第2話
ニューヨークの秋はすべてが素晴らしい。セントラルパークの木々の紅葉がおとずれたシックな季節を祝い、冴えた空気の中で摩天楼は更に輝く。母の好きな古い歌にあるように、まるで舞台の初日のような昂揚感が街を包んでいる。
クリスは変わり映えのしないネイビーのブレザーとグレーのスラックスに包まれ、きちんとシートベルトをして母の愛車・ミュルザンヌの後部座席におさまっていた。
変わり映えのしない一年は繰り返される。クリスの誕生日で長い休暇が始まり、クロエの誕生日で夏が終わりを告げ、次に待っているのは新学期、すなわちバーレイだ。
マンハッタンの真ん中にしては広い敷地をぐるりと囲むテラコッタ色の壁が途切れると、アーチを描く鉄柵の門が控え目な姿を現す。一日のうち閉ざされている時間の方が長いその外界との境界は、今はひっそりと口を開け、次々と停車する黒塗りの高級車からバラ色の頬の少年達を吸い込んでいた。
クリスは半ブロック手前で車を止めさせ、その朝の光景をしばらく眺めていた。意味もなく生徒の数をカウントしながら、脇に放り出したバックパックに手を伸ばす。外ポケットから小さなタブレットケースを掴み取ると中身を素早く振り出して、良く確かめもせず口に含む。
舌の上で無機質な苦みと甘みがまざり合うのを感じながら、クリスは腰を上げ、自分で車のドアを開けた。六二丁目の街路を踏むと、秋の空気が肌に触れる。
行けるか、クリス。行くぞ、クリス。再び、バーレイでの日々の始まりだ。
クリスは深呼吸すると、自分と同じ服を着た群れへとまぎれこんで行った。
「おはよう、クリス」
「おはよう、マーティン」
日焼けした笑顔の溢れる校内を、早足で歩く。生徒たちの挨拶も、羨望と尊敬が入り混じった視線も、変わり映えがしない。ここ私立バーレイ校では一学年三十人ほどが、ほとんど同じ顔ぶれのまま六歳からの十二年間を過ごす。クリスはバーレイで十一回目の秋を迎えていた。
「御機嫌よう、セドウィック君。本校の生徒にふさわしい行いと活躍を、今学期も期待している」
「光栄です。校長先生」
新学期の伝統に乗っ取り、門の奥にずらりと並んで迎える教師と握手を交わす。校長に真っ先に挨拶を求められるのは、クリスがバーレイのエリートである証だ。父も、父の父も、父の父の父もこの学校の卒業生であるクリスは、このバーレイの空気をいつも誇らしく吸い込んできた。
「もう十一年生か。君のお父上もちょうどその年の時、弁論部を全国優勝に導いた」
「……期待に添えるよう、全力を尽くします」
そう答える時、一瞬息が詰まったような気がする。礼をして教師の列を離れたクリスは、注意深く呼吸を繰り返した。どれだけ息を吸っても、酸素が取り込めないような。
特別なのは出迎えだけで、セレモニーなどはない。新学期はすなわち授業の始まりで、クリスは一コマ目のクラスに足を向けた。
「ああ、クリス。おはよう。君もついにシュミット御大にしごかれにきたか」
「おはようジョージ。まぁ、それがバーレイの伝統だからね」
定員が二十名ほどの小さな教室で、最上級生のジョージと気軽な挨拶を交わす。ジュニアハイの頃から上の学年の生徒に混じってレベルの高いクラスばかりを取っていたクリスには、上級生の知り合いが多い。
「聞いたか? 去年の落第者は史上最高の七人……」
嬉しげにクリスに語りかけるジョージの前を、長身の影が過る。ジョージもすぐ気づいて、口を閉じた。
「おはよう、バーレイ麗しの君」
シャツのボタンを上からふたつはずしたゆるい制服の着こなし。だらしないネクタイも様になる美貌と、いつものブルガリの香り。ライアンは長身を折り曲げ、くるりと回転させた手のひらを胸に当て、左足のつま先を右足の後ろでついた。カーテンコールで舞台に上がったブロードウェイスターのようなお辞儀だ。
すぐさまジョージが席を立ち、クリスの前の席を空ける。前年度の生徒会長を務めたライアンがクリスを弟のようにかわいがっていることは、学校中が知っている。彼が現れたら、皆がクリスを彼に譲るのだ。
「珍しく上機嫌だな。何か良いことでもあった?」
「さすがクリスだな。実はさっき、面白い話を聞いた」
クリスが尋ねると、ライアンはクリスの方を向いて座りながらにやりと笑った。
「最終学年なんて退屈極まりなんじゃないかと思ってたけど、少しは面白いことがありそうでほっとしてるんだ」
「……君の最終学年が退屈なんてことはないだろ」
