俺の家には兄がいる。
白河夜船
俺の家には兄がいる。
俺の家には兄がいる。
兄と言っても本当の兄弟ではない。同じ家に住んでいるだけのおそらく他人だ。ただ、あんまり自然にそこにいて、家族とも当然に打ち解けているものだから、幼い時分は年の離れた兄弟なのだと信じ込んで疑わなかった。
どうやら違う、と気がついたのはいつだったろう。忘れてしまった。たぶん、それと気づく明白なきっかけなどなかったのだ。小さな違和感が積み重なって、積み重なって、小学生の頃には漠然と察していた。
例えば、ある家族旅行の出発日。準備を整えて「さあ出発だ」と玄関に立った両親と祖父母と俺を、兄は廊下から見送っていた。
「にいちゃん、行かないの」
俺はそう尋ねた気がする。それ以前の旅行でも兄は同じように一人きり、あるいは祖父母と共に留守番をしていて、子供ながらに気になっていたのだ。兄は何も答えず苦笑して、「あれ買ってきてくれ」と肩を竦めただけだった。
「東京ばな奈」
車で飛行機で東京へ向かう道すがら、俺はぼんやり考えていた。なぜ兄は一緒に旅行しないのだろう。なぜ家族は兄を連れて行こうとしないのだろう。
「ねえ、にいちゃんなんで来ないの」
家族に訊くと、皆一様に曖昧な笑みを浮かべて言うのであった。
「お兄ちゃんは家から出られないんだよ」
例えば、ある平日の朝。俺は玄関の引き戸を開けて、
「いってきます!」
と屋内に向かって声を張り上げた。
「いってらっしゃい」
台所から廊下へふらりと出てきた兄が、何かのついでのように気の抜けた声で言う。それを聞いて満足してから俺は家の外へ駆け出した。走りながらふと疑問に思った。
兄は学校に行かないのだろうか。平日も休日もずっと家にいる。見た目的に高校か大学へ通っているべき歳ではないか。なのに。
「お兄ちゃんは家から出られないんだよ」
家族の言葉が頭を過った。もしかして引き籠もりというやつなのか? 兄ちゃんが? もしそうならショックだな……。何か事情でもあるんだろうか。学校でいじめられたとか、そういう。
そこまで考えたところで、はたと気づいた。昔から兄の見た目は一切変化していない。今、高校か大学へ通うべき年齢なら、俺が物心ついた頃――五、六年くらい前は小中学生であったはずだ。だというのに背が高くなったとか、声変わりしたとか、大人っぽくなったとか、そうした印象の変化が全くないのは流石にちょっと妙ではないか。
例えば、ある夏の昼下がり。
乾いた洗濯物がいっぱい詰まった籠を抱えた祖母が、しおれた庭の花に目を留めて、困ったように眉根を寄せた。縁側を歩いていた兄に、声を掛ける。
「ねえ兄さん、水遣りしといて下さいな」
兄さん。兄をそう呼んだ時の祖母の声音は、どこか少女じみていて、近くで聞いていた俺は戸惑った。妹が兄に頼み事をするみたいな言い様だった。兄はそれを別におかしいとも変だとも思わなかったらしく、「はいよー」と鷹揚に頷いて突っ掛けを履いて庭へ出た。ホースを引き出し、水遣りを始める。
夏日に燦めく水流を縁側に立って見詰めながら、俺はぼうっと考えた。ああ、きっと、兄は祖母にとっても兄なのだ。それなら兄はやっぱり―――
「兄貴はさ、何なんだ」
面と向かって尋ねたのは、高校に入ってからである。自分の背が兄と同じくらいになったら、つまりは大人になったら尋ねてみようと、何となくそう決めていた。
「何って」
俺の部屋の本棚を物色しつつ、兄は笑った。
「どういう意味だよ」
「兄貴は、その……色々変だろ。年取らないし、家から出ないし、たぶん俺のほんとの兄貴じゃないし」
「N集落って知ってるか」
兄は俺の方へ向き直り、いきなりそんな問いを発した。N集落? 聞いたことがない地名だ。
「知らない」
と素直に答える。
「だろうな」
兄は軽く肩を竦めた。
「本当に忌まわしいことっていうのは、語られないんだ。語られないし、記録もされない。だから世代が少し変わると、そこで何があったのか、そこに何があったのか、よく分からなくなる。お前の父さんも婆さんも曾爺さんも曾々爺さんも知らなかったよ。その前のご先祖様も知らなかった。まあ、この土地にとってN集落はそういう場所だ。俺はそこで生まれて、何かまー色々あって、こんな風になっちゃった」
「……」
最後端折りすぎじゃないか? 細部をぼかしまくっていて、何が何やら分かりやしない。
「詳しく教えろよ」
俺がせっつくと、兄は頬を掻いて苦笑した。
