夢を、見た。いつかの記憶。暖かくて、優しくて、ずっと見ていたいと希うような。傍らには「彼女」とあいつらがいる。先には絶望が待っていたとしても、それを打ち負かせると信じられる、家族のような仲間たち。共に旅をして、共に戦った。その絆は血よりも濃く水よりも清らか。何があっても裏切りなどない。

 永遠に一緒にいられると、そう信じていた。


 美しい、夢だった。


 だがその夢は、途端に悪夢へと身を翻す。落とした硝子が割れるように、夕立が降るように、がらりと変わる。

 突然の、別れ。俺たちは散り散りになり、「彼女」はその身を犠牲にして全てを守った。

 永遠はない。信じていたのは、幻だった。気づいた頃には、もう遅い。

 俺たちは、俺は、何も出来なかった。大切だったのに。愛していたのに。伸ばす手は届かず、叫ぶ声は虚空へと消え。ただ見ていることしかできない。

 不意に足元が崩れ落ち、為す術なく暗闇に放り出される。どんなに目を凝らしても、記憶に留めたいと願っても、「彼女」の姿はぼやけていく。為す術はなく。残酷とはまさにこのことであろう。

 そして、視界が暗転する。


 垣間見た最期の瞬間、「彼女」の口元は微笑んでいた。



 ―――――桜が、散る。

 風の音が、妙にうるさかった。



「───のようにして、桜ノ巫女さくらのみこは世界を救いました。人々は少女の損失から立ち直り、今の櫻界おうかいを作りました。桜ノ巫女伝は全部で七章に分かれていますが、大部分は破損していて内容が明らかになっていません───」

 はっと目を覚ます。授業中に眠ってしまっていたらしい。少年───白磁はくじはやてはいつのまにか教科書に広がっている涎の染みを慌てて拭う。素知らぬ顔で肩肘をつき、小さく教室を見回した。昼休み直後の弛緩した空気、なおかつ誰もが知っている歴史―――今ではもはや神話の域であるが―――の授業。大きな窓からは暖かな陽光が差し込み、半数ほどの同級生は俯いて船を漕いでいた。そんな中、颯はぽかぽかとあたたかい窓際の席に座っていることもあり、はやくも再び微睡みかける。

 が、机に置いていた肘が滑り、眠気で弛緩した身体は反応する間もなく倒れ―――机に顎をしたたか打ち付けた。がん、と鈍い音が辺りに響き、その音で周囲の友人たちは何事かと顔を上げる。颯は慌てて何事もなかったかのように座り直し、眠る学徒たちに目もくれず説明を続ける教師を窺った。

 音を立てたのに気づかれていたのだろうか。教師はこちらに目を向けており、ばちりと音が鳴ったかのごとく目が合ってしまった。内心焦って教科書に顔を隠す。笑われた気もする、恥ずかしい。顔の熱さを誤魔化すように教科書に目をやると、そこには幼い頃から聞かされ続けた、世界を救った少女についての記述があった。


 かつてニンゲンは、の発展により驕り、世界を全て理解した気になっていた。そうして自然を破壊し、ニンゲン以外の生き物を不必要に殺した。神の存在を忘れ、自らが世界の頂点であるかのように振舞ったのだ。

 しかし、神はいた。否、いる。世界を創りたもうたかの神は激怒し、この世の悪、即ちニンゲンを、全て滅ぼすと決めた。

 が、無論全てのニンゲンが悪というわけではなかった。だがそれは神にとっては瑣末なことであり、無辜の命まで奪われようとした。それを憂えた少女───桜ノ巫女が、神へ嘆願し、その命を賭して世界を守り抜いた。神の愛を受けた少女の不思議な力は、それはそれは美しいものであったという。


 それ以前の世界では、争いが絶えなかったとか。信じるものの違いによって人々が武器を向け合うこともあったという。しかし少女の献身は全てのニンゲンの心を打った。生きとし生けるものを大事にし、自らの生と、かつての英雄に感謝をして生きるべきだと皆、考えるようになる。

 少女が消えても世界は回った。一見、元通りになった。それでも世界は少女を忘れない。伝記に記された出来事からどれほど時間が経ったのか、正確にはわからない。伝記はそれほどまでに古く、破損してしまっていたから。それでも人々は少女を讃え、語り継いだ。神のように敬い、崇めた。そうして今では世界は自然に溢れ、人と人が武器ではなく、手と手を取り合う美しい世界になった。それはたとえ考えは違えども、笑い合える世界。それらは少女が遺したもの。彼女は世界を優しくしたのだ。