いつも皮肉ばかりを吐くひとつ年上の幼なじみを、クリスはたしなめる。
ライアンはいつもこんな場所にいるのはつまらなくてたまらないというふうな態度をとるけれど、実際のところ彼はとびぬけて優秀で、バーレイを象徴するような生徒だ。
女性関係の派手さは校内でも知れ渡っていて、彼を「優等生」という生徒はいない。けれどライアンは馬術で州の学生チャンピオンになり、栄えあるバーレイ校の一二八代生徒会長をつとめ、平均評定は4.3、SATは750点オーバー。がむしゃらになるそぶりを見せずにゆうゆうと人の上を行く。
そうして周りの生徒より一足早く、年が明ける前にハーバードの早期入学許可を手に入れるだろう。そのことだって彼は、「退屈だ」というのだろうけれど。
「で、何。情報通の君を驚かせるようなニュースっていうのは」
正直、バーレイに「ニュース」なんてあって欲しくない、と思いながらクリスは尋ねた。
高校生活のゴールをほぼ手中にした彼と違い、今年十一年生になるクリスはいよいよ戦争の真っただ中に足を踏み入れる。最終学年に上がる前年は、大学進学に一番重要だ。どんなテストも課外活動も、失敗は許されない。この灰色の舞台で起こる波乱を楽しむ余裕はないのだ。
「転校生、だ」
ひとことで答えてライアンは、薄いブルーの目をきらめかせてクリスを見た。
なるほどそれは確かに、驚くべき知らせだった。バーレイは基本的に途中からの編入が認められていない。
「確認だけど、入ってくるんだよな、バーレイに」
「もちろん。しかも十一年生。卒業の一年手前にここに生徒を捻じ込めるなんて、相当のコネだ。金だけでも学力だけでも入れないのがバーレイだからな」
十一年生ということは同級生だ。異例中の異例の転校生。クリスは少し嫌な予感がした。
「で、俺がさっき入手した情報によると、その転校生はこの授業を取ってるらしい」
「この授業って……ラテン語のAPクラス?」
思わず確認したクリスに、ライアンは満足げにうなずいてみせた。
「そう。シュミット御大の、ラテン語だ。どうやら謎の転校生殿は相当成績優秀らしい」
APは難易度で言えば各科目最高のクラスで、大学でも単位認定がされる。APクラスの取得数はそのまま学生の優秀度を示し、大学の入学選考の重要な判断材料になる。上位大学に進学を希望する生徒は、卒業までにできるだけ多くのAPクラスの習得を目指す。
といっても誰もが好きなだけAPを履修できるわけではない。見込みのない生徒は登録を弾かれるし、授業についていけなければ容赦なく落第させられる。そしてこのバーレイで最難関と言われるのがシュミットという名物教師の受け持つラテン語のAPなのだった。
卒業生の間でも語り草になる厳しい授業で、バーレイの生徒なら誰もが履修を目指している。転校早々このクラスにエントリーを許されるとは、その転校生は只者ではない、ということだ。
「どんな奴か楽しみにしてきたんだけど、それらしき奴はいないな。初日から遅刻か?」
「……君のつかんだ情報が、ガセだった可能性も」
見知った顔ばかりの教室を見渡しながら、クリスは内心、ライアンの情報が本当にガセであればいいのにと願っていた。
とびぬけて優秀な同級生なんて必要ない。今年は選挙があるのに。
「ま、そうかもしれないな。前の学校でどれだけ優秀でも、バーレイにきたら落ちこぼれ、ってことも十分ありうるし。今年の落第第一号になるかも」
「さぁ、どうだろう」
気のない素振りを装ってクリスは返した。
「にしても、お前も今年シュミットを取るとはな。ファーストオナーが狙えると踏んだか?」
「……さあ。ファーストオナーはともかく、ラテン語を最終学年まで残しておきたくなくて」
あまりうまい返しとは言えない。ファーストオナーは、それぞれの授業の最優秀成績者に贈られる称号のことだ。名門大学の合格水準は年々上昇を続けているから、願書を飾るトロフィーは多ければ多いほどいい。そしてライアンの言う通り、去年でラテン語の成績上位者はごっそり卒業してしまったので、ラテン語のAPは今年がねらい目だと考えた。
「ふうん。ほかの履修は?」
「……APはラテン語と化学だけ」
言いながら少し伏し目がちになる。本当はあともう一科目、欲を言えば二科目APを履修したいが、ラテン語と化学でキャパがいっぱいだと判断した。
「お前は選挙もあるけど、大丈夫か?」
「君は去年生徒会長をやりながらAPを四つ取っただろ? しかもふたつはファーストオナーで」
