心通わせ

田山 凪

第1話

 シェアハウスで過ごしながら、今は家庭教師のバイトをやったり単発のバイトをやったりでそれなりに悪くない生活をしている。ほかにもたまに呼ばれて読み聞かせとか、小さいイベントの進行役だったり、高校の頃に演劇をやっていた経験を活かして表現をする仕事に就きたいと思っていた。

 その中でも家庭教師のバイトは正直きつい。いや、普通の子どもを相手にする分にはそこまで難しいことじゃないんだけど、今回行った先の家庭が中々に複雑だ。その子の母親は再婚していて、子どもが新しい父親に慣れていないのもあるけど、以前の父親が勉強や点数に対してとてもうるさく、マナーや作法を間違えると平気で手をあげるような人だったそうだ。

 

 バイトと当日は結構が気が重い。朝から起きるのは億劫になるし、明らかに同居人もそんな僕の状態を察していて、頑張れと声をかけてくれる。それは嬉しんだけども、やっぱり気は進まない。


 閑静な住宅街で特別感のない一軒家。

 インターホンを鳴らすとお母さんが出てきていつも通り中へと入る。

 そのまま二階へ案内され、お母さんが僕が来たことを伝え向こうから扉の鍵が解錠された。


「では、あとはお願いします」

「はい」


 僕はなるべくできる限りの笑顔で元気に返事をした。

 変に緊張しているのがバレないようにしなければいけない。

 扉を開けるとすでに椅子に座っていた。

 この子の名前は真理愛。本人はこの名前を気に入っていないらしい。

 

「この前のところはできてる?」


 真理愛は何も言わずにノートを見せてきた。

 完璧で文句のつけどころがない。

 正直何故家庭教師が必要なのかもわからないレベルで優秀で、このそっけない雰囲気はコミュニケーションする際には少しめんどうかもしれないが、点数は全く問題ない。

 一応しっかり教えてはいるんだけども、要領もよくて一度間違えたミスはほぼしない。そのため普通の子に教えるよりも毎回教える量が半端ない。


 ただ、少しだけほかの子と違う点がある。

 多くの子は緊張したりめんどうくさそうにしたり、早く終わらないかと気が散るけども、この子は残り十分だけ僕と会話することを選ぶ。

 テーブルを挟んで座り、お母さんが持ってきてくれたお茶を飲みながら会話をする。といっても楽しいものじゃない。沈黙がほとんどでたまに二、三質問される。


「お兄さんはなぜまだ辞めないんですか」

「えっ、いや。お金が必要だし」

「単純な理由ですね」


 クールな子だ。たまに達観した雰囲気の子もいたりはするんだけど、それは世の中を知らないがゆえに世の中を知った気になる一番危ない状況。幼いのに賢くなったと勘違いしてしまう子がほとんどだ。

 だけど、この子にはそういう仮初の達観ではなく、どちらかという傍観者。触れるつもりはなくただ見ているだけ。知っているとか知らないとかそういうことじゃないまた別の雰囲気。

 実際、賢いのだから達観していると表現してもいいものだけど、どれだけ賢くても子どもが本当の達観を身に着けることは不可能。天才でもない限りは。


 普段ならここで沈黙が流れるところだったけど、僕は少し会話を続ける努力をしてみた。ほんの小さな好奇心だ。演劇をやっていたころ。アドリブをしなきゃいけない場面があった。主人公をやってた子が重要なセリフを忘れてしまって沈黙したんだ。舞台上には三人。中央に僕と主人公がいて、下手にもう一人。でも、こっちに背を向けている状況だったから主人公がセリフを思い出すか僕がセリフを思い出せるようにきっかけを与えるほかなかったんだ。

 その時、沈黙を破るのはとても怖かった。僕の言葉がきっかけで物語がおかしくなったらどうしようとか、きっかけを与えても思い出してもらえなかったらどうしようとか、そんな不安ばかりを考えてしまいすぐには動けなかった。

 それが七秒の沈黙。ほかの高校の生徒も見ている中で、本来スムーズに進むはずの場面が七秒止まる。背を向けていた子もかなり焦っていただろうし、舞台袖で待機しているほかの子たちも困惑していたことだろう。

 僕が言葉を発した時、それは通常の演技とはまったく違うトーンだった。七秒の沈黙が僕の演技を変えたんだ。

 それから、沈黙もまた演技をする上での重要なものだと気づいたけど、日常のコミュニケーションにおいては沈黙はきつい。きついからこそ慣れてみようとチャレンジ精神が湧いて出てきたのだ。


