第3話

 ハルの世界はいつも白く靄がかっていた。手や肌で触れた事柄だけが真実だった。赤子の頃から纏わりついていた障害は、容易く彼女を孤立させた。

 日常を過ごすことは苦ではなかった。どこに何があるか知っていた。どのようにすれば生きれるかを知っていた。集落の人間よりも勘が鋭い自負があった。

 そんな時だ。長老会の一人がハルを呼んだ。


 ——魅鬼みきさまのもとへ向かいなさい。


 村の経営は魅鬼で成り立っているとは、母から聞いていた。魅鬼に会いに村の外から高貴な方が来る。一人来るたびに村は豊かになった。天の上のような方で、最も安全な場所におられると噂されていた。

 集落の住人からは不気味だと噂され、魅鬼を目にしたことがある住人は美しい方だと拝んでいた。

 どれほど美しかろうと、ハルが目にすることはできない。興味がなかった。なのに、白羽の矢が立った。

 家のことを母に任せ、ハルは集落の中で最も大きな屋敷に滞在することになった。身綺麗にし、食事を口にした。日頃口にしている、雑穀と水を混ぜてひと煮立ちさせただけの汁物と比較し、しばし固まった。


 数週間後、ハルは魅鬼と対面した。

 一人で地下へ降り、粗相のないようにと言われ、危うい足取りで向かった。石の段を降り、鉄の蔵戸を開ける。放置した鉄のような臭いが鼻腔を通り抜けて肺を満たした。

 暗闇の中、一歩、二歩と確かめるように進む。ハルの背丈の倍以上は大きい白い靄が見えた。胸が痛いほど張り詰めている。

 震えを隠して、ハルは声をかけた。白い靄が揺れた。声は白い靄から聞こえた。


 魅鬼さまは人ではないのだわ。


 生まれて初めて、ハルは自身の特徴に感謝した。

 魅鬼は穏やかだった。決して攻撃的ではなかった。食事を要求し続ける。童子のような方だと思った。

 その日から、ハルは魅鬼さまの世話係になった。


「ハル、今日は何を持ってきた」

「山菜を」

「ハル、今日は何を持ってきた」

「川魚を」

「ハル」


 男が五人いればぺろりと食べてしまうものを一瞬で食べきってしまう。いくら食べても足りないようで、「もうないのか」と口にする。食材は目付け人に願って用意してもらった。


「魅鬼さまは水浴びをしないのですか?」

 彼は首を傾げた様子で「なんだそれは」と言った。

「気持ちがよいものですよ。体が綺麗になって、涼しくなります」

「舐めればいいだろう」


 魅鬼は自身の体を舐めて身綺麗にしている。ハルは物足りないように見えた。彼の全身はそれほど大きいのだ。


「外に出ましょう。水田が富んでいるだけあって、近くに大きな滝があるんですよ」

「ここにいる。動くと腹が減る」

「そう言わずに」


 魅鬼の大きな手を抱えようとすると、彼は観念して起き上がった。つるつるした短い毛に覆われている。さながら細い針のようだったが、流れに沿って撫でると柔らかいことがわかる。


「一度だけだぞ」

 腹が減る、腹が減ると言い募るものの、魅鬼は一歩、二歩と歩み始めた。ばち、と銅鑼より小さく鋭い音がした。足を止めた。


「魅鬼さま?」


 呼びかける。彼は後ろ足で下がると、元の姿勢に戻った。大きく欠伸をして、毛づくろいをし始める。


「諦めろ」

「それは、どうして」

「知らん。出られん」


 魅鬼は動こうとしなかった。不満はないようだった。

 飯さえ食えればいい。束の間でも、この飢えを忘れれば何でもいい。少し経って、ハルに食事を要求した。

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