「だから今年はラクできる。クロエとの復縁祝いに、ラテン語のファーストオナーはお前に譲るよ。あとは選挙、がんばれよ」
両手を頭の後ろで組んだライアンが、綺麗なウィンクを寄越す。クリスは反射的に顔を伏せた。
学年一の優等生として学校に通い、姉妹校で一番美しく品行方正な女子と付き合い、同級生からは崇められ、教師達から一目置かれる。それが自分の――クリストファー・セドウィックの逃れられない運命ってやつだろうか。
どうしてだろう。ついこの間までは、この配役に満足していたのに。完璧な生徒を演じることは大変だけれど、快感でもあった。なのに、いつのまにかすべてのことが、自分を通り過ぎていくみたいに感じるようになってしまった。
「どうした?」
唐突に途切れた会話に戸惑うライアンの前で、クリスはごまかすようにバックパックに手を伸ばし、ミントケースを掴み出した。
「またそれか。お前本当にそれ好きだよな」
「……別に」
「嘘が下手だな。俺お前のそういうところ、好きだぜ。五歳の頃親父さんに貰ったミントのケースを、今も大事に使ってる」
「そんなんじゃない」
「そんなんだよ、クリス、お前は」
ライアンが更に何か言いかけた時、前方のドアが開き、老教師が威厳をもった足取りで入室してきた。
ライアンが前に向き直り、クリスはミントケースを元に戻して唇を引き結ぶ。いよいよ、新学期最初の授業が始まる。みながバタバタと席に着き、すぐに教室は静まり返った。
「授業を始める。まず、事前課題の提出を」
教卓に就いた彼の言葉で、後ろの席の生徒から順に前にレポートを手渡し始める。
とん、と肩に軽い感触があって振り向いたクリスは、次の瞬間「あ」と声を出した。
癖のあるブルネットの髪、くすんだ白い肌、冷めきった瞳。
「君……?」
いつの間に入室してきたのだろう。あのパーティの少年だ。彼が今、ひとつ後ろの席に座っている。
しかし少年は呼びかけに何の反応も示さず、無言でレポートを突き出す。クリスはその紙束を受け取り、素早く表紙の名前を盗み見たあと、自分のそれを重ねた。
イーサン・ワード。
前の席のライアンにレポートを渡した後も、動悸が治まらない。
彼は、「彼」だ。
ここにいるということは、彼が噂の転校生なのか? こんな偶然、あるだろうか。クリスは振り返ってもう一度彼の存在を確かめたい衝動と戦っていた。聞かなければと思うのに、授業が耳に入ってこない。
胸がざわざわとする。この灰色の世界で、何かが起こる予感が。
「セドウィック、クリストファー・セドウィック!」
ハッとして顔を上げると、老教師の皺の深い目元が銀縁の眼鏡の奥からクリスを見据えていた。一瞬で心臓が冷え、慌てて背筋を伸ばす。
「聞いてるのかね」
「っ、はい」
「では、君の答えを」
「彼」の出現に気を取られ、質問を聞き逃したようだった。教科書の上の掌に、嫌な汗が滲む。張りつめた教室の空気が音もなくざわめくのを、クリスは感じ取った。学校きっての優等生が答えに詰まるなんて、さぞかし面白い光景だろう。
どうするべきか。新学期早々落第なんて冗談じゃない。今年は何が何でもAPふたつでファーストオーナーを取り、生徒会長の椅子に座らなければならないのに。
けれどこの状況をどう切り抜ければいいのか、何も思い浮かばなかった。まずもって、この老教師の質問が何なのかさえ、分からない。
一秒の沈黙が鋭い刃のようにひらめいて眼前に迫ってくる。
「あの……」
耐えきれずに口を開けた途端、膝の上に何かが触れた。反射的に手で机の下を探ると、指先が何かに触れる。かさかさとした、乾いた紙片。
誰かが、メモを投げ入れたのだ。
そう理解した瞬間思いついたことはたったひとつで、クリスは咳ばらいをした。
「セドウィック」
最後通告のように、老教師がゆっくりと呼ぶ。クリスはごく自然に俯いてノートを繰り、口を開いた。視線は机を素通りして、膝の上へ。
「Odi et amo. quare id faciam, fortasse requiris.nescio, sed fieri sentio et excrucior.」
静寂の中にクリスの声が響いたあと、小さな教室には再び沈黙が落ちる。
Odi et amo. quare id faciam, fortasse requiris.nescio, sed fieri sentio et excrucior.
