第3話

「ねえ、ばあや。今日こそロキは来てくれるかしら」


 ハルティアは槍の持ち手を磨きながら、掃除するばあやに向かって話しかける。

 ばあやの腰は、三日間ほど安静にしていたら痛みは引いてきた。まだ痛みは残っているらしいが、腰に負担のない動き方をすれば大丈夫と言っている。

 ハルティアとしてはまだ休んでいてもらいたいのだが、ハルティアがやると余計に酷いことになるのが実証されてしまっている。そのため、ばあやの負担にならない程度にやってもらうことにしたのだ。ハルティアが手を出せば、比例して後々のばあやの仕事が増えてしまうから。


「わたくしとしては複雑ですよ。ハルティア様のお気持ちも理解しておりますが、幼少時からお世話していた身としては、やはり寂しゅうございます」


 ばあやはハルティアの意思をいつも肯定してくれた。それが、殺されてもいいという普通はおかしな考えだったとしてもだ。


「ごめんなさい。孫みたいな私が先に死んでしまったら、つらいわよね」


 ばあやの心痛もちゃんと分かっているのだ。自分より年下の、しかもずっと一緒に過ごしてきた相手の死を望むわけがないと。


「わたくしはあるがままを受け入れると決めております。ハルティア様がなさりたいように、それが願いです。死を望むのなら、それを止めはいたしません。もし生きたいと思うならば、生きてくださいまし」


 ゆっくりと箒を動かすばあやは、穏やかな笑みを浮かべていた。いつも側にいてハルティアを支えてくれていたのはばあやだ。

 今日にも死ぬかもしれない。だから、言いたいことはすぐに言う、そういう癖がついていた。だから、ハルティアは照れくさいながらも口を開く。


「ばあや、ありがとう。大好きよ」

「まぁまぁ、こちらこそありがとうございます。わたくしもハルティア様のお世話が出来て幸せですよ」


 ほんわかと温かい空間に、少し気恥ずかしくなって新しい話題を出す。


「そうだ、王城から手紙が届いていたわね。確か魔獣の巣があるかもしれないって」


 魔物がどうやって生まれてくるのかは分かっていない。人間のように産むのか、それとも卵なのか、もしくは分裂するのかもしれない。だから巣と表現しているものの、全く別物の可能性もある。だが、魔獣が次々と出現する場所があるらしいのだ。旅人からの情報で信憑性は不明だけれど、もし本当だとしたら一大事なので、確認をしてきて欲しいという内容だった。

 仮に巣があるのだとしたら、ハルティア以外がむやみに近づいたら、生きて帰って来れないだろう。まぁ、ハルティアとて状況によっては無事にすむとは限らないが。


「今日は天気も良いし行ってくるわ。返事をしないときっと催促が来るだろうし」

「では、外で食べられるような軽食を支度をしますね。ばあや特製の焼き菓子もいれておきますよ」

「ありがとう。あ、そうだわ。ついでに――」




 数日前に魔獣の大群を退治したばかりのせいか、あまり魔獣に遭遇しないまま散策は進む。

 魔の森付近のため、濃い魔の気配を感じる。大気の中に溶け込む魔力が多いせいだ。つまり、魔の森は魔物がより過ごしやすい環境というわけである。

 まわりの樹木も全体的に黒い。魔力にかぶれると黒くなるせいだ。冬期のため葉の代わりに雪を枝につけている。枝の黒と雪の白が見渡す限り続いていた。白黒の世界だ。地面を踏みしめるブーツの茶色が、まるで異物のように感じてしまう。


「少し休憩しようかしら」


 倒木の上の雪を払い、大きめのスカーフをひく。そして、右側に寄って座った。辺りの気配を注意深く探り、ハルティアは満足げに一つ頷く。


「ロキ! お茶にしましょう」


 口元に手を当てて大きな声でロキを呼んだ。

 だが、返事はない。静かで遠くの鳥の声が聞こえてくるのみだ。


「いるのは分かっているわ。出てきてちょうだい。ロキの分の焼き菓子もあるのよ。ばあや特製だからとても美味しいわ」


 すると、今度はすぐに姿を現した。不服そうにそっぽを向いたまま、ハルティアの座る倒木へと歩いてくる。


「まぁ、ロキは焼き菓子が好きなのね。私の分も食べるといいわ」

「違う。あんたがうるさいからだ。こんな魔の森の近くで大声を出していたら、魔物が寄ってくるかもしれない」

「ふふ、じゃあ心配してくれたのね。ありがとう」

「はぁ! ち、違うだろ。注意しに来ただけだ」

「同じではないかしら?」


 ハルティアは首を傾げる。

 ハルティアを殺そうと思っているのだから、魔獣に襲われていても無視すれば良い。魔獣と戦って息が切れているところを狙えばいいのだし。それなのに、わざわざ注意するなんて、心配してくれているようにしか思えないのだが。


