第4話
ある瞬間を境に、ハルは
魅鬼の夕餉を用意して、地下へ運んだ時だ。鉄の蔵戸を開けると、むせ返るような鉄のにおいがした。血のにおいだった。
骨を砕き、肉を繰り返し咀嚼する音がする。ハルは息を飲んだ。
「何を持ってきた」
いつも変わらない抑揚で、魅鬼は問いかけた。ハルは震えてたが、下唇を噛んで耐えた。
「握り飯と。それと、果物が」
大きな竹編みの飯籠を置く。ぴちゃり、水が大きく揺れて跳ねる音がした。
魅鬼が飯籠に
全身が冷たくなったような錯覚を覚える。すぐ近くで、今この瞬間にもハルに食らいつけるのだ。
「どうした」
化け物が問いかけた。
戦慄いた口で恐怖を口にした。隠すことなどできはしなかった。
「恐ろしいです」
「なぜ」
「あなたが、私を食べはしないかと」
「望みか」
「いいえ、いいえ……」
「ならしない」
食事を終えた魅鬼は、再度寝そべった。淡々と話す獣の言葉に耳を傾ける。
「誰しも食われたがる。オレも腹が減っている」
「私を、食べたいと思わないのですか」
「どうでもいい」
ハルはほっとした。肩の力が抜けたのだ。疑問を口にした。
「寂しくないですか」
「さびしい?」
「誰とも接することができないのは寂しいかと……」
「意味がわからない」
尻尾を揺らす魅鬼に、実体験を思い返しながらしどろもどろに口にする。気づけば血のにおいは忘れていた。
「挨拶をしあって今日が始まったり、今日は何を食べたいかを訊いたり、触れ合って安心したり、一緒にご飯を食べて感想を言い合って、おやすみで今日を終える。えと、私とそんな風でいてくれるのはお母さんだけですが、そういった積み重ねが、明るい気持ちにさせてくれます」
「わからない話をするな。オレは初めから一匹だった」
恐怖を憐憫が上回ったのはこの瞬間だった。食でしか人と意思疎通できない獣を哀れに思った。
無意識に口が開いて提案していた。
「これからは、一緒にご飯を食べませんか」
「なぜだ」
「私が寂しいと思ったからです」
「勝手にすればいい」
「お礼に、私が死んだら私を食べてもいいですよ」
減らず口を叩く女だ、魅鬼はくっと笑った。
みな、繋がりたかったのだろう。誰もを魅了してやまない獣は、あまりに愛らしくて、寄り添ってあげたいと思ってしまうから。火に集る蛾のように、恋しくてたまらなくなって、近づいて、自らも燃えてしまったのだ。
ハルは魅鬼と共にいることが増えた。彼の過去を聞き、自分の過去も話した。母以外で一番近い家族と言っても過言ではない。
秋の季節がきた。木の葉は紅葉と化し、水田には金色に輝く稲穂が波打っている。見えない彼女にはわからないが、魅鬼は喜んでくれるだろう。食事が増えるのだ。
冬支度のための藁靴を作っていた。家の中に差し込む日の傾きを肩に浴び、彼女は顔を上げた。魅鬼の元に行く時間だった。
草鞋を履き、外に出る。
そうだ、家の裏手で乾かしている鍋を中に入れないと。
「ハル」
声をかけられた。振り向いた。頭が割れるような衝撃が走った。後ろ足で体を支えると、もう一度衝撃が降ってきた。三度、四度。ハルが地面に倒れ伏しても続いた。
どん。どん。音のない振動が彼女を揺らしている。
「女狐め」
頭上から降ってくる声だけが鮮明に聞こえる。口は縫いつけられたように微動だにしない。
「どこに埋める」
「山向こうだ」
「あの方が嗅ぎつけない場所に」
「運びにくい。分けよう」
降ってきた事実はストンと腹に落ちた。驚きも困惑もなく、無情な仕打ちを受け入れた。
魅鬼さまは、腹を空かせていらっしゃらないだろうか。
人間の味しか知らなかった怪物のことが偲ばれた。誰にも寄り添ってもらえない孤独を想って、胸を掻きたかった。
手を動かしたかった。
土の匂いがした。
真っ暗闇で、彼女はどこまでも一人だった。
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