とっさに読み上げた文章の意味を、クリスの頭は追いかけていた。
私は憎む。そして――。
おそるおそる顔を上げると、こちらを厳しく見つめていた老教師が眼鏡をおしあげ、頷いた。
「ふむ。カトゥッルスか。我憎み、かつ愛する。……なかなかよろしい」
なかなかよろしい、とは。クリスの知る限り、この老練の教師の使う最大級の賞賛だ。硬直していた身体が弛緩する。
一瞬前とは打って変わって、教室をさすがセドウィック、という称賛の空気が満たしていた。ライアンが素早く振り返って、やるな、という微笑を寄越した。
「共和制時代後期の偉大な詩人で、その後の詩人に多くの影響を与えた先駆者と言っていい。この授業では共和政時代はごく短くとどめ、黄金時代、白銀時代の作品を重点的に読んでいく」
続く声が数字を呟くと、緊張が解けた教室で皆が一斉に紙を繰る音が響く。
クリスはそっと、机の下で紙片を握りしめた。
「君!」
きっちり時間通りに授業を終えた教師の姿がドアの向こうへ消えるや否や、クリスは後ろの席を振り返った。
周囲の生徒はそれぞれ次の授業のある教室への移動を急いでいる。ライアンすら、「じゃ、ランチで」と言うが早いか飛ぶように教室の外へ消えて行った。バーレイは遅刻に厳しい教師ばかりだし、いつもならクリスも一分を惜しんで次のクラスへと向かう。
けれど今は、授業なんてどうでもいい。
君は、何者。
振り向いたクリスに、既に筆記具をバッグへ仕舞い終えていた「彼」が怪訝に顔を上げた。ぼんやりとしたヘーゼルの瞳は冷たくクリスを素通りするようで、クリスは少し怯んだ。
しかもそのままクリスを無視するように、バックパックを肩にかけて立ち去ろうとする。
「君、転校生だよな? ええと、名前はイーサン・ワード。さっきレポートに書いてあった名前を見た」
クリスは慌ててそう付け加えて、更には下級生から「優しげ」とよく評される微笑を口元に浮かべてみせた。
次の授業のためこの教室に入ってきた生徒が、見慣れない生徒とクリスのやり取りを物珍しそうに眺めている。周りに他の生徒がいる中で、クリストファー・セドウィックを無視するなんてありえない。
彼は辛うじて、足を止めた。けれど、振り返った彼の反応は冴えなかった。まるで理解できない言語で話しかけられたかのように、怪訝に眉根を寄せている。
「ああ、えっと、僕から名乗るべきだったな。僕はクリス、クリストファー・セドウィック。君と同じ十一年生だ」
ほら、早く僕が誰だかを悟れ。気に入られたいって態度を見せろ。他の誰もがするように。
けれど彼は何も答えなかった。このままでは一方的に無視されたことになってしまう。
「あの、君、さっき……」
メモを寄越したよな。それで僕を助けた。
何とか会話を成立させようとしたクリスは、彼のあまりに不機嫌そうな視線とかち合い、その続きを口にすることが出来なくなった。
彼は押し黙り、じっとクリスを見ていた。あの、パーティー会場の時と同じだ。静寂の鎧に守られながら、ただ穴の開くほどクリスを凝視する。
そのヘーゼルの瞳の闇が、クリスを動けなくさせた。彼の静寂に、吸い込まれてしまいそう。
「……俺が、何」
やがてぼそりと、彼は口をひらいた。ひどく迷惑そうな、低い声。
助けてもらった礼なんて、とても話題にする雰囲気ではない。
「あの……ええと、この前、クロエのパーティーで会ったよな。ああ、会ったっていうか、君はクロエのパーティーにいた。僕もあの場にいて、それで……」
間近で見ると、かなり整った顔立ちだ。微かにウェーブしたダークブラウンの髪はセットされず無造作に顔の周りを漂っていて、どちらかといえば男性的な顔を少しあどけなく見せていた。けれどすっきり通った鼻梁にはすでに精悍さが漂い始めていて、切れ長の目はクリスより数段大人びている。
彼は貼り付けたような無表情のまま答えた。
「さぁ。君が何を言ってるのか、良く分からない」
「いや、だからこの前の日曜のパーティー。セントルイズホテルの。君、いただろ?」
「……知らない」
思い出してみようとする様子もない彼に、クリスは憮然とした。絶対に、彼はいたのに。
「そんなはずはない。あのパーティーは知り合いばっかりで、君は浮いてた。はっきり覚えてる。君がつまらなそうに立っていたところ」
「……そのパーティーには、何人くらい客がいた?」
「は?」
「人数だよ。二十人とか、五十人とか」
唐突な質問に、今度はぽかんとする。
「さぁ、百人ぐらいだったと思うけど」
「全員が君の知り合いだった?」
「先に僕の質問に答えてほしいな。君はあのパーティーにいただろ?」
「すごいな。百人いて全員が知り合いのパーティー。田舎町の収穫祭か何かか?」
質問の次に飛び出したのは、随分と斜に構えた物言いだった。
「君が何を言いたいのか分からないけど、ニューヨークの社交界はそれほど広くない。クロエと僕は幼なじみで、だから……」
あの会場では誰もが遠い親戚みたいに顔見知りだ。あの日そのことに自分もうんざりしていたことを、今更ながらに思い出す。クリスが口ごもると、イーサンが再び口を開いた。
「で、俺がどこかのパーティーにいたとして、それが何」
「え? あ、あの時、君は……」
あの時君は、僕を見た。
口にしようとして、その内容があまりにとるに足らないことに気づいてしまう。
「何でもない。……ま、とにかく、バーレイへようこそ」
結局クリスは、そう答えた。そうだ。あのパーティーの一瞬。あれがなんだっていうんだ。
大事なのはこれからのことだ。この謎の転校生と、これからどう接するべきか?
