第3話

「ねぇクリス、謎の彼が誰だか分かったわよ」

 正午を過ぎたマンハッタンのカフェ、人気のテラス席に顔を出すなりクロエは言った。

 ネイビーのジャケットに、グレーのタータンチェック。バーレイと同じ配色の制服は、並ぶとまるで揃いで作られたように見える。

向かい合って座るライアンとクリスをさっと見て、クロエはクリスの隣に腰を下ろした。

 イーサンにすげなく断られたランチタイム、クリスは結局いつも通りライアンといた。

 クリスとライアンは、学校からほど近いこのフレンチカフェを食堂代わりに使っている。バーレイと道一本をはさんで建つ女子高に通うクロエも、都合がつけば顔を出す。

 夏休みをまるごと別々に過ごしたなんて嘘みたいな、いつも通りのランチだ。

「あのパーティーの時、あなたが見失っちゃった彼」

 悪戯っぽく微笑んでさらさらとした金髪をかきあげるクロエを、苛々しながらクリスは制した。今すぐ記憶から存在を消し去りたい相手の話題を、開口一番聞くことになるとは思わなかった。

「イーサン・ワード、だろ?」

「ええ? なんで知ってるの? あなたも調べた?」

「彼はバーレイの転入生だった。な、ライアン」

 それだけ言って、クリスはライアンを見遣った。自分で説明するのも忌々しい。

「そうそう。パーティーの時、君がやけに気にしていた彼は転校生。ラテン語のクラスでいつのまにかクリスの後ろに座ってた。で、俺が聞いた話では、やつはスイスの寄宿学校からの転入らしい」

 マンハッタン一の情報通は、さっそく新ネタを披露した。ライアンはバーレイやこのマンハッタンの社交界で起きていることを、いつも誰より早く知っている。

 スイスの寄宿学校、と聞いてクリスは眉根を寄せた。典型的な上流階級の息子。本当に?

「そうなの? ええと、私の聞いたのはね、彼の父親がブランドン・ワードっていって、家族法の分野で全米トップ百に入ってる弁護士だってこと。パパの知り合いだったみたい」

「弁護士か。なんだよ。種明かしが早すぎる」

 がっかりしたような声を上げるライアンの隣で、クリスはひとり苛立ちを深めた。

 なにが、狂って死んだイカれた親父だ。嘘ばっかり。

 あのパーティーのことを知らないと言ったり、田舎の収穫祭と揶揄してみたり。僕を、バーレイを、ここの何もかもを、――クリスの住む世界を馬鹿にしているのだ、きっと。

 成功した弁護士の親にスイスの寄宿学校。間違いなくこっち側の住民のくせに。

「もっと面白い話が良かった。実は俺、パーティーでヤツを一目見た時から気になってることがあるんだよな」

 眉間に皺を寄せるクリスをよそに、ライアンが何やら意味深に発言する。クリスは苛立ち紛れに突っ込みを入れた。

「君が男の外見に興味があるとは知らなかったよ、ライアン」

「俺が言いたいのは、彼が誰かに似てるってことだ。あの黒髪と、ヘーゼルの目。特にあの気難しそうな目元。分かるか? ほら二人とも、考えろ」

 彼。彼の顔立ち。あの時が静止したような瞳。

 髪は正確にはごく暗い灰色がかったこげ茶で、黒髪とはいえない。

 思い出したくもないのに、彼の端正でどこか憂いを含んだ顔立ちが、頭の中ではっきりと像を結んでしまう。

「何だよ二人とも、何も無しか? もう降参か?」

「さっさと言えよ」

 彼のイメージを頭から振り払いたくて、クリスはわざと乱暴に言った。

「じゃ、正解は……アルフレッド・ヴァンダービルだ」

 あっさりと告げて、ライアンの青い目がきらりと光る。クリスは眉をひそめた。

「ヴァンダービルって、あの、ほぼ架空の生き物みたいな爺さん?」

「似てると思うだろ? 謎の転校生はヴァンダービル家総帥の孫。どうだ?」

「似てるも何も、ヴァンダービル卿の顔なんて知らないだろ」

 アルフレッド・ヴァンダービルは、ニューヨークというよりアメリカ財政界の大物だ。八十を超えている老人は、引退間近の大物の例に漏れず、ほとんど公の場に姿を現さない。

 メディア嫌いは若い頃からで、新聞や雑誌にその写真が載ったことはないとされている。マンハッタン社交界でも彼に会ったことがあるという人物はまれだ。

「いや。昔お前の家の別荘で見た」

「は?」

 ライアンが突拍子もないことを言い出して、クリスは間抜けに応じた。セドウィック家も確かにアメリカの名門ではあるが、ヴァンダービル家との付き合いは希薄で、もちろんアルフレッド・ヴァンダービルがクリスの家を訪れたこともない。

「ほら、あの赤い皮の表紙の。夏休み、お前が盗もうって言い出して……」

「……あの、古い紳士録?」

「まさにそれだ」

 ようやくライアンが何を言っているのか分かって、クリスの脳裏に古い記憶が甦った。

 革張りで、優に十センチは厚みのあるずっしりとした書籍。アメリカで百年以上前から出版されている紳士録は、別荘の鍵のかかる棚にずらりとコレクションされている。夏休みの退屈にまぎれてその中の一冊を持ち出したのは、クリスが十歳にもならない頃だ。