「同じじゃない。俺が巻き添えになるかもしれないだろ」


 一理ある返答をされてしまった。でも、ロキの強さは知っているから説得力はない。


「ロキなら簡単に逃げられるでしょ。それより、はい、ここに座る」


 ポンっとスカーフの開き部分を手で叩く。


「……近いだろ。肩が触れる」

「だから? 夜這いしてきたくせに、気にするなんて変なの」

「……あーもう、調子狂うな」


 ロキは結局スカーフの外、一人分空けて横に座った。

 斜めがけの鞄から、ばあや特製の焼き菓子を取り出す。ロキに二つ渡したら、無言で一つ突き返されたので、そのままハルティアも食べることにした。


「うまい。ばあやさん、店開けるんじゃないか」


 水筒のお茶を注ぎながら、ばあやが褒められたことが嬉しくて声が明るく弾んでしまう。


「でしょう? 私も大好きなの」


 ばあやがお菓子を作り、自分が店番をしているありえない未来を想像する。きっと楽しいのだろうなと、ちくりと胸が痛んだ。


「ところでロキ、お茶に誘った私が言うのもおかしいけれど、殺さなくて良いの?」

「あんたさ、民のために魔物を退治しているくせに、どうして簡単に殺してくれなんて言うんだよ。理解出来ない。矛盾してるだろ。あんたが死んだら、魔物が国に入り込むじゃないか」

「あぁ、それなら大丈夫。意外と大丈夫なようになっているのよ」

「意味が分からない」


 ロキの眉間に深々と皺が生成された。


「そうねぇ、あまり他国の人に防衛のことを話すのは良くないのだけれど、行けば分かってしまうことだから教えてあげる。街や村には魔物除けの結界が張られているのよ。ある程度の魔物なら入り込めないようになっているの」


 当然、先日のように群れで現れたり、一匹でも強い魔物であれば結界も破られてしまうが。だからこそ、万が一があってはならないので、魔物が現れたらハルティアはすべて浄化しているのだ。


「なら……あんたらだけ、結界の外で暮らしてるってことか?」

「そうなりますねぇ」


 ハルティアはゆっくりとお茶を飲む。


「おかしいだろ。魔物を引き寄せる餌みたいに扱われて、腹立たねえのか」

「私は納得してここにいるので。ばあやには申し訳ないと思っていますが」


 ロキが黙り込んでしまった。

 ハルティアにとって、心残りはばあやのことだけだ。でもばあやは強い人だから、ハルティアの意を汲んで生きてくれると思う。だから心配はしない。

 それ以外のことは、他の人で代用が出来る。ハルティアがいなくても何とかなる。最初は大変だろうけれど、人というものは環境に慣れてしまうものなのだから。

 ただ、それは少し寂しいことでもあるけれど。


「やっぱり、俺の国に行かないか?」


 沈黙を破った言葉は、再びのお誘いだった。


「無理です」

「ここは、あんたが尽くすほどの国か?」

「違うの、ロキの国だから行けないのよ」


 そうだ。ロキが生まれ、育ち、帰る国だからこそ、ハルティアは行ってはいけない。

 まだ出会って三回目だけれど、こんな風にハルティアに接してくれたのはロキだけだった。生まれたときからハルティアには王女という囲いがあった。加えて、聖女の力があると分かり、さらにその囲いは高くなった。だれもが、その囲いありきでハルティアを判断する。

 だけれど、ロキは普通にハルティアを心配してくる。聖王女として魔物退治をしていることを当たり前とせず、一人で魔物と戦っているなんておかしいと言う。それが、内心、とても新鮮だった。ちゃんと生身の人間として扱われていることが、嬉しかった。