「単純な理由ほどやりやすいと思うんだけどね」


 少し皮肉交じりに聞こえただろうか。僕なりに正直に答えたつもりだ。

 不安になりつつも真理愛の方を見てみると、なぜかじーっと僕を見ていた。

 相手から返事がないなら続けてみよう。


「いろんな目的や夢があっていい。だけど、そこへ至る道が直線に繋がるように見えてないと途方もない道に見える気がするんだ」


 まだ真理愛は返事をしない。

 僕を見ているだけだ。


「なのに僕ときたら、演技をやりたいくせに俳優になるわけでもなく舞台役者や声優になるわけでもなく、こうやって毎日日銭を稼いでる。まるで、目的地が海の向こう側で、僕のそばには船がないような状況だよ」


 すると、真理愛が口を開いた。


「見えてるなら、きっとたどり着けますよ」


 意外な返事だった。

 そもそも返事がくることを想定していなかったから驚いたのもある。

 だけど、その声色はとても優しいものに感じた。


「真理愛は何か目的や夢があるの?」

「シンプルです。とてもシンプルな目的。……わかりますか?」


 まさかの質問に対して質問をしてきた。

 さて、ここからどう返事をするべきなのか。

 もしかして察してほしいとか理解してほしいとかって気持ちがあるのかもしれない。そうだとすれば大人としてなるべく答えに近い返事をしなきゃいけない。だけど、僕にはその答えがわからない。


 まだ一秒と経っていない中、僕は吹っ切れてしまいこう答えた。


「わからないなぁ」


 ごまかすような笑顔と同時に降参宣言。


「ふふっ、わからなくていいんです。とてもシンプルな答えは、ちゃんとした大人と仕事をしたいってことです」


 真理愛が笑った。

 数回会っているけどこれは初めてのことだ。

 

「素直で純粋ですね。そういうの嫌いじゃないです」

「どういうこと?」

「大人と言われる年齢の人たちは、子どもに対して常に上の人間として振舞おうとする。でも、たかだか一般社会に溶け込んでるレベルの人たちが答えられることなんて知れてます。自分の能力以上のことをやろうとするから、出来ない時にイラついたり手を出したり暴言を吐いたりするんです」


 この子のクールな雰囲気の正体が少しだけつかめた気がする。


「でも、君は勉強が嫌いじゃないだろ」

「ええ、一度も嫌いと言ったことはないです。私が嫌いだったのは」

「前のお父さん」

「そう。なのに、お母さんや今のお父さんは、私が前のお父さんに洗脳されてると思って勉強を止めようとする。善意なのは理解してるけど、勝手に思い込んで行動するなんておかしいと思いませんか?」

「親心ってやつかな。助けたいって気持ちだけが先行しちゃってるのかもね」

「その愛が狂気に変化したのが前のお父さんなのに」


 この子は大人のことをしっかり見ている。

 大人の説明不足なところや子どもに隠してしまうようなこと、不器用に動いてしまうことの本質さえも理解して観察してる。普通の子どもなら鬱陶しさで喧嘩してしまうようなことだってあるのに、この子はそうじゃない。

 

「わからないことをわからないって言えるのはとても素敵なことだと思うんです。……だから」

「なに?」

「お兄さんは、変わらずにいてください。そうすれば、私は大人になることに対して今よりも希望が持てますから」


 大人の汚いところが見えている。

 前のお父さんの躾の内側にあった子どものためにという愛の部分と、自分にはできなかったことをやらせようとする分身として扱う負の面をみていたんだ。それに、きっとあの優しそうなお母さんも今のお父さんと結婚するまでは関係を隠していたのかもしれない。そう簡単に最初から言えるものじゃない。

 だけど、この子はそれさえ理解していた。楽しそうなお母さんの姿をみて問いかけたこともあったのかもしれない、純粋に知りたいだけなのに何か不安に感じて上手く答えない。

 学校の先生たちだってごまかしたり間違えたりする。この子はついそういう部分をつついてしまうかもしれない。だけど、大人は素直に認めない。その場で作ったすぐに崩れる言い訳をしてしまう。

 それを見た子どもが言い訳をして逃げてもいいんだと理解する。

 連鎖が止まらなくなってしまう。

 どこまで考えているかはわからないけど、この子は大人の醜さを見たから、次は大人の綺麗な部分を見たいんだ。

 大人だって知識があるだけで本当のところ子どもそこまで大差ないんだって。


「そろそろ帰る時間ですね」

「また来週だな」

「送ります。玄関まで」

「初めてだな」

「私も、もう少し気持ちに対して素直で純粋に行動してみようと思っただけです」


 少し変わったこととすれば、以前よりよく話してくれるようになったことだろう。

 決して何かが大きく変化したわけじゃないし、僕の生活は特に変化はない。

 なのに、相手を以前よりもちょっとだけ理解できるようなったから、心のもやもやが少し晴れた気がする。そのおかげかそれともただの気分か、僕は以前よりも積極的にオーディションへ行くようになった。


「あの、いつも完璧すぎて僕がいる必要ない気がするんだけど」

「必要のないことはしませんよ。必要だからここにいるんです。なぜかわかりますか?」

「わかってたら問いかけないって」

「それもそうですね。鈍感で純粋なお兄さん」


 

 

 

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