 颯は、言葉の言い回しは多少違えど読みなれた、または聞き慣れた内容の教科書から視線をすべらせ、窓の外を眺める。祖母が繰り返し語るこの物語は、聞くぶんには良いが学ぶには退屈すぎる。草木を見やれば、日の光に照らされ輝いている。季節は春。冬を越えて生命が芽吹く季節だ。季節を知らせる桃は既に散りかけていて、みずみずしい青葉が顔をのぞかせていた。美しい緑を眺めながら、颯はふと、桜ノ巫女が生きた世界に思いを馳せる。この小さな世界が多くのクニに別れ、時折センソウをしていた世界。颯の暮らすこの櫻界でも諍いはある。颯だって、友人と喧嘩をすることもある。しかしあくまでも喧嘩は喧嘩だし、ごめんなさいの一言で仲直りできる。喧嘩をしたら悲しいし、寂しい。センソウは強い喧嘩なのだときいた。……ならばきっと、もっと悲しいものなのだろう。颯は、センソウは行ってはならない行為であるということしか知らない。

 

 この世に生をうけてわずか十数年の颯は、当然過去の時代のことも、桜ノ巫女のことも知りもしない。それでも、自分と歳の変わらない少女が世界を救ったという話には素直に心を動かされる。……何度も聞くほど好みはしないけれど。そしてそれに加えてほんの少し、悲しい気持ちにもなるのだ。彼女はどんな人だったのか、自分の命をどんな気持ちで手放したのか。……あるいは、諦めたのか。

 もし、そんなことを口に出したら、周りの大人にも、同級生にも、桜ノ巫女を自分と同列に語るな、と怒られてしまうだろうけれど。それでもきっと、少しくらいは普通の女の子だったんじゃないだろうかと。断言できる理由も根拠もないけれど、颯はそう思うのだ。

 

 もう一度、教科書に視線を戻す。文章の合間には、桜ノ巫女の献身と題して描かれた多くの絵画も示されていた。多くは桜ノ巫女をうら若き美しい乙女として描いている。この国に多い、黒髪の少女として。画としての美しさからか、その髪は長く美しい。

 しかし伝承の彼女についての詳しい記述は抜け落ちているため、正しくはわからない。もしかしたら髪は短かったかもしれない。少女ですらないかもしれない。颯は桜ノ巫女の姿に思いを馳せ、教科書に刷られた鈍く反射するそれを眺める。そうしているうちに、薄ぼんやりと先程の夢を思い出した。美しくも悲しい夢。なにか、なにか大切なものをみたような、そんな気がする。しかし霞がかったそれは、すぐに脳裏から遠のき消えていった。なんだったかなと首を捻っても、もう何も出てこない。所詮夢の話だと結論付け、颯の瞼は再び落ちた。

 穏やかな昼下がりだった。


 ―――――放課後。

 授業の間ずっとまとわりついている眠気は、何故かチャイムと同時に消えてしまうもので。颯はしゃっきりした頭で家路についていた。冬が終わり、徐々に陽が長くなっているとはいえ、そろそろ日暮れも近い。春の終わりを匂わせる暖かい風が目元に残る眠気を拭っていく。風に煽られたやや伸びすぎの前髪が目に入り、ちくりとした痛みに思わず目を瞬かせる。前髪を指でつまみ、むむと眉を寄せる。一筋だけ白銀の特異な色彩。祖母はああだこうだと言うが、ただ少しだけ周りと違うだけだ。

 

 颯の自宅は徒歩で十五分ほどである。少し時間はかかるが、颯は美しい通学路を見ながら歩くことが好きだった。颯は今年齢十四。中等部二年になったばかりだ。颯の通う学舎は初等部、中等部、高等部、そして大学と計十六年間を過ごす大きな学び舎である。校舎は違えど敷地は同じであるため、通学路も十六年間ほとんど変わらない。既に七年も通った路だが、通学風景に見慣れはしても、未だ飽きることはなかった。

 