 あぁ、もしかしたら、これが『特別』な相手に抱く感情なのかもしれない。一生、縁の無い気持ちだと思っていたのに。


「さぁ、休憩は終わり。ロキは引き返した方がいいわ。これから魔物の巣かもしれない場所を見に行くの」

「……見に行って、どうすんの?」

「どうもしないわ。ただ、状況を確認するだけ。下手に手を出して収拾がつかなくなったら困るもの」

「なら着いていく」


 ロキは立ち上がり、ハルティアを見下ろしてくる。その目は真剣だった。


「危険よ」

「あんたもな。それに、本当に巣があるのなら、この国だけの問題じゃない」


 確かに巣があったと分かったら、考えなくてはならないことはたくさんある。巣がここだけとは限らないわけだし、魔の森を囲む四カ国で対策を練る必要も出てくるだろう。

 ロキの意見も分かるため、不安な気持ちもありつつも一緒に向かうことにした。どうせロキの実力があれば、勝手についてきてしまうだろうし。




 王城からの手紙に書いてあった場所は、古城を朝出発して、休憩を挟んで昼過ぎに到着といった距離だった。いたって普通の雪景色の渓谷といった場所だ。だが、斜面の下に怪しげな洞窟があった。

 まわりは雪が積もり白いので、対比で洞窟の中の暗さがよけいにおどろおどろしく見える。それに、確かに魔物の気配が奥にある。おそらくこの洞窟だろう。


「ここなのか?」


 ロキが険しい顔つきで、洞窟を睨み付けている。


「あの洞窟の奥から魔物の気配がするので、間違いないかと」


 ロキの様子がおかしい。険しい表情もだが、手が白くなるほど拳を握り込んでいる。まるで何か押さえ込むかのように。

 すると、ロキが洞窟に向かって歩き始めてしまった。


「待ってロキ、危ないわ」


 慌てて追いかけるが、止まってくれないままロキは洞窟へと入ってしまう。

 ロキを一人にさせるわけにもいかないので、ハルティアも洞窟へ足を踏み入れた。しばし早歩きをするとロキの後ろ姿が見えてほっとする。

 洞窟の中はじめっとしていて、あまり気持ちの良い場所ではないなと思った。ごつごつとした岩盤でブーツを引っかけて転ばないように、下ばかり見てしまう。

 進むほどに入り口からの光の恩恵が消えていく。これ以上奥に行くと目視も難しくなりそうだ。


「ロキ、魔物の気配が近くなってる、引き返しましょう。こんな暗くて狭いところで襲われたらこちらが不利よ」


 やっとロキに追いつき、服の袖を引っ張る。


「誰があんなことしやがった」

「ロキ?」

「魔法陣が何者かによって書き換えられてる」


 ロキが指した先の岩肌には、青白く光る魔法陣が小さく見えた。


「何の魔法陣なの?」

「……元は、俺が使った転移の魔法陣だった。だが、こちら側を書き換えたということは、俺の国の奴らの仕業じゃないのか? 向こう側も何か改ざんされているかもしれないし」


 ロキが小声でぶつぶつとつぶやきながら考え込んでいる。詳細ははっきりとは聞き取れなかったが、ロキがこの魔法陣を使ってここへ来たのは分かった。


「あの魔法陣は、どういう風に書き換えられているの?」


 魔法陣に関しては門外漢なため、何がどう違うのかがハルティアには分からない。だけれど、ロキの様子からすると良くない状況なのだろう。


「常に発動するようになってる。つまり、俺の国からここへは魔力があればどんな奴でも来れる」


 魔法陣はとても繊細なもので、魔術師が魔力を練り込み描き上げる。一回完成すれば、注いだ魔力が切れない限りは何回でも使えるものなのだ。召還魔法陣ならば何回でも召還出来るし、転移魔法陣であれば何回でも転移出来るし、治癒魔法陣であれば何回でも治せる。だが、誰でも発動出来るわけではなく、魔力のない者にはただの光る陣でしかない。


