また、夢をみた。心做しか、以前よりも鮮やかな。陽だまりの中、見上げた先には「彼女」がいて。髪についた落葉をとってやると、照れくさそうに笑う。なんでもないような、愛おしい時間。

 ふと呼ばれて振り向けば、あいつらが手を振っている。あまりのんびりしている時間は無い。そろそろ再び発つべき時間だろう。

 さぁ、巡礼を続けよう。

 怖いものなど、なにもないのだから。

 そう、なのだから。

 

 楽しい、楽しい夢。


 手を取り合って成した冒険。駆け足で辿った道。それが、どうしようもない暗がりへの下り道だったとしても。幸せだったのに。

 下り道は崖へ、崖は奈落へ。「彼女」だけが、足を前に進めた。一歩、踏み出してしまった。

 手は尽くした。全てを探した。道を繋ぐための術を。「彼女」を受け止めるための手を。

 何も無かった。「彼女」の手に縋り、引き上げるだけの力も。ただ叫んで、嘆くことしかできなかった。


 そして、俺たちは恐れを知った。


 君がいなくなっても世界は回った。俺だけが、時間に取り残されているみたいだ。記憶は、否応なしに薄れていくのに。どうして。些細なことでも全て、覚えていたいのに。

 ……花弁が視界を埋め尽くす。記憶に蓋をするように、はらはらと。

 残さなきゃ。遺さなければ。忘れないように書き残そう。君の偉業を。

 君の犠牲を―――――!


 

 風がうるさい。


 

 ―――――はっと、目を覚ます。

 見慣れた天井。同年代に比べると殺風景な、やや日当たりの悪い自室だ。……自分は、白磁颯だ。頬は冷たいし、息はあがっている。そして―――悲しくて、苦しくて仕方がない。これは、の感情なんだろう?

 全身が汗で冷えていた。昨夜はそれほど寝苦しい夜ではなかったはずで。そもそもまだ、夏の気配すらない。それなのに、無意識に単衣をはだけていたようだ。朦朧とする中、上体を起こす。冷えた腕を擦りながら襟をかき合わせ、荒くなっていた息を整えようとするも、どくどくと波打つ心臓は止まらない。―――胸を押さえ、深呼吸。まだ夢の名残が抜けていないのか、感情が支配されている。

 これは、なんだ。幸せな旅と、絶望の別れ。……誰かの、記憶なのだろうか。昨日の夢と、同じもののような気がする。なにか、大切なことを忘れているような。颯は己の手を見つめる。夢の中の手は自分のそれよりも大きく、骨ばっていた。は今の自分よりも歳上なのかもしれない。……彼ら。一体、誰なのだろう―――――?


 べたつく汗を流そうと庭に出る。ぼんやりと庭を見遣り、軽く息をつく。颯の―――白磁家の自宅は、敷地だけならば広い。ずっと昔はかなりの名家だった、というのも納得できるほど。家屋自体は屋敷というにはややはばかられる広さなのだが、庭は広いのだ。庭といっても、なにか植物が植えられているかというと、そうでもない。敷地をぐるりと取り囲む生垣の近くにはやや背の高い樹木や茂みがあるにはあるのだが、他に目立ったものは井戸くらいなものだ。土埃を抑えるためだろうか。芝生が地面を覆ってはいるのだが、広範囲にわたって不自然に禿げ、くすんだ地表が露出してしまっている部分もある。目立った花も無いものだから、ろくに手入れもされていない。颯の祖父の生前は、もう少し生垣や茂みも手入れされていたのだが。今では伸びた生垣の枝を外から切るくらいしか、手入れという手入れはしていない。庭に注意を向ける者がいないのだ。

 桶に水を汲み、身体を拭い清めるうち、今朝方の夢も拭い去られていった。残るのは、強烈な感情のみ。……幸せと、絶望。はたと気づいて思い出そうにももどかしく。そうしているうちに、朝餉の席に呼ばれる。どうにも座りの悪い心地を飲み込むように姫飯ひめいいを頬張る。……いささか口に詰め込み過ぎてしまったらしく、なかなか呑み下せない。唸りながら耐えていると、父に笑いながら背中を叩かれた。笑いすぎて、涙すら浮かべている。颯は口を曲げ、いささか拗ねながら、無言で残りの魚と漬物をかきこんだ。