 櫻界では、どの季節も枯れることなく散っては咲き続ける櫻。名前の響きだけではなく、その神秘性から、人々はこれを桜ノ巫女の加護を受けた花として神聖視し、大事にしていた。多くを幕府が正式に管理しているほどに。そして至るところに―――無論櫻以外の植物も存在しているが―――植え、桜ノ巫女への敬愛を示した。颯の通学路も例に漏れず、歩行者路と馬車路との境に桜が植えられている。果てしなく続く櫻並木。はらはらと舞い散る花びらは陽光を受けて光を発するかのごとく、ため息が出るほど美しかった。両親は学舎へ通うには馬車を使えばいいと言っているし、学友の多くはそうしている。実際初等部の頃はそうしていたが、中等部に上がり、体力がついてきたこともあって颯はそれを断った。一人でゆっくりと、この音すら許されないような美しい世界を見ながら歩きたかった。

 馬に乗れるようになりたいと、颯は密かに計画していた。そうすれば朝の通学の時間は短縮でき、帰りは思う存分櫻を見ることができる。しかし小柄な颯ではまだ大人の馬に乗るには危ない。身体の小さな馬を飼うとしても将来的には大きな馬でなければならなくなる。颯の家には二頭の馬を養うほどの空間はなかった。そのため背が伸びるのをじりじりと待っているのだ。

 

 颯はどうしようもなく櫻に惹かれている。いつまでも見ていたいと願うほどに。そうして櫻を見ることに夢中になってしまい、帰りが遅いと母によく叱られているのだ。それが心配からくるものと知っている颯は、できるだけはやく帰ろうと心がけてはいるものの、櫻の美しさに魅入ってしまう。自分でもその異常性に気づいてしまうほど、どうしようもなく焦がれている。颯はこのまま、いつか気が触れてしまうのではないかと薄々感じていた。しかしそれでも良いと思ってしまうのだ。風に舞うひとひらの花弁になれたなら、とても幸福なのではないだろうかと、そう思ってしまうのだ。自分がこの美しさの一片になるなど、烏滸がましいけれど。颯はいつの間にか止めていた息を吐く。そして、今日も変わらずきれいだと目を細め、緩んでいた歩を少しだけ速めた。


 緩やかな曲線を描く路を曲がり、帰り道も終わりにさしかかる。ふと視界の隅に白いものがよぎり、颯は足を止める。髪に挟まったそれを手に取ってみると、綿毛だ。何処から飛んできたのか視線を巡らせると、塀と路のわずかな隙間に蒲公英が咲いていた。いつの間にか花は枯れ落ち、綿毛になっていたらしい。櫻以外の印象は薄いが、記憶をたぐれば一週間前には花を見たような気もする。すごいなぁ、と素直な感嘆が漏れた。櫻以外の植物はほとんどが年に一度きり花を咲かせるのみだ。それでも生きている。颯は初等部の頃に読んだ蒲公英の童話を思い起こし、顔を上げる。確か、風に吹かれた綿毛が新天地を目指し大冒険をする話だったような。ゆるゆると顔を上げ、再び止まっていた足に力を入れる。


 ―――――はっと、息を呑んだ。

 美しい絵画。否、絵画ではない。舞い散る花弁は確かに動いているし、そもそもそれはまさに颯の目の前に広がっている景色だった。一歩踏み出しただけというのに、別世界に迷い込んでしまったような感覚。

 風に靡く美しい黒髪。遠目にもわかる美しい顔立ち。艶やかなその長い髪は、教科書で見た桜ノ巫女の絵画をのよう。少女は花弁を両手で受け、端から風に攫われていく様を伏し目がちに見つめていた。颯はぼんやりと、櫻が咲き続けるのは、彼女がその花をこよなく愛し、永遠に見たいと希ったからだという言い伝えを思い出す。

 

 どれほどそうしていただろうか。永遠にも感じられるその時間は、実際には瞬き数回程度の時間だったろう。息をすることも忘れ、美しいその景色を見つめていた彼は、少女が近くに伸びる枝に手を伸ばしたことで我に返った。

「さ、触ったらだめだ!この辺りの木は桜鼠さくらねず家が管理して───」

 ぱきん、と軽い音をたてて枝は折れる。颯はさぁっ、と音を立てて血の気が引いていくのを感じた。この道の櫻の木は公のものであり、花弁を持ち帰るのみならばともかく、勝手に折っていいものではない。木を傷つける行為は、全面的に禁止されているのだから。

