Iris pseudacorus

南風野さきは

Iris pseudacorus

 夜と朝のさかいの時刻。散歩と称して宿を出た。紫がかった灰色の靄が、湖をかこむ草木を影としている。

 早朝というものは、いつであっても、寒い。上着のポケットに手を入れる。昨日、宿の子どもがくれたキャンディが指先に当たった。夫婦で営んでいるちいさな宿で、以前は、客に笑顔をふりまくことも家業を手伝うこともなかったらしい。あかるい良い子になったと、両親は喜んでいた。キャンディを包み紙から開放して、口の中にほうりこむ。

 水辺をたどる細い道に、しゃがみこんでいる人影があった。

 朝靄がやわらかな色彩を帯びる。はじめは淡い黄金のようであったものが、淡紅、朱色と、鮮烈な赤へ変容していく。

 きらびやかな朝焼けのなかで一輪だけ咲いている、靄にぼやける光の色をしたアイリスを、そのひとは見つめていた。


「散歩ですか」


 この道は細いので、どう歩いたところで相手を避けることはできないから、こちらから声をかけることにした。


「そのようなものです」


こたえながら、星空のような目で、そのひとはこちらを見あげた。


「たまたま、この花を、見つけてしまったものですから」


 道を塞いでいた理由を告げるそのひとは、哀しんでいるような、慈しんでいるような、やるせない微笑を唇にかたどらせながら、頼りなく咲いている花の茎を、悼むように、その指先で優しく撫でた。

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Iris pseudacorus 南風野さきは @sakihahaeno

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