Ⅳ
生まれて来なければ良かった。
そう言って泣き、もう苦しむ必要のないこの環境に安心したような顔で書類を受け取り、満開の笑顔で走り出す死者を見たことがある。
その言葉は、ほかの天使の誰にも響いてなかった様だけど、僕の胸元には深く突き刺さっていた。
その死者に似た声がするだけで身体が一瞬動かなくなるほど、よく効いている。
目が覚めてすぐ、昨晩サカリエル様に告げられた半ば決まっているも同然のお役御免宣告に僕の瞳の奥が痛んだ。
どの天使よりも早く、窓口へ向かう。
そこには既に受付待ちの死者が屯しているが、皆一様に僕の姿を目に留めては落胆の色を浮かべて顔を伏せた。
ため息を付くのはご法度だと分かっているけど、今日をもってどうせ役目を終える身なら別に良いんじゃないか、と邪心が産まれた時、1つの足音がこちらへと向かってきた。
死者の間を失礼、と声をかけながら縫って現れた彼は、他の死者と一線を画す、麗しい青年だった。
「受付、お願いできる?」
一見真っ白にも見える金糸のような髪に、象牙のような透けて消え入りそうな白い肌。柔らかく細長い睫毛がびっしりと縁取る深紅の瞳は儚く幻想的で、薄汚れた黒いシャツでさえ彼の美貌を引き立てる要素に過ぎなかった。
少し遅れてきた天使たちが、こぞってこっちも空いてるよ!こちらへおいでよ!と声をあげる。他の窓口の客を勧誘するのはタブーだったけど、そんなことはお構い無しだった。
「君達うるさいよ、俺は彼に頼んでるんだから」
先程と何ら変わりない人当たりの良い笑顔で、彼は天使たちを一瞥した。
彼が所定の位置につくと、手元に生前書類が現れる。
僕はその内容を見て、思わず息を呑んだ。
「…恐れ入りますが、ここに来る前神はなんと仰いましたか?」
よく聞いてくれた、とでも言いたげにほんのり桃色がかった薄い唇が弧を描く。
「…天国への階段を登りなさい、って、そう仰ったよ」
ルーア・カルテヴォン、享年19歳。
その文字列だけが、大きな紙の一面にぽつんと浮かんでいて、それ以外は拒まれたかの様にどこにも存在しない。
悪事を働いた記録もなければ、逆に善行を積んできた記録もない。彼の19年はどこに行ったのか、誰も知る術は無い。
「ようこそ天国へ。苦難の生涯に安寧を、神の…主の御加護が、あらんことを」
僕は渋々といった様子を気取られぬよう、発行された天国在住の証明書類を彼に渡した。
ありがとう、と笑う彼は善行を重ねてきた好青年のそれでしかなく、印刷ミスという結論が勝手に脳内で紐づいた。
「ねえ君、名前は?」
もう行ったものだと思い再び俯いた僕に掛けられたのは、予想外の質問だった。
天国と地獄 @879-n
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