 自分の犯したことではないにも関わらず、颯は焦り、冷や汗をかいていた。どうしようと、気持ちばかりが走り出す。仮にもし、自分が枝を折る者を見たと届け出ればあの少女は咎を負う。颯は悪いことをしてはいけない、と幼少のみぎりから幾度も言い含められてきた。しかし、いけないことをしたら罰は受けるべきだとしても、自分が黙っていれば気づかれないのだ。木々を管理していると言っても、一本一本じっくり眺めて確認しているわけではないだろうから。

 では、その程度のことならば罰を受ける必要はないのではないか?そもそも何故、彼女は櫻の枝を折るなんて暴挙に出たのか?なんで今なんだ、見なければよかったと、颯は頭を抱えたくなる。颯の短い生涯で、これほどひどい行いは見たことがない。なんてことをしてくれたんだと恨めし半分、困惑半分で少女を見遣れば、少女もまた、こちらを見ていた。

 視線が交わる。

 

 どきりとした。全てを、颯の困惑も、葛藤も、何もかもを見透かすような瞳。白にほんの少し紅を落としたような、まさにちょうど、視界を横切る花弁と同じ色の──桜色の瞳。透き通って消えてしまいそうなその色に見つめられ、再び焦りが思考を支配する。美しいその双眸の前では、なんだかこちらが悪いことをしているような気分だ。

「子細なし」

 その声は何ものにも遮られることなく颯の耳に届いた。低くもなく、高くもなく、それでいて透き通った声。ずっと聞いていたいと、誰もが思わず願ってしまう、美しい声。少女は表情を変えることなくその死んだ枝を無造作に振り抜いた。


 櫻が、咲いた。

 溢れるように、零れるように。つい先刻までは確かに沈黙していたその枝は、さも当然のように咲き誇っていた。それだけではない。折られた痛々しい傷跡も、瘡蓋を作るように塞がり、さらに新しい枝を伸ばしている。

 

 目を疑うような光景だった。ありうるはずの無いその命の奔流は、恐れすら感じるほどに。あまりに美しく、あまりに冒涜的だった。ふと、颯の耳に、祖母の語りが響いた。彼女はもう一日の半分を微睡んで過ごすほどなのに、この物語を語る時だけ、昔のようにしゃっきりとするのだ。それは小さい頃から繰り返し繰り返し、一言一句違わず覚えてしまうまで語られた物語。


……桜ノ巫女様はね、命の統率者なのさ───


 奇跡を起こす存在なのだと。そう聞いた。命を与える者。命を巻き戻す者。そうして数多の罪なき命を救ったのだと。それは、桜ノ巫女の偉業の一つ。我らが神とされる所以。

 肌が粟立つのを感じる。凍てつく冬に時が戻ったような寒気がする。それは、未知への恐怖であり、貴き者への畏怖。しかしそれでいて視線を逸らせない。もう焦がれてしまった。櫻へのそれと同じ、もしくはそれ以上の。

 そんなはずは無いのに、祖母の声が耳を離れない。桜ノ巫女。その存在は御伽噺のはずだった。ただの神話、信仰のはずだった。が今、目の前にいる?そんな、はずは─────


 「あなたは、一体……」

 絞り出した声は、驚くほど掠れていた。それでも、彼女には届いている。

 「白虎を継ぐ者よ」

 少女の口元が薄く綻んだように見えた。春の陽射しのような暖かな笑み。強ばっていた空気がほどける。緊張が弛み、少年はへなへなと地面にへたりこんだ。

 「何時か、再び見えんことを」

 その柔らかな声音が、俯いた颯の頭を撫でる。まるで幼子を慈しむかのような呼びかけ。それは、ひどく既視感を感じるものだった。

 一筋の風が吹く。のろのろと顔を上げ、周囲を見回しても、そこには、ただ櫻が咲き誇るのみだった。


 しばらく腰を抜かし呆けていた颯は、案の定帰宅時間が普段よりも大幅に遅くなってしまった。どうやって帰ってきたか、記憶が曖昧だ。心配した母にひどく叱られている間も、気もそぞろ。まさに心ここに在らず。その様子に、どこか悪くしたのかとさらに心配されてしまった。流石に我に返り、なんともないと告げ、ぎこちなく笑みを作った。それでも心配した様子の母を振り切り、夕餉までの間休もうと、屋敷の最も奥にある自室へと向かう。