 ハルティアの脳裏に一つの仮説がよぎった。

 魔力があるものが通れる。つまり、人だけでなく魔物だって通れるのだ。いやむしろ、魔力をもたぬ人は通れないが、魔物なら全部通れてしまう。


「あの群れ、もしかしてここから?」


 いつも以上の数だったのも、ここから新たに加わった魔物がいたのなら納得できる。

 だったら、誰が書き換えたのだろうか。


「俺の国の魔物を、こっちに押しつけようと画策したのかもしれない」


 ロキは苦々しい表情で、歯を食いしばっている。

 スヴァーヴァ国の魔物が流れ込んだのは事実だろうが、それをスヴァーヴァ国が仕組んだというのは、違うのではないか。だって、よくよく考えてみればおかしいのだ。

 どうして、魔物の巣があるなんて情報が、旅人からもたらされるのだ。もし巣があったならば、旅人なんて襲われて死んでいる。旅人が生き延びて報告が王城まで届くなんてありえないことだ。こんな初歩的なことに気づかないなんて。


「これは、我が国が仕組んだことよ」

「は? 自国に魔物を引き込む馬鹿がいるわけないだろ」


 いるのだから仕方ないではないか。それほどまでに、ハルティアを苦しめたい人間が存在するのだ。


「この魔法陣は、昔からあったのかしら?」

「あぁ。あんたの国だって他国にこっそり作ってるはずだ」


 公にはされていないが、秘密裏に移動するための魔法陣が作られているらしいのは知っている。目にしたのは初めてだったが。


「なら、ロキのせいではないわ。ただ、書き換えられてしまったせいで、ロキが帰れなくなってしまうのは良くないわね」


 正しくは帰れないわけではない。帰ろうとすれば魔物と鉢合わせしてしまう可能性があって危ないということだが。結局は同じことだろう。


「俺のことはどうでもいいだろ」

「どうでも良くないわ。修復できないかしら?」


 ハルティアは手がかりを見つけようと、さらに奥へと歩み出す。その瞬間、ロキに後ろから引き寄せられた。まるで抱きしめられたような格好に、驚きで体が固まった。


「足下見ろ」


 耳元でロキの声がする。吐息が首元にかかり、ぞくっと震えてしまう。


「へ?」


 気の抜けたような声しか出せなかったが、言われた通りに足下へ視線を向ける。そこには、近距離用の戦弓が岩盤の細い割れ目に刺さっていた。


「洞窟の外へ出るぞ」


 ロキに返事をする前に、膝をすくい上げられ、肩を抱きかかえられた。そして、そのままロキはハルティアを横抱きにして走り出す。


「ま、ちょ、ろ」


 待って、ちょっと下ろして、といいたかったが、走る揺れに声が途切れてしまう。


 ロキによって、あっという間に洞窟の中を運ばれていく。ごつごつした岩盤も足を取られることもなく進むロキは、やはり身体能力がずば抜けているのだなと明後日なことを考えてしまった。そうしなければ、横抱きにされたことで密着した体から伝わる温かさに、心臓が壊れてしまいそうだったから。


「あ、ありがとう。でも、急に抱えて走り出すのは心臓に悪いわ」


 洞窟を出ると、壊れ物を置くかのように、慎重に地面に下ろされた。


「殺してくれって平気でいうくせに、文句言うな」

「……それもそうね。貴重な体験だったと思うことにするわ」


 殿方に横抱きされるなど初めてだったのだ。こんなに動揺するものだとは思わなかった。世の中の令嬢達が、物語で憧れるのも納得である。


 ロキと並んで洞窟の入り口を見つめる。すると、ゆったりとした歩調で痩身の男性が現れた。彼からは魔力がまったく感じられない。人間もある程度の魔力を持って生まれてくる。多くのものは微弱だが、中には強めに持っている者もいて、そういう者達が魔法を使うことが出来るのだ。だが、中にはまったく魔力を持たない者もいた。目の前の彼のように。

 洞窟の中にいるときは、魔物の気配に注意していたため、魔力を持たぬ彼の気配にはまったく気が付かなかった。おそらく、それを見越して洞窟の中に潜んでいたのだろう。ハルティアを殺すために。