「さっき言ったろ。本当に忌まわしいことは語られないって。なんでだと思う?」
「なんでって……後ろめたいから?」
「それもあるけどそれだけじゃない。
いいか。忌事は――特に血に染み込んだ忌事は、ただそれについて知る、それだけのことが呪いを産むんだ。語ったら、何があったか知るだろう? 知ったら呪いが甦る。だから皆、語らない。語らないことで忘れて、忘れることで呪いを封じ込めようとした。学者先生にとっちゃ迷惑な話だろうが、一個の土地で命を繋ぐための、ある種の処世術だわな。ご先祖様達のひたむきな努力が実を結んで、N集落とそれに纏わるアレコレは、今や歴史の闇の中ってわけさ」
俺はこの家が好きだよ。
不意にそう言って、兄は屈託のない笑みを浮かべた。
「だから何も語らない」
「それは」
俺は反応に困って口籠もった。何やら不穏な話を聞かされて心がざわついている。その一方で兄が「この家が好きだ」と率直に言ってくれたことが、嬉しくて少しむず痒かった。
「兄貴は」
少なくとも、これ以上問い詰めたところで昔話は聞けないだろう。そう判断して、俺はかねてから気になっていた別の疑問を口にした。
「なんで家から出られないわけ」
「いや、出られるけど」
「はあ?!」
初耳だった。
「だって、今は座敷牢とかないしなぁ。普通に出られるぞ」
「ええー…」
じゃあ、今まで出られるのに出なかったのか? まさかマジの引き籠もり? というか座敷牢……我が家にそんなもんあったのか……やなこと知っちゃったな。
「そんならさ」
学校鞄の中のプリントを頭に思い浮かべつつ、俺は何気ない調子を繕って言った。
「俺が都会行って家とか建てて、いつかこっちの家族呼んで一緒に住もうってなった時、兄貴は」
「行かない」
迷いのない答えだった。なんでだよ、と俺は口をへの字に曲げる。
「家からは出られるんだろ。来ればいいじゃん」
「出られるけど、俺は出ない。出たら良くないことが起こるから」
「良くないことって?」
「秘密」
結局ほとんど何も分からなかったが、必要なことは最低限知れた。このやり取りで、俺は進路希望調査票に書く大学を大まかに決めたのである。地元の大学を受験する。地元の大学に進学した方が、地元で仕事を見つけやすいだろうから。
「ただいま」
玄関扉を開けて、屋内に呼び掛ける。台所から廊下へふらりと出てきた兄が、
「おかえり」
と何かのついでのように気の抜けた声で応じた。
「ただいま!」
框に腰掛けて靴を脱いでいる俺の横を、サンダルをさっさと脱ぎ捨てた少年が風みたいな勢いで通り過ぎる。
「にいちゃん、アイス買った!」
「買ったんじゃなくて、買って貰ったんだろ」
孫はなぜか誇らしげに持っているビニール袋からアイスを取り出し、兄に向かってそれを掲げた。
「こう、ぷちって半分にするやつ。一個あげる」
「期間限定のじゃん。やったー」
食べる前に、手を洗いなさい。妻が台所から顔を出し、笑い皺の刻まれた目許を綻ばせ、微笑ましげに促した。孫は「はーい」と浮き足立って、洗面所へ駆けていく。
「チビは元気だな」
「ほんとに」
兄の笑顔につられて、俺も笑った。急ぎ足で孫が戻ってきて、兄の腕をぐいぐい引っ張る。
「早く食べよう」
「お前、手ぇ濡れてんじゃん。拭かなかったろ」
嬉々として兄にじゃれつく少年の姿が、ふと在りし日の自分に重なり、俺は眩しいような心地で目を細めた。あの頃は、彼を気軽に兄と呼べた。だが今はもう年老いてしまって、自分の見た目と兄の見た目のちぐはぐさが気に掛かり、たまにしかその一語を口に出来ない。
感慨に耽って玄関に座り込んでいた俺の頭を、いつの間にか後ろへ近づいてきていた兄が軽く小突いた。
「いつまでそこいるんだ。早く来いよ」
「ああ。今行くよ、兄貴」
答えて、俺は若い頃と比べるといくらか強張った身体に力を入れて立ち上がった。彼の背を追い、居間へ向かう。窓辺に座った少年が、溶けかけのアイスを片手に彼を呼んだ。
「遅いよ、にいちゃん!」
ああ。嘆息する。『兄』の一語とそこに内包された感傷が、遠く隔たった顔も知らない先祖と俺をきっと繋いでいるだろう。それに気づいた瞬間、この家に連なる全ての時間が人間が彼という一点に集約し、重なり合って乱反射している―――そんな印象を俺は抱いた。
俺の家には兄がいる。
俺の家には兄がいる。 白河夜船 @sirakawayohune
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