第5話

 魅鬼みきは飢えに耐えていた。鳴らない胃袋は、今も締め付けてきている。じっと座り込んで、唾を飲み込み、次の食事を待ち続けた。


 老婆が降りてきて、餌を持ってきた。餌は恍惚に顔を歪ませ、魅鬼の前に跪いた。尾を花のように開き、頭から噛り付いた。味わう必要はない。骨を潰す音が響いた。


「ハルはどうした」

「死にました」


 魅鬼は目を伏せた。

 人間は早く死ぬ。少し早いか遅いかの違いだけだ。日常にほんの少しの刺激を与えた。最も多く言葉を交わした人間だった。地面に伏せ、鼻を鳴らした。


「どう死んだ」

「足を滑らせて死んだようです。あの者はめくらでしたから」


 ぴくりと黒い鼻先が動いた。老婆は天井から差し込む月明りを浴びない。影の中で穏やかに微笑んでいる。

 咀嚼していた人間を飲み込む。幾人の人間が抱く執着によって、ハルは死んだのだ。


「死体は」

「川に流されて――」


 老婆の口が、顔が暗闇に沈んでいき、黄の和服だけが浮かんでいるように見えた。あの娘は、多くの女たちが願ってきたことすら叶えられないのだ。

 喉が渇いた。


「腹が減った」

「はい」老婆はにこやかに応対する。

「村の誰でもいい。食わせろ」

「みな、喜びます」


 熱を帯びた目に変化はなかった。魅鬼に残ったのは飢えだけだった。

 人間がやってきては飢えを満たした。食っても食っても足りなかった。集落の住人は喜んでその身を投じた。魅鬼を外に出すことはなかった。

 集落の人口は減っていった。足りなければ外の人間を誘い出せばいい。

 ハルと似た人間を探すのだ。


 日が落ちて、また昇る。天井の窓辺も、庭の草木が伸びていくことで影を作る。雨が降った日は、座敷牢の隅に水が滴る。幾ら呼ぼうと、誘おうと、食われることに恐怖する者は一人もいなかった。

 集落に住人はいなくなった。

 山向こうの人間を探し、誘い水をかけるように手招きをする日々を送っている。尖った耳は垂れ、大きく揺れていた尾はしな垂れている。


 春が来て、夏の日差しが降り注ぐ。秋で紅葉が落ち、冬で葉が枯れる。そして芽吹きの時期がくる。鳥が訪れようと、巨大な彼の前では飢えを凌ぐ手段でしかない。

 嵐が起き、座敷牢を揺らした。

 四方の摩耗した札が大きくはためき、破れ、暗影の中に落ちた。魅鬼は黒く乾いた地面を踏みつけ、札を追いかけるように常闇の中にその身を沈ませた。


 外に出ると、嵐はやんでいた。雲が散った夕闇の空には薄く星が瞬いている。群青に隠れて、赤い日の光が滲んでいる。日は山に隠れて見えなかった。集落は山の影に沈んでいた。

 かつての豊かさは見る影もない。集落を後にし、山の中に入る。

 輪郭を探るよう、異形の犬は地面に鼻を擦りつけている。岩場から、糸を垂らすように水が落ちているのが見えた。麓に向かう川を囲むよう、小石が疎らに敷いてある。

 近くの木陰で足を止める。狙いをつけて、しゃ、しゃと地面を地面を掘る。黄ばんだ骨が見えると、魅鬼はそれに食らいついた。掘って、噛みつき、嚥下する。数度繰り返すと、満足して身を横たえた。

 餓えていた。最後の骨にしゃぶりつく。

 蝉の鳴き声が鳴り響く、騒がしい夜だった。


 ――行燈が若葉色の瞳を横切った。

 足音が砂利を踏んでいる。遠くで群れを成している。点を繋いだような光の列から目が離せなかった。

 白い体を起こす。咥えていた骨を落とす。行燈でできた影法師が、木々の中で誘うように踊っている。

 は、行燈に向かって歩を進めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

行燈の光 秋花/道明煌々 @akika_73990

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