 選り好みをしていい立場ではないのだろうけれど、殺されるのならロキがいいのになと思った。


「ハルティア様、お久しぶりでございます」


 彼は聖女だった母の護衛をしていたグラートだった。とても腕が立ち、母からも信頼されていて、ハルティアの双子の片割れである弟の後見も務めていた。


「ひさし、ぶり、ですね。あなたが弟の側を離れるとは思いませんでした」


 驚きすぎて、言葉がうまく出てこない。過保護すぎる態度で、弟の横にいるのが常の人だったから。


「ハルト様たっての願いでしたからね」


 思わず天を仰いだ。薄々そうではないかと思っていた。


 ハルティアは聖王女として人々に受け入れられている反面、活躍の場を奪われた人々からは嫉まれていた。そして、ハルティアの能力を正しく知る者達からは憎悪されている。弟は、ハルティアの能力を正しく知る者の一人だ。


「おい、禿げのおっさん。知り合いみたいだが、こいつを殺しに来たのか?」

「ロキ、失礼よ」


 思わずたしなめてしまったが、ロキが心底呆れたような目で見てくるのがつらい。分かっている、そんなことを気にしているような場合ではないってことは。


「坊主こそ、色惚けか? 見たところ目的は同じだろ」


 隣でロキがぐっと言葉に詰まっている。


「ロキは色惚けなんかじゃないわ。ただ優しいだけよ。それより、魔法陣に細工をしたのはあなたなのですか?」

「あぁ、魔術師に細工させた」

「ならば直すことも出来ますね。私の命と引き替えでも構いませんから、すぐに直してください」


 ハルティアが一歩前に出る。すると、ロキが押し戻すようにハルティアの肩を掴んできた。


「待て。あんたを殺すのは俺だ。他の奴には渡さない」

「だめよ、ロキ。あなたが帰れなくなってしまう」

「俺のことはあんたが心配することじゃない」

「でも、心配なのだから仕方ないわ」

「あーお二人さん。盛り上がってるところ悪いけど、面倒だから終わらせても良いか?」


 グラートがゆらりと体を傾けたと思った瞬間、もうハルティアの目の前に来て剣を振り上げていた。

 だが、その剣の刃がハルティアに届くことはなく、代わりに甲高い金属がぶつかり合う音が響く。


「おっさん、せっかちだな。歳のせいか?」

「年の功だと言ってくれ。早く仕留めないと魔物が来る」

「おっさんのせいだろうが。さっさと魔法陣を戻しやがれ」

「無理だな。連れてきた魔術師は魔物に喰われた」

「ちっ、使えねぇ」


 ハルティアの前で会話しながら、二人は剣を合わせてぎりぎりと力比べのような状況になっていた。

 グラートの言うことが本当なら、一人の命がハルティアに関わったせいで消えたことになる。どうしてそんな遠回りなことをするのだ。ロキのように、ハルティア本人を狙えばいいのに。悔しさや無力さに、気が付けばほろりと涙が一粒こぼれていた。

 その瞬間、あたりに尋常ではないほどの魔力が満ちる。


「ぐっ、なんだこれ」


 ロキはどうやら魔力持ちのため、影響をより強く受けたようだ。絶えきれずに膝をついた。


『仲間割れですか? 相変わらず人間は愚かしい』


 異質で硬質な声音が辺りに響いた。

 惹き付けられるように自然と顔が上がる。ハルティアの視線の先、ふわりと宙に浮く魔物がいた。獣の姿ではなく人の姿をしている。加えて、意思疎通が出来るのは高位魔族だけだのはずだ。つまり、今現れて意味のある言葉をしゃべったのは紛れもなく高位魔族である。


 癖のないまっすぐな黒髪、その間から生えた二本の尖った角、瞳は鮮血のような赤を宿している。衣服は貴族男性のような出で立ちだが、背中には真っ黒の羽があった。


「まずいな、これ」


 グラートがちらりとハルティアの方を見た。グラートは冷静で状況判断が恐ろしく早い。すぐに結論を出したのか、何も言わずに剣を鞘に収めた。


「出直すことにします。では失礼します、ハルティア様」


 おざなりな礼を残し、グラートはハルティア達を置いて去って行った。


「おっさんめ、俺らを餌にして逃げやがった」


 未だに息苦しいのか、ロキが絞り出すように文句を言う。


 ロキはまともに動けないのだろう。ハルティアの手に力が入る。自分は浄化能力のおかげで影響はない。だから守らなくては、と。

 でも守り切れるか自信が無かった。数多の魔物と対峙してきたが、高位のものと会ったのは初めてだ。今までの魔物が幼子に思えるほど、魔力量もそれに伴う威圧感も桁違いだった。