 

 今日は学舎は休みだ。本当はもう一眠りしようと考えていたが、昨日の出来事が脳裏から離れない。もやがかかったように思い出せない夢と、なにか関係があるんじゃないだろうか。

 ―――夢。昨日みたものよりも、鮮明だった、ような気がする。目を覚ました時にはあんなにも鮮烈に感じていたのに、忘れてしまうなんて。……それでも夢にみた幸せと絶望は、胸に深く刻まれている。自分のことではないはずなのに、思い出そうとする度ひどく痛むのだ。なにか本当に、大切なものを忘れているのでは?

 自分の身に「なにか」が起こり始めている。根拠はなにも無いのに、そんな、漠然とした確信があった。


 ―――そうだ。祖母に話を聞いてみよう。

 ふっ、と思いつくに時間はかからなかった。祖母はおそらく、なにかを知っている。問題は、祖母が話を出来るかどうか、だが……祈るしかない、と内心手を合わせながら、颯は縁側へと向かった。

「ばあ様」

 案の定祖母は縁側にいた。その後ろ姿が年々小さくなっているような気がして、どうしようもなく寂しくなる。祖母は、一日のほとんどを祖父との思い出の中で揺蕩って過ごす。そんな時は目が合わないし、話しかけても反応は薄い。昨日自分が桜ノ巫女―――かもしれない少女に出会ったことでなにか変化があればと思ったが、そう上手くことは運ばない。今もこうして、ぼんやりと庭の方に視線を向けている。しかしその目はどこも見てはいないのだろう。……故人である祖父と祖母はたいそう仲睦まじかったときく。颯が産まれてすぐに帰らぬ人となった祖父のことは、全くと言っていいほど知らない。しかし、大切な人を亡くして、悲しくて、哀しくて、幸せに浸っていたいと思うのは、自然なことだろう。も、そうだった。

「彼?」

 声に出た。……誰。自分の知り合いに該当する人物はいない。友人の中には祖父母を亡くし悲しみに暮れていた者もいたが、これは家族愛とは、違う。また別の、美しくて汚い、尊い感情。―――友人のはずがない。中等部二年で、そんな感情を背負っている奴はおそらくいないんじゃないだろうか。それじゃあ、「彼」は、全く知らない人ということになる。知らない人のはずなのに、自然と思い浮かんだ。

 ……きっと、夢で。あの夢の中で、颯は「彼」になっていた。その感情をみていた。共有していた。だから痛いほどにわかるのだ。大事な人を忘れまいとする気持ち。もっとずっと、一緒にいたかったという苦しみ。それが叶わぬのなら、共に消えたい、世界を壊してしまおうという覚悟。それを、知ってしまった。何があったのかはわからない。忘れてしまった。しかし、生々しいそれは、確かに胸に残っている。


 膝をつき、颯は祖母の顔を覗き込む。伏し目がちにどこか遠くを見ている彼女の反応は無い。軽く腕を叩いて呼びかけてみても、少し身じろぎした程度で、返答はなかった。仕方がない、諦めよう。少しずれている毛布を軽く直し、颯は立ち上がった。よし、少し横になろう。眠れる気はしないが、もしかするともう一度、あの夢に落ちることができるかもしれない。今度は忘れないうちに書き留めよう。そう思い直して体を自室に向ける。


 「むかし、むかし」

 祖母の声。いつもの語り出し。はっとして振り向くと、相変わらずその目はどこぞを見ているものの、眼差しは揺らいでいなかった。どうやら、話をしてくれるらしい。

 「あるところに、少女がいた。神に仕える娘だった」

 朗々と響く、いつもより低い、張りのある声。颯は自然と、祖母の傍らに座した。声を合わせて唱えられるほど聞かされた物語。それが今は、全く違う響きを孕んでいるように聞こえる。一音たりとも聴き逃してはなるまいと、耳に神経を集中させ、目を閉じた。



