わせてくれる彼に一度会ってみたいとそのように考えてしまうも、既に魅入られているのかもしれない。



〈了〉

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