「自信がない、じゃない。やるのよ」


 ハルティアは言い聞かせるようにつぶやく。

 高位魔族がゆっくりと降り立ち、ハルティア達の方へと近寄ってくる。


「高位魔族のあなたが何の用ですか? ここはブリュンヒルド国です。すぐに魔の森へとお帰りください」


 槍を構える。一撃で致命傷を与えられるとは思わないが、それくらいの攻撃をしないとこちらが危ない。正直、ハルティアの浄化能力がこの高位魔族にどれほど対抗できるのかが未知数過ぎる。今までの魔物のように浄化出来てしまうかもしれないし、逆に浄化しきれずにハルティアが負けるかもしれないのだ。


 全力で槍を振り抜く。だが、魔族はすいっと横に移動してしまい、槍が当たることはなかった。ならばと、槍を再度振り下ろし、よけることを見越してそのままくるりと回転して横から振り抜いた。しかし、今度は上によけられてしまった。

 動きが素早い。空中にいるというのに、自由自在に動き回っている。とにかく動きを止めなければ攻撃はあてられないということだ。

 ハルティアは左手の指先に意識を集中させ、浄化魔法の粒を五つ作り出した。それを魔族の頭、両手両足に向けて撃つ。これは当たらなくてもいい。本命は別だ。どう回避しようかと考える一瞬の隙、そこを槍で切り裂く。


『さすがあの聖女の魂をもつだけのことはありますね』


 ハルティアの槍の刃を手で握りしめている。魔族の手からは黒い血がぽたりとしたたり落ち、おまけにハルティアの浄化能力の影響で槍に触れている手からは黒い靄のようなものが出ていた。あきらかに手が浄化されている。表情も少し痛そうに歪んでいるというのに、口元は何故か緩やかに弧を描いていた。


「このまま槍に触れていると、完全に浄化してしまいますよ。早く逃げた方が良いのでは?」


 ハルティアは意識して槍に浄化の力を集約させていく。それに比例して白い煙の勢いが強くなった。切り裂けはしなかったが、槍が魔族に触れているのは大きい。


『ここは素直にお暇したほうが良さそうだ。もうすぐ魔王様も目覚めますから、また会うこともあるでしょうしね』


 魔王、という言葉に心臓が跳ねる。魔王はかつての勇者達が封印したはずだ。まさか、その封印が解けかかっているのだろうか。魔王は魔族すべてを統べる者、復活したら影響下にある魔物達はさらに力を増すだろう。


「魔王が、本当に?」

『えぇ、魔王様が起きたら一番に気にするであろう貴女の様子を、すぐに報告できるようにと見に来ただけです。愚かな人間達のように、貴女を殺すためにきたわけではない』


 魔王が自分を気にする? どうして?

 ぞわりと背筋に寒気が走った。未知の恐怖に手が震えてくる。自分のせいで何か酷いことが起きてしまうかもしれない。


『不安に歪んだ顔も美し――――痛えだろうが、人間!』


 魔族がロキの回し蹴りで吹っ飛ばされていく。ハルティアの足下には、渾身の蹴りで息を切らしながらも魔族を睨み続けているロキがいた。


「どいつもこいつも面倒くさいことばっか言いやがって。こいつを殺すのは俺、本人からも了解を得ている。ぽっと出の魔物は引っ込んでろ。さっさと帰りやがれ」


 言っていることは優しいことでもなんでもないのに、それでもやはり優しいなと思ってしまう。少なくとも、魔族が目の前から遠ざかったことで手の震えは収まった。ロキのお陰だ。思わず止めていた息を大きく吐き出す。それくらいハルティアは張り詰めていた。


『ふん、まぁいい。次に会うことがあれば、お前から殺してやる』


 魔族は裾の長い上着を翻すと、虚空に消えてしまったのだった。

 途端に魔力によって重々しかった空気が軽くなる。


「ロキ、大丈夫ですか?」


 しゃがみ込み、ロキと目線を合わせる。すると、ロキはスイっと目線を外してしまった。


「大丈夫だ。それより、あんたこそ高位魔族と戦ってなんともないのか」

「私は浄化能力の塊ですから大丈夫ですよ。よほどの相手でなければ、魔族が私に傷を付けることは出来ません」

「はは、人間の中では最強ってか? 俺の出番なさ過ぎだな」

「いえ、ロキがいてくれて助かりました。ありがとうございます。私一人では、どう追い払って良いのか分かりませんでした」


 魔王が復活するかもしれないこと、その魔王が何故か自分に興味を持っていそうなこと、その背景にどんな理由があるのか分からないこと。そんな疑問だらけで頭の中がこんがらがってしまい、まともに対処できるような状況ではなかったから。