 

 白磁家は、それなりに広い。曽祖父の代はこの辺りの大地主かなにかだったらしく、今でも祖父母を慕う者は近所に多くいるし、実際父は面倒事の解決を頼まれることが多い。祖母が言うには、元は桜ノ巫女の臣下の家系だとか。白銀の髪はその証だと。

 しかし家族の内では、颯以外誰もこの色を持ち合わせてはいない。だからいくらなんでもそれは眉唾ものだと颯は思っている。……否、思っていた。

 脳裏に焼き付いた美しい少女は、白昼夢だと笑い飛ばすには鮮明すぎた。存在を信じるに足る、確かな温度があった。自室へ戻ろうにも足が自然と祖母の元へと向かう。なにを伝えられるでもないだろう。しかし聞かせたかった。あの圧倒的なまでの美しさを、声を発することすら恐れ多いほどの存在感を。それでもどうしようもないほどに惹かれてしまう、この気持ちを。

 祖母はいつものように縁側で舟を漕いでいた。そろそろと近づくと、ぱちりと目を開けて颯を見た。その動きは平時には見せない俊敏なもので、瞳孔の開いた瞳にやや慄きながらも、颯は祖母の隣に腰を下ろした。


 「お会いしたんだね。巫女様に」

 颯の双肩を掴み、祖母は颯が口を開くより早く、強い声色でそう発した。勢い余って、祖母の膝の毛布が床へと落ちる。掴まれた肩が痛い。しかし今の祖母は意識がはっきりしているようだ。伝えなければ。

 「本当にきれいで……花が、花が咲いたんだ。ええと、枝を折ったんだけど、そんなこと関係なくて。枝から花があふれて……」

 自身の拙い語彙がもどかしい。喉元までは来ているのに、出てこない言葉が苦しい。もっと確かに伝えられるはずだ。もっと、もっと――――――

 「そうさね、お前は白虎なんだよ。だから会いに来てくださったんだ」

 うん、うんと深く頷き、彼の祖母は再び目を閉じ、両腕はだらんと落ちる。少年ははっとしてその腕を掴んだ。

 「そうだ、そうだよ!あのひともおれを白虎って言ってたんだ。ねぇばあ様、なんなのそれって」

 やや乱暴に祖母の腕を揺する。しかし、再びこちらに向けられた目はひどくとろんとしていた。夢想の世界に戻ってしまったらしい。颯は肩を落とす。この状態の祖母はなにもわからないのだ。自分のことも、母のことも。

 落ちた毛布を祖母にかけ直す。風邪ひかないでね、と呼びかけ、今度こそ自室へと足を向けた。


 


 少女は悠然と歩く。背を覆う艶やかな長い黒髪と共に、花吹雪が舞う。

 「巫女様!どこに行ってらしたのですか!」

 焦った様子で青年が駆け寄ってくる。彼は肩まで伸ばした髪を首元で無造作に括っており、その目つきは鋭い。しかし今、その双眸は心配と不安に彩られ、見る者にやや幼い印象を与えるだろう。いささか粗野な振る舞いが目立つものの、身につけているものは上質なものばかり。そして根は真面目なようで、自身よりも小柄な少女を前にすっかりかしこまっている。少女が桜色の瞳で彼を見つめれば、慄いたように肩を揺らす。青年はかなりあちこち走り回ったらしく、額には汗が浮かんでいた。

 「天空。白虎を見つけた」

 しかし少女には青年の感情など与り知らぬこと。ゆったりと言葉を紡ぎ、息を整える青年を眺める。青年の髪は一筋、やや暗い薄紅色をしていた。

 「そう……ですか。それは重畳で……ございます。ですがあの家は今……」

 丁寧な言葉に慣れていないのか、青年は口ごもった。それを尻目に、少女は薄く微笑み、緩やかに歩みを進める。その透き通った瞳は何処か遠く、遥かを見ている。そしてその足は何処へ向かっているのか、果たして。

 「お待ちください!もう日が暮れます。屋敷へ戻りましょう!」

 青年は慌ててその背を追う。どう引き留めたものかと思案する間にも少女の背は遠くなる。青年は健気なほどに呼び止めるが、少女は意に介することはなく。その声は桜並木に埋もれて消えていった。

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