あなたはうつくしい人だから
あなたはうつくしい人だから
新年度に意気込んで買った日記帳は、ぽつぽつとしか埋まらない。でも、大学1年生の生活は、僕なりに楽しかった。
僕と衣真くんは、友達としては上出来だった。問題は、僕が衣真くんをずっと好きなこと。
バイト代を貯めて、髪色を変え、ピアスを開けた。軟骨ピアスは痛かった。
鏡を覗いたとき、アッシュヘアのハーフアップに、耳にはピアスがバチバチ開いた塩顔イケメンが覗き返してきて、全然悪くないじゃんって思った。素直に嬉しかった。
派手な見た目になると、好意を寄せてくれる人が増えた。純粋に派手なファッションを好んでくれる人もいるけど、「派手なのに話してみると優しいギャップにやられた」という人がとても多かった。
僕は実際大人しくて真面目な文学青年なわけだし、僕の人格を見てくれる人たちの方が好きだった。
デートをするようになった。僕の中では「付き合わない」って結論が出てるデート。
相手が僕の気を引こうとしたり、そわそわした雰囲気になったり、好意のある目を向けられてくすぐったくなったり、帰り際にドギマギしながらさよならしたり、そういうこと全部が楽しかった。
僕はデートという行為に酔っていたし、自分がモテることに調子に乗っていた。
僕が考えてるのは「衣真くんだったらいいのにな」って、それだけだった。
ある夜、3年生の男の人とデートした。年上の人とデートしたことはあまりなくて——と言っても、僕は浪人しているから彼とは1歳しか変わらないんだけど——彼は僕よりずっと落ち着いていた。僕に向ける好意の視線が浮ついていなかった。これから僕をどう料理するか、決めているふうだった。つまり、僕は初めて手綱を握られていた。
「
穏やかな声で言われた。彼——二階堂さんという——は落ち着いていた。僕が「NO」と言うとは少しも思っていないふうだった。実際僕は、彼の唇が発した「早暉くん」の響きにくらくらして、「いいです」と言うしかなかった。
初めてぐらついた。衣真くんじゃなくてもいいんじゃないかと思った。彼は素敵だった。彼も古着系の派手な格好をしているけれど、読書家で、英米文学を専攻していた。僕たちはよく似ていると思った。
「早暉くん、お酒はまだ飲めないんだっけ」
「そうですね。誕生日、12月なので」
「そっか。もう少し一緒にいたいのに」
こうやってストレートに言われたときの断り方を、僕は知らなかった。いつもだったら、相手は曖昧にこのあとの予定を訊ね、僕は相手の気持ちに気づかないフリをして「帰ろうか」と言う。いつもそうしていた。
「えっと……。2軒目行きましょうか? 僕はノンアル飲むので……」
「ぼくの家に来てよ」
彼の指先が、僕の指先に触れた。肌と肌が触れ合うと、あたたかいのだと知った。僕は彼の家に行ったら何が起きるのかを理解した。
「早暉くん、初めて?」
「……まあ、そうです」
「こんなにカッコいいのに。好きな人がいるんだね」
「……」
どうして僕の心を当てられるのか分からなかった。
「付き合おうなんて言わないよ。今日だけ、早暉くんを帰したくなくなっただけ」
そのとき僕は、キス以上のことを知らなかった。初めては衣真くんがいいと、ぼんやり思っていた。でも、快楽を知りたがる好奇心と、まっさらでいることに焦る気持ちが、僕に違う道を選ばせた。
「……僕は、どっちになるんですか、つまり——」
「早暉くんに抱かれたいな」
僕は衣真くんを抱きたいんだろうか、それとも抱かれたいんだろうか? 二階堂さんとのこれは、あくまで衣真くんと結ばれたときの予行演習で、それならば僕と衣真くんの関係に即していなければ……。
衣真くんに、肉欲なんてあるんだろうか。性の目つきで眺めていいんだろうか。
僕は好きな人があまりに綺麗で、泣きそうになった。
「早暉くん? 抱く方もできるよ」
「いや……僕が、抱く、方で……」
彼は目を細めて笑った。僕は彼に対して欲情を感じて、そのことに混乱した。
彼——二階堂さん——の部屋は本のにおいのするワンルームで、僕は初めて身体を繋げることを知った。
「はい、お水」
「ありがとうございます」
「好きな人とするときは、早暉くんが持ってきてあげるんだよ」
僕は真っ赤になって「はい」と呟いた。僕は初めてで、全然上手くできなかったし、二階堂さんを満足させられたか分からないし、事後の気も利かなかった。
「二階堂さん」
「ん?」
「もう一回」
「ん? そんなによかった?」
二階堂さんはけらけら笑った。
衣真くんが性を、セックスを、知っているなら——ここで僕は、岡部と内山さんを思い浮かべて、酸素を奪われたように苦しくなった——僕が1回しようと2回目をしようと、大した裏切りにはならない。
ただ、初めて知った快楽がもう一度欲しかった。
年が明けて、大雪予報が出た翌朝。見慣れた風景が、足跡のつくくらいの積雪に覆われているのを見て、僕は思わずはしゃいだ。
——機が熟すのを待ってるんだよ。
——待っていれば、今だってわかるよ。
今だって分かった。特別な日に、僕の特別な人に、言わなきゃいけないんだ、今なんだ。
衣真くんに連絡すると、こんな日にも大学には行くようなので、授業前に会いたいと頼み込んで約束した。この雪が溶けてぐちゃぐちゃになってしまったら、僕の勇気も期限切れになってしまうだろうと思った。
「伊藤くん!」
集合場所の講堂前で、モコモコ着込んだ衣真くんが手を振る。
「待ってて! 今行くから!」