「なぁ、魔族も気になるけどさ、あのおっさんは何だったんだよ」


 ロキがあぐらを掻いて地面に座り込んだ。話を聞かせろと言う意思を感じる。

 ハルティアも観念して、石の上の雪を払い腰を下ろした。


「彼はグラート、母の護衛をしていた人物で、今は弟の側についています。そして、おそらく一番私を殺せる人物でもありますね。彼はあれだけ強いのに、魔力が一切無いので」

「やっぱり、あんたを殺すには魔力を介さない物理攻撃のみってことか」

「その通りです。戦いにおいて魔力のあるなしは大きな差です。普通であれば魔力があった方が、強い武器が使え、それに比例して武勲も立てられますから。ですが、彼は魔力を持たなくても強かった。だから母の護衛にもなれた」


 ハルティアは己の手をぼんやりと眺めながら語る。だが、いったん言葉を切ると、まっすぐにロキの方を向いた。


「ロキは不思議がっていましたね、私が『殺して』と言うと」

「そりゃな。命乞いをされたことはあれど、殺してくれと言われることはないからな」

「私は母に殺されかけたことがあります。母は取り押さえられて乱心したと城の片隅に幽閉されました。母を幽閉に追いやった私のことを弟は恨んでいます。だから、弟はグラートを送り込んできたのだと思います」


 ハルティアは淡々と事実を述べていく。最後まで話したときのロキの失望を覚悟しながら。


「娘を殺そうとする方がおかしいだろ。なんであんたが弟に恨まれるんだよ。意味がわからない」

「私が魔物を引き寄せているとしてもですか?」

「……は?」

「私の浄化能力はとても強い。強すぎて、魔物を吸い寄せてしまうのです」


 ロキの目が驚愕に見開かれる。


「そんな、ことがあるのか」

「ロキだって、あの魔獣の群れを見ているでしょう? あれは私の浄化能力によって魔物が無意識に引き寄せられて、群れになっているのだと思います。先ほどのような思考能力のある魔族ならまだしも、魔獣は本能のみで動いていますから。無意識に私の力に引っ張られてじりじりと遠くからでも移動してきてしまうのでしょう」

「じゃ、じゃあ、あんたがいると魔物が次から次に襲ってくるってことか」


 ハルティアはゆっくりと頷き、肯定の意をしめす。

 あぁ、ついに伝えてしまった。きっとロキは軽蔑するに違いない。


「その通りです。そのことに一番早く気が付いたのが母です。母は泣いて謝りながら幼い私の首を絞めてきました。母は、聖女であり王妃でしたから、私を生かしておくことの危うさを無視できなかった」


 最初は分からなかった。大好きな母が、どうして自分を殺そうとしてきたのかを。怖かった。誰も信じられなくなりそうだった。ばあやがいなかったら、心を壊していただろう。

 それでも、母の行動の理由を知ったとき、すべてを納得してしまった。母だって娘を殺したかったわけじゃない。でも、葛藤の末に泣きながら殺すことを決めたのだ。母を追い込んだのはハルティアだった。

 悪いのは、ハルティアだったのだ。

 だから弟がハルティアを恨むのも当然だ。弟は母の代わりに行動を起こしただけに過ぎない。


 父である国王はハルティアが魔物を引き寄せることを知らない、はずだ。だが、おそらく勘付いているのだろう。古城に行けと言われたのが理由だ。

 それでも、父はハルティアの外交的な重要度を分かっている。ハルティアが聖王女として国に存在するだけで、他国に対して抑止力になるから。だから魔物を国の端っこで引き寄せて浄化してくれている今の状態が、一番都合がいいのだ。