「僕が盗もうって言ったんじゃない。君が度胸試しだとか何とか言いだして」

「あの本を選んだのはお前だ。親父さんが大事にしてるからって言って」

「……あれに、ヴァンダービル卿が載ってた?」

「そう。かなり古い本だっただろ? たしか二十歳くらいのヴァンダービル卿が載ってた。爺どもばっかりの中で目立ってたから覚えてるんだ。パーティーで彼を見たとき、そっくりだと思った」

 彼が言うのなら、似てはいるのだろうとクリスは思った。ライアンは、重要人物の顔は一度見たら決して忘れないという飛び抜けた社会的能力をもっている。

「ヴァンダービル家なら、たとえ卒業の一か月前だって子供をバーレイに捻じ込める。謎の転校生はヴァンダービル家総帥の孫。どうだ、こっちの方がエリート弁護士の息子より面白い」

「どうだもなにも、彼はイーサン・ワードだ」

「そうよ。パパから聞いたんだから、この話は確か」

「なんだよ、つまらない奴だらな。もっと発想を豊かにしろよ」

 ライアンの瞳が新しい遊びに輝いていた。次々とくだらないことを考えついては周りをけしかける。ライアンは本を盗んだ小さい頃から少しも変わっていない。

「とりあえずもう少しヤツのことが知りたいな。今のところ、誰のSNSにもヴァンダービルジュニアは登場してない。奴自身のSNSも見つかってない。手っ取り早く、パーティーにでも誘うか」

 ライアンの提案に、クロエが応じる。

「今週末の、ダイアンのパーティーは?」

「大人しめの集まりになるだろうからちょうどいいな。人数を絞って、ヤツの情報を独占しよう」

「やめておいたら」

 クリスは咄嗟に、ライアンとクロエの計画を遮った。

 彼を、クロエやライアンや、ダイアン――「自分たちの」世界に招き入れるなんて、とんでもない間違いに思える。

「どうした、クリス」

「えっと、彼は……相当に感じが悪い」

 二人に怪訝そうに見つめられて、視線を落とした。

 本当は「感じが悪い」だけでは言い表せないけれど、それ以上のことを言うのも不自然に思われそうで、クリスは口から溢れそうな苛立ちを押し留めた。

「お前がそんなふうに言うなんて珍しいな。そういえばラテン語の後、何か話してたか?」

「……転校したてで困ってることはないかと思って声をかけてみたけど、あっさり拒絶された。僕とも、バーレイの誰とも関わるつもりはない、って」

 そう、彼は確かにそう言った。

 ――関わるつもりはない。君だけじゃなくて、この学校の誰とも。

 その理由が、「みんな、川の向こうの住人だから」? 本当に、馬鹿にしている。

「へぇ、あいつがそう言ったのか? 随分低く見られたもんだな、お前もバーレイも。スイスじゃよほどの名門に通ってたとか? あるいは頭が良すぎて、周りが皆馬鹿に見えるとか。何せ転校早々シュミットのクラスを取ってるくらいだから」

「……さあ。彼がどれだけ優秀かは、まだ分からないけど……」

 ライアンが鋭いところをついて、クリスは言葉を濁した。

 本当は知っている。少なくとも彼はラテン語に関しては超高校級だ。

 あのメモの内容と教師の反応から考えると、質問の内容は共和政時代の代表的な詩人をあげよ、といった類のものと思われた。その質問に、あの詩編の一節で答えられる生徒は、あの教室内に一人としていなかっただろう。彼――イサーン・ワード以外に。

 そのことを考えると、もやもやとした不安が胸の中で膨らみ始める。

「ふぅん。でも、ますます面白いじゃないか。どんな奴か、興味がわいてきた」

「でもヴァンダービル家の人間説はありえないから。ヴァンダービル卿の孫って全員女だし、しかももう大学を卒業してる歳。私たちと同じ年の孫がいるなんて聞いたことがないし」

「そんなのいろいろ考えられるだろ。ヴァンダービル卿の息子の誰かの隠し子とか」

「何それ。でも本当だったら、ちょっと映画みたい。なんだかそそる」

 話題が明後日の方向に転がりはじめて、クリスは楽し気な二人を見つめた。

 兄妹でもいとこでもないけれど、クロエとライアンにはよく似た雰囲気がある。抜けるような金色の髪と濃いブルーの瞳。背はすらりと高く、若干冷たさを感じさせるほど容姿が整っている。名門私立高の制服に身を包んだ、一点物のケンとバービーだ。

「な? あり得ない話じゃない。クロエ、君も似てると思うだろ?」

「私、その紳士録とやらを見てない。あなたとクリスが悪巧みに誘ってくれなかったから」

「そうだっけ? 君はママとクッキーを焼くから忙しいって断ったんじゃなかった?」

「ライアン、どうしてそう適当なことばっかり言うの?」

 楽しそうに視線を絡める二人から視線を逸らし、クリスはメニューに手を伸ばした。

 ずっと、クロエはライアンのガールフレンドになるのだろうと思っていた。

 三人まとめて芝生で転げまわっていた頃から、クロエは明らかにライアンに恋していた。ふざけて頬や耳許にキスを贈りあう時、クロエは酷く熱っぽい目でライアンを見つめた。クリスを相手にするときとは、まるで違う温度で。

「久しぶりに食べたくなった。あのまずいクッキー」

「はぁ? あなたには絶対にあげない。クリスにはチョコのを焼くけど」

 今も二人はお似合いだ。けれどいつのまにか、ライアンは不特定多数の相手をとっかえひっかえするようになり、クロエの相手はクリスということに決まってしまった。

「下らない話はそこまでにして注文を済ませないと、食べる時間が無くなる」

 いつまでもじゃれあいを楽しんでいそうな二人にクリスはメニューを投げた。

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