煙を立てたのは、私じゃないけど

石衣くもん

🔥


「タバコの煙を見ると、初恋の人を思い出すんですよね」

 

 ゆらゆらと自分の目の前でくゆる紫煙を見詰めながら、独り言のように呟いた。真っ赤な嘘だけど。

 言葉を投げ掛けた相手は、灰を灰皿に落として興味なさげに

 

「へぇ」

 

と、声を漏らした。

 

「嫉妬しました?」

「しないよ、子どもじゃあるまいし」

 

 今の花火ちゃんは、俺のことが好きなんでしょ、なんて自信過剰な台詞を吐きながら、彼はそっと私の腰に腕を回した。私はやんわりとその腕を解いて、

 

「ごちそうさまです。今日は帰ります」

 

なんて、嘘くさい笑顔浮かべて曖昧に誤魔化してしまう。本当は、「今日は」ではなく、「今日も」帰るのだけど。

 

「つれないなあ。いつになったらなびいてくれるんだろう。社内ではもう、すっかり噂になっているというのに」

「火のないところに煙は立たないって言いますけど、逆もありますよね。火をつけたいところに煙だけ立たせて、あたかも燃えているように見せかける方法とか」

 

 私の皮肉に気が付いた彼は、ひくりと頬を引き攣らせたが、何も言わなかった。

 


 

 彼は、会社の上司で既婚者で、それにも関わらず私に言い寄る不埒者だった。流されやすくて軽い女だと思われているのか、不倫常習犯にロックオンされただけで、私たちの関係は社内でワケアリにされてしまった。


 実際は数回、上司命令で連れて行かれたバーで二人飲みしただけの関係。それ以上でも以下でもない。なのに、完全な不倫関係扱いにされているわけだ。誠に遺憾の意である。


 恐らく、上司がそれらしきことをお喋りなお局様に伝えて、お局様から噂という煙が発生し、巡り巡って皆が知った。晴れて彼の目論見通り、私と彼は燃え上がっていると思われている。馬鹿馬鹿しい。

 

「キスもしてない不倫があってたまるか」

 

 怒りに任せて一気に酒を呷り、もう一杯同じの! とマスターにグラスを突き出した。

 

「突然押し掛けて来たと思ったらペース早すぎ。なに? やけ酒?」

 

 上司を独り残して、さっさと帰ろうと思ったが、先のバーでは酔わされまいとセーブした所為で、もう少し飲みたいという飲酒欲が燻ってしまった。


 行きつけのバーに飛び込んで、誰も客がいないことを確認してから、ずかずか店内を進み、マスターの真ん前の席に腰掛けて

 

「いつもの!」

 

と、叫んだ。


 彼は酷く嫌そうな顔をしたものの、何も言わずに濃いめのモスコミュールを出してくれた。

 しかし、一気飲みした私を嗜めるよう、

 

「ここはわんこそば屋じゃないんですが、お客様」

 

と言って、二杯目には大きいグラスに水を注いで渡してきた。

 

「酔ってないんですけど」

「頭冷やせって言ってんの。何か嫌なことあった?」

 

 優しい声色でそう問われ、素直に頷いた。勝手に噂をされて、ありもしない不倫関係をでっち上げられて。馬鹿にするのも大概にして欲しい。

 愚痴を吐けば、何も言わず聞いてくれて、話し終えたら、

 

「なんだその男、最低だな」

 

と、私を肯定してくれる。

 

 この人は、私のことが好きだ。

 自惚れではなく、実際、告白されたのだ。独り飲みをするようになって初めて入ったバーでメニューの上から順番にゴックゴク飲んでいく、私の飲みっぷりに惚れたのだそうだ。

 

「自分が一生懸命作ったものをあんなふうに嬉しそうに飲まれたら、作り手冥利に尽きますよ」

 

 まだきちんと敬語で接客してくれていた時期に、そう言われたことがあった。

 その後、深夜まで居座る私を連れて他所のバーへ赴き、二人で酒を飲む。そんな居心地の良い関係を壊してしまうのが怖くて、告白された日はひどく酔っ払ったフリをして告白をなかったことにした。

 

 彼は酔っ払った私に、

 

「俺と付き合っちゃおうよ」

 

と言い、酔ったフリした私は

 

「また今度ね!」

 

なんて、馬鹿みたいにはしゃいで答えた。


 それ以来、彼は何も言ってこなかった。

 別に、彼とは付き合えないと思わないが、付き合いたいとも思えない。正直な気持ちは、こうだ。

 そこに今の自分の社会的立場とか、社内的立場とか、打算に妥協に、諸々の感情と感傷を織りまぜれば、彼と付き合っても構わないと考えている。少なくとも、上司の不倫相手扱いよりは良い。

 特定の男がいると公言すれば、さすがに上司も諦めるだろうし、不名誉な噂は消火されるのではあるまいか。

 

 そんな淡い希望の一方で、彼氏がいながら不倫に走るフシダラな女として、さらに燃料を投下してしまうような予感もする。

 しかも彼は、世にいう付き合ってはいけない3B男の一角、バーテンダー。考えれば考えるほど付き合うという選択肢は消えてしまうのだった。


「だいたい、こっちは略奪とか、横恋慕とか、そういうのはもう履修済みなの。それが何の意味もない、どれくらい虚しいものなのか、わかった上でなんであんな冴えない役職止まりの男に社会的立場を賭けるのよ。どうせ狙うなら社長にするわ」

「へー、こっちはこっちで相当悪い女だったわけだ」


 意地の悪い声の相槌に、酔いが回った口は更に話を続けてしまう。


「初恋が従兄だったんだけどさあ、全然好きって言ってくれなくて。高校生の思い付く限りの駆け引きもしたけど、だめだった。私のこと、駿ちゃんも、絶対好きだった癖に」


 叶わなかった初恋は、悲しくて美しくて、思い出すだけで自分に酔えるものだ。やってることが自分を嫌うクラスメートの女子から彼氏を奪って、従兄に発破をかけようとした最低な行為だとしてもだ。


「ふうん、じゃあ不倫の素質はあるわけだな」

「はは、何の得にもならない素質ね」


 そんなのいらない。

 私が欲しいものはいつも手に入らない。いらないものは自ら飛び込んでこようとするのに。


「なあ、やっぱり俺と付き合っちゃえよ。不倫の素質は欲しがりなんだよ、人の幸せを欲しがってる。絶対お前は俺のこと欲しくなるよ、そういう性質なんだって」


 この言い方から察するに、よくて彼女、悪くて奥さんがいるのだろう、この男は。さすが3B。結局この男と付き合ったって、燃料投下にしかならないことが判明した。なのに。


「……また今度ね」


 弱々しい声は、意図したものではなかった。人の物を奪るために、無意識に出る声だった。

 あと数分経てば、私と彼は身を焦がして、燃え上がっているに違いない。

 

 結局、私は何も変わってはいない。人が幸せだと、分けて欲しくなる。幸せな人が狡くて、憎くて、堪らなくなる。


 上司のこともそう。社会的地位が高い癖に、幸せな家庭も築いてる癖に、私みたいなのにちょっかいを出す男を、引っ掻き回して何もかも燃やし尽くして、破滅させてやりたいと、心の奥底で思っている。だから積極的に拒否せず、噂が立つような二人飲みに出向いて、不倫ごっこに付き合っているのだ。


 火のないところに煙を立てられた、なんて。火の元である私は、言える立場になかったのだ。 

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煙を立てたのは、私じゃないけど 石衣くもん @sekikumon

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