「私が生きていれば、魔物を浄化できます。ですが、私が死ねばそもそも魔物が襲ってくることは少なくなります。どちらが民のためになるのでしょうね」


 もちろん、ハルティアが死んだとて、魔物が襲ってこないわけではない。被害は必ず出る。だが襲ってくる個体数は減るのだ。


「だから、殺してくれと?」


 その通りだと、ハルティアは頷く。

 するとロキは、痛ましいものを見るように、苦しそうに表情を歪めた。


「さぁ、私を殺してください」


 立ち上がり両手を広げる。だが、ロキは座り込んだまま反応すらしてくれない。


「ロキ、あなたは私を殺しに来てくれたのでしょう? 私は他の誰でもない、あなたに殺して欲しい。諦めることなく、ちゃんと会いに来てくれたあなたに」


 ロキはしばらく考え込んだ後、ゆっくりと立ち上がった。そして、ハルティアを見下ろしてくる。その瞳は何を考えているのか分からなかった。


「あんたは、生きていていい」

「……え?」

「少なくとも、俺の国に魔物が多く出没するのは、あんたのせいじゃなかった。両隣の国の魔物はあんたに引き寄せられていたから少なかったんだ。あんたから逃げて俺の国に魔物が多く出没していたわけじゃない」

「それでも私は死ぬべきなんです」


 高位魔族が言い残していったことが脳裏をよぎる。魔王が復活するかもしれない。そうしたら、状況はさらに混沌とするだろう。

 もし、魔王を引き寄せてしまったらどうするのだ。魔王はいにしえの勇者達が力を合わせても退治することが出来ずに、封印するのがやっとだった相手だ。いくらハルティアが全力を出したとて、さすがに一人でどうにかなるものとは思えない。


「俺は優しくないから、あんたの希望を叶えるのが嫌になった。だから生きてろ」


 ロキは本当に意地悪なことを言う。ハルティアが生きていても良いことなんてないのに。


「魔王が目覚めたら、魔物達は力が増します。今まで浄化できていた魔物も、浄化できなくなるかもしれない。魔物を集めるだけ集めて浄化できないなどあってはならない。そんなただの厄災になど成り下がりたくないのです」

「厄災になるときが仮に来たとしたら、俺が責任を持って殺してやるよ。それならいいだろ?」

「どうして、そんな風に言ってくれるのですか」

「……同情、かもな。俺も存在を望まれているわけじゃない。それだけだ」


 ロキが視線をそらす。その行為に、ロキにもいろいろと複雑な背景があるのが伝わってくる。


「もしその申し出を受けたとすれば、ロキは私とずっと一緒にいなくてはなりませんよ。国にも帰れません」

「別に良いよ。人のいない場所をのんびり旅でもしようぜ。どうせここにいたらあんたの弟が命狙ってくるだろうし」


 ロキと一緒に旅に出る。今日のように二人で歩き、他愛もない話をして笑い、魔物が出たら退治するのだろうか。なんだろう、とても楽しそうだと思った。

 ずっと聖王女という囲いの中にいた。自由などなかった。己の使命だと思ってひたすら魔物と戦う日々。肉親からは死を望まれ、己の生きている意味とは何かと考える日々。無邪気に笑って過ごせたことの何て少ないことか。


 ロキが言うように、生きてみても良いのだろうか。もう少しだけ、死ぬ前に楽しいことを味わってもいいのだろうか。


――もし生きたいと思うならば、生きてくださいまし


 ばあやの掛けてくれた言葉だ。

 いつも支えてくれた、たった一人の理解者。

 ねえ、ばあや。

 ばあやが言うとおりにしてみてもいいかな?

 いや、聞くまでもなかった。ばあやなら必ず笑顔で頷いてくれる。


「ロキ」


 名前を呼び、顔を見上げた。すると、決意が伝わったのか、ロキが小さく笑った。初めて見る、綺麗で見惚れてしまうような微笑みだった。


「さぁ、行こう」


 ロキが手を差し出してくる。

 行こう、が、生きようって言っているように聞こえた。


 ハルティアは手を延ばす。けれど、重ねる前に一瞬だけ躊躇した。けれど、その躊躇いを蹴散らすように、ロキの方からぐっと力強く掴まれた。

 その力強さに最後の迷いが消える。


「いきましょう、ロキ」


 ハルティアは囲いの中から出る、大きな一歩を踏み出したのだった。





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終末の聖王女と優しい殺し屋 青によし @inaho

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