 その娘は、己の神に恥じぬよう、"正しく"生きていた。妬まず怒らず、他者への思いやりを忘れず。神もそんな娘を気に入っていたという。

 ある時、娘は神の怒りに気づいた。自然への、神への畏敬を忘れ去った人への怒りだ。科学だのなんだのと森を焼き、獣たちの住処を奪う人間。彼らは増えすぎた。神が目こぼししてやれる限界をとうに超えてしまった。神はその怒りのまま、全てを薙ぎ払ってしまおうとさえ考えた。

 娘はそれを必死に押し留めた。確かに人は罪深い。赦しを乞おうとは烏滸がましい。しかし、罪なき者もいる。大多数に抗おうとする者や、何も知らぬ無垢な子供。彼らすら捨て去ってしまうというのは。どうか思い留まって欲しいと、娘は神に祈った。

 対して神の意思は固い。しかし敬虔な己の愛し子の願いには耳を傾けた。人を赦すことはしない。が、娘が無辜なる民を救うことを止めもしない。そう囁いた。

 娘は安堵の涙を流し、可能な限りの民を救う術を考えた。……できるなら、全てを、と。人々が変わることさえできるなら、神も怒りを収めるのではないか。もう一度、やり直せるのではないか。なんにせよ、一人では難しいと考え、仲間を呼び集めることとした。そうして集った志を同じくする者たちを従え、娘は術を模索した。集った彼らは娘を主と定め、忠誠を誓った。臣の数はそう多くはなく、十を超えるか否か。しかし彼らの結束は何にも勝るものだった。

 そうしてその日はやってきた。人が滅びを迎える日だ。娘たちは手を尽くし、これ以上はないほど、入念に備えた。そして。


 全ては救われた。娘、ただ一人を除いて。


 備えは万全だった。しかし娘は帰らぬ人となった。娘自身がそれを予期していたのか、はたまたしていなかったのか。今となっては定かでは無い。誰も娘の胸の内を知らなかった。だがしかし―――――娘の献身は、人々に深く刻まれた。遺された臣らを中心に、娘―――桜ノ巫女の願った世界を創るよう、尽力した。緑を増やし、共存する。桜ノ巫女へと、信仰が集まるのも自然なことだった。人々は信じた。彼女は全てを救うもの、命を統べるものであると。そうして創られた世界を、桜ノ巫女に肖って櫻界とした。それは美しい世界だった。娘は目にすることはできなかった、彼女の夢。

 役目を終えた臣らは次第に一人、また一人と人々に溶け込み、やがて表舞台から姿を消した。


 ふ、と息を吐く。話はいつもここで終わる。最後に「うちのご先祖さまは、桜ノ巫女さまの臣下の一人なんだよ」と締めくくって終わり。なんだかモヤは晴れない。結局なにも、わからな―――――


 「―――――と、話はまだ終わらない。隠された物語がまだ、残っている」

 ―――いつもと違う。思わず息を呑んだ。何があるというのだ。

「娘は確かに特別な力をもっていた。桜ノ巫女を慕い、従う者がいたのは事実だ」

 そうだ。我が家だってそうなのだろう。今までずっと、桜ノ巫女の臣下の家系であると言い聞かされてた。


 

 決して、臣ではなかった。桜ノ巫女は彼らを仲間と、友と呼んだ。そして彼らもそれに応えた。桜ノ巫女と、合わせて十二。彼女は彼らに十二天将の名と役を授け、自身にもそれを課すこととした。―――十二天将という呼称がどこから来たものやら、今となっては、何も。桜ノ巫女が祈った神の名でさえ、誰も知らない。あえて隠されたのやも知れぬ。何にせよ、全て記録は喪われた。

 だが我らは、真実、それを知っている。祖から代々継がれた知識。喪われたものもあろうが、これだけは遺された。それは桜ノ巫女が任じた役。桜ノ巫女、彼女は十二天将を統べる、天一てんいちの貴人。―――そして我らの祖は、疾き刃の白、後五ごごの白虎である。

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続 桜ノ巫女伝 益荒レヲ @sakura_lewon

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