クリスはいつもの癖で、損と得をはかりにかける。
「それで、あの……でしゃばるつもりはないんだけど、僕はずっとバーレイで学年代表をやってる。分からないことがあったら気軽に聞いて。あと、よければ今日のランチを一緒にどう?」
「ランチ?」
「転校生の君に教えておくと、カフェテリアは混むしコーヒーが最悪。だから上級生は結構外に出るんだ。君さえよければ、僕が良く行くカフェに案内するよ」
彼とは少し「親しく」なっておく必要があるかもしれない。クリスは咄嗟にそう判断していた。学校の優等生クリストファー・セドウィックは誰にでも優しく接するけれど、つるむのは上級生のライアンだけ。しかしイーサンがとびぬけて優秀なら、その例外にする価値がある。
「俺と君が、カフェ?」
「何? ああ、今日は都合が悪いってことなら、とりあえず番号を交換しておこうか」
「いい」
「え?」
優等生の笑みを口元に浮かべながらポケットから携帯電話を取り出そうとしたクリスは、思いもよらない返事を投げられて一瞬、ぽかんとした。番号交換を断られた? 僕が?
「気持ちには感謝するけど、君と関わるつもりはない。君だけじゃなくて、この学校の誰とも」
ぶっきらぼうに彼はそう言って、クリスは一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。
関わるつもりはない。このバーレイで、自分に向かってそんな言葉を吐く人間がいるなんて。
「それ……どういう意味?」
「君らはみんな、川の向こうの住人だから」
「……は?」
今度こそ本当に、彼が何を言ったのか理解できない。聞き取った言葉はクリスの質問への答えではなく、余計にクリスを突き放す意味不明なフレーズだった。
「話がそれだけなら、もう行くよ」
そう言ってイーサンが踵を返す。クリスはただ茫然としていた。ありえない、ありえない、とだけ考えていると、ふとイーサンが振り返る。
「ああ、そうだ。……君のカットゥルスは良かった」
「……え?」
「Odi et amo. quare id faciam, fortasse requiris.nescio, sed fieri sentio et excrucior.」
彼の声は淀みなく流れた。これまでクリスが聞いた中で、最も完璧な発音だった。
――僕は憎み、かつ愛する。どうしてそうなるのか、きっと君は聞くだろう。
――分からない。僕はただそう感じ、苦しむ。
彼があのメモの話をしているのだと気付いて、クリスの頬はカッと熱くなった。やっぱり自分はこの謎の転校生に、助けられたのだ。今はそれがひどく屈辱に感じる。
「君の声で聞くと……詩みたいだった」
「は? 詩みたいもなにも、詩だろ? それを知らずにあのメモをよこしたなんて言わないよな」
「あいつががなると、全然詩になんか聞こえなかった。廃タイヤが軋むみたいで」
「あいつ? 何の話だ?」
「狂って死んだ、俺のイカれた父親」
「は?」
まともなに会話にならなくて、クリスはガラにもなく大声を上げた。一から十まで、彼が何を言っているのか分からない。イーサン自らが言った通り、彼は自分と関わる気が無くて、でたらめを言ってけむに巻いているのだろうか。
言葉を失ったクリスをちらりと見て、イーサンは肩にバックパックをかけ直した。
「次の授業が始まる」
それだけの言葉で、イーサンはあっさりクリスを置き去りにした。
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