「焦らないで! 転ばないでー!」
すぐに駆け寄って、モコモコの衣真くんを抱きしめたいのに。
「おはよう。朝早くにありがとう」
「いいえ。こんな素敵な朝だもの」
「暖かそうな帽子だね」
衣真くんはポンポンのついたクリーム色の毛糸の帽子をかぶっている。
「やだなあ、恥ずかしい。中学生のときにかぶってた帽子だよ? 父が『かぶっていけ』って無理やりかぶせたの」
「よく似合ってるよ」
僕は衣真くんとお父さんのエピソードの優しさに胸を打たれた。
「似合ってる? ちょっとダサくないかな?」
「ううん。衣真くんは、人から愛されて大事にされるのが誰よりも似合う人だってこと」
「……そっか。帰ったら父にお礼を言うよ」
衣真くんははにかんで、優しい目で僕を見た。世界は文字通り銀白に輝いていた。
「ねえ、衣真くん、気づいてる? 僕は衣真くんが好きです。付き合ってください」
衣真くんは、雪が映り込んでキラキラ輝く目を見開いた。息を吸い込んで沈黙した。僕はその空白が、たまらなく苦しかった。
「衣真くん? 急かすつもりはないけど……。内山さんとは続いてるの?」
「内山さんとはお別れした。今シングルだよ、でも……」
「でも、か……」
「ぼく、恋愛が下手すぎるんだと思う。とても素敵な人だと思ってお付き合いしても、みんなぼくに腹を立てて別れてしまうし、別れたあとにぼくの悪口を言うんだ」
「それは、みんな衣真くんの言葉を理解しようとしないからだよ!」
「そうだね……。僕が説明しようとしても、分からないって言われる」
「僕はほかの人とは違うって分かってよ。ずっと衣真くんの言葉を知りたくて、勉強会をしてきた。どんなに難しい話でも、投げ出したりしないよ」
そのとき、衣真くんのまつ毛の先には涙が凍りついていて、冬の朝日にちかちか光ってて、僕はここで感極まって泣いたってよかったんだ。
「ううん、伊藤くん、ぼくは恋愛が下手で、いつも相手を怒らせるようなことを言って、余計な喧嘩ばっかりで、もうお互いに話も聞きたくないくらいになってしまうんだ。どうしてか分からないけど、そうなんだよ」
衣真くんが目を伏せると、冬の陽がさっと翳って、吹き付ける風がまつ毛の先の煌めきを取り払ってしまった。
「伊藤くんとは、絶対そんなふうに、めちゃくちゃになって、さよならしたくない!」
衣真くんのまつ毛はまた涙で湿り始めた。凍ってしまうから、一本一本を拭ってあげたかった。それくらい好きだった。
「だから……。ごめんね。友達でいてほしいな」
衣真くんは決然と言い切った。全てを決めてしまった顔だった。その衣真くんの言い切り方に僕は、お付き合いしたら僕たちは衣真くんの言うような喧嘩をするだろうと予感した。
「……分かった。友達でいようよ」
「ありがとう、伊藤くん」
「早暉くんって、呼んでほしいな」
「ふふ。早暉くん。綺麗な名前」
「ハグはさせてよ。好きな人がこんなにモコモコなんだもの」
「いいよ。モコモコで恥ずかしいな」
分厚いダウンコートの上から、包み込むようにハグをした。ふかふかしたダウンの下に、確かに衣真くんの骨格が感じられて、僕は泣きそうになった。
衣真くんは、まっすぐに僕を見ていた。
一瞬のキスをした。
「衣真くん、次に雪が降った日にも告白するよ。雪が降るたびに告白しに行くよ」
「『友達でいよう』としか言えないよ。早暉くんは本当に素敵な友達だから」
「衣真くんの考えが変わるかもしれない」
「ぼくは恋愛が下手くそなんだ」
「相手が話を聞くのが下手くそなだけじゃないの」
衣真くんは少し首を傾げて、哀しそうに笑った。
「ねえ、早暉くん。傷つけあうことなしに、親しみだけをもって、ずっと友達でいようよ。恋愛なんかよりもずっと長く続く関係を、ぼくは早暉くんと続けてゆきたい。本当に、ずっと、一生。あなたはそれくらいにうつくしい人だから」
僕は、うつくしいうつくしい衣真くんに「あなたはうつくしい」と言われて、呆然と魂が抜けたようになって、もう一度キスを求めた。衣真くんは照れた声で笑って、応えてくれた。さっきより少しだけ長いキスだった。
それから僕は工学部棟に行くフリをして家に帰って、一日中泣いた。
衣真くんの言葉をもっと全部覚えておけたらよかったのに。ただ、衣真くんの決然とした言い切りと、「あなたはうつくしい」と言われたことと、ほんの少しのキスだけを覚えていた。
もっと上手く、僕がほかの男と違うということを伝えられたらよかったのに。頭が真っ白になっていたから、自分がなんと言ったかも思い出せないのに、意味のない取り返しのつかない推敲を繰り返した。
キスなんか、しちゃいけなかったんだ。僕の大切な衣真くんに、僕の気持ちが遊びだと勘違いされるようなことなんて、少しもしちゃいけなかったのに。
それでいて、大好きな人と触れ合った唇はいつまでも優しい熱をもっていた。
泣いて泣いて、家のティッシュが全部なくなって、苦しくて切なくて枕を殴った。
そして僕は誓った。もっと衣真くんの考え方を知って、衣真くんが僕を恋人として信頼してくれるまで、何度でも告白しよう。
この想いをときどき言葉で伝えなければ、僕はいつの日か破裂してしまうくらいだから。
——雪が降るたびに告白しに行くよ。
この冬に、もう一度雪は降るだろうか。
振り向いてよ、僕のきら星 街田あんぐる @angle_mc9
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