第4話 新たな一歩




 

 玲娜リーナは自室の荷を纏める。荷といってもほぼ無いに等しい。多少の衣類に、自国から持ってきた本が二冊。以上である。


 浩月こうげつが告げた通り、玲娜の授位じゅい尚儀長しょうぎちょうを通じて後日正式に告知された。他の宮女達の愕然とした顔たるや、玲娜は恐ろしくてその瞬間顔を上げられなかった。


 宿舎の隅で粛々と片付けをする玲娜を、仲間が遠巻きに見つめている。その中には共にイルカンドからやってきた子も混ざっており――艾莎アイシャも含まれていることが一番耐え難かった。


「準備ができたら行きますよ」


 司賓司しひんしが宿舎の入口から声を掛けてくる。

 玲娜は今日付けで龍貴妃の住まいである春薫殿しゅんこうでんに住み込みとなる。上級女官は房室へや持ちになれると聞いていたが、まさかこんな時分で己が自室を持つことになるとは思わなかった。

 玲娜は扉の近くに佇む水漣すいれんに駆け寄る。


水漣すいれんさん」

「精々頑張んなさい。あっちでも虐められないようにね」

「落ち着いたら遊びに来ますね」

「はいはい」


 最後に抱き着くと驚いたように固まっていた。西方ではハグが挨拶なのだと伝えると、珍妙な顔をして引き剥がされてしまった。


 今よりきっと厳しい職場になる。

 周りには玲娜が栄華のきざはしを上っているように見えるのかもしれないが、玲娜にとってみればくらい穴へと落ちるような、囚われていくような感覚である。


 どこへ行っても負けないように。

 玲娜は自分に言い聞かせて、荷を腕に抱えた。




 ◇◇◇




 春薫殿は燦々と降り注ぐ日差しの下、朱塗りのいらかを燃やしていた。もちろんこれは比喩で、甍が燃えさかる炎のように見えたというだけで。

 正門をくぐり新緑の木々の合間から覗く殿舎はあまりに広大。絶え間なく声が飛び交い女官の往来が絶えない様子は春の名を冠する殿にしては苛烈な印象を受ける。

 初出勤に怯える玲娜を圧倒するには十分であった。

 

 尚儀局を出てしまうと案内あないの女官もおらず、言われた通りの道順でたどり着いた貴妃の住まい。まさかこれほど立派な場所だとは思っていなかった。


「ようやく来ましたか」


 先日宇恭うきょうと呼ばれていた宦官が倒座房手前で待ち構えていた。この酷暑の中しばらく待っていたであろうに、襟を首元までしっかりと詰めて着付ける生真面目さには頭が下がる。


「改めまして、陛下付きの護衛を勤めております陶宇恭とううきょうと申します」


 玲娜を認めるなり丁寧に挨拶をする宇恭に、玲娜も同じように頭を下げる。

 

「私は本日よりこちらでお世話に――」

「挨拶は結構。名前は存じております。中へどうぞ」


 ……慇懃無礼というべきか、効率重視というべきか。

 足早に中へ向かう背中を玲娜はいそいそと追いかける。前を向いたまま宇恭が淡々と口を開く。


「陛下がいらしております。貴妃さまのもとへ伺う前に、先にご挨拶を」


 この陛下がを指しているのか。宇恭の声の調子からでは判断ができない。


 慌ただしい女官の間を宇恭と玲娜がすり抜けていく。春薫殿の女官も陛下の訪問があるからここまで忙しくしているのかと納得する。

 正房おもやの手前、西側の廂房しょうぼうの前で宇恭が止まる。一番手前の房室の前には幾人か控えの宦官が待機していた。


「陛下、くだんの宮女をお連れしました」


 宇恭の口達に中から侍従が扉を開け、入れ替わるように宇恭と玲娜が入室する。腕を頭の位置まで上げ頭を下げて礼をする。


「ご苦労。宇恭も下がれ」


 抑揚を欠いた男の声音――本物か偽物か区別はつかない。宇恭の鋭い眼が玲娜を一瞥し、そして下がった。


「こちらに。面を上げよ」


 陛下は長榻ながいすに腰掛けていた。玲娜は側に行き、その足元に膝をつく。この男が清月せいげつであろうと浩月であろうと、最上級の礼は必要だ。

 豪奢な金糸の袖がおもむろに玲娜の前に滑り落ちた。

 くん、と垂れていた己の横髪を引かれて――一拍遅れて、男に髪を一房取られているのだと気づく。


 髪を触られる。

 会った時の区別の仕方は髪を触るでどうか――浩月とのやりとりを思い出す。あれ? 髪を触る?


「触るって、陛下の髪の毛じゃないんですか……?」


 玲娜は文脈からして浩月が自分自身の髪を触るのだと思っていたのだが違ったのか。

 ぽかんと玲娜が見上げると――見上げた先の男が、くしゃりと笑み崩れた。


「…………ふふっ、ごめん。髪ならどちらでもいいかと思って。君は綺麗な髪をしているね」

「あっ、いや、その。ごめんなさい」

「人目があるときには私自身の髪を触るから」


 人目がなくても浩月自身の髪でいいのでは?

 玲娜は目だけで反論する。


「立つといい。私にそこまでの礼は不要だ」


 促す浩月に従い、玲娜は背後を気にしながら立ち上がる。


「宇恭が他の侍従は下がらせているはずだ。問題はないよ」

「宇恭さまは浩月さまのことを――」

「知っている。彼が上手く周りを誘導して私と清月の入れ替わりに気づかないようにしてくれている」


 宇恭の苦労は計り知れない。玲娜の中で彼は苦労人という認識になった。

 苦労を生み出す元凶である浩月は、袖を払って立ち上がる。

 

「貴妃は少々気難しい女性でね。皇子はまあ、奔放というか。色々と難題を吹っ掛けられるかもしれないけど、悪い人達じゃあないから」

「不安でしかないのですが」

「私も一緒に中へは入るけど、おそらく彼女達は私より君と対話したがだろう。まあ、適当に上手くやってくれ」


 本当に不安しかない。

 浩月は玲娜を待って共に貴妃のもとへ行く予定だったらしい。さっさと扉の方へ向かう浩月の後を追う。

 しかし扉を開ける直前で、浩月が足を止めた。

  

「ああ、そうだ。今日まで君の名前を聞き忘れていたんだった」


 鷹揚に振り返った浩月に、玲娜は面食らう。


「私の名はご存知なのだとばかり。大変失礼いたしました。私は玲娜と申します」

「いや、違う。それは君の游国での名だろう。母国での名だよ」

「私の、名前?」

 

 玲娜は瞠目する。まさかこの地で母国の名を聞かれることがあるとは思わなかった。


「ちなみに私は波斯ペルシアでコーゲと呼ばれていたんだよ。浩月とは似て非なる名だ」


 妙に間延びして省略された名に、玲娜は悪いと思いつつ小さく笑む。気にした様子もなく肩をすくめる浩月に、玲娜は久方ぶりに己の名を口にする。

  

「改めまして、私はリーナ・アシュと申します」

「うん、ちゃんと聞くとやっぱり玲娜とは音が違うね」 

 

 浩月の屈託のない笑みに、不覚にも心臓が跳ねる。


「さ、行こうか。リーナ」


 自分の名を呼んでくれる人が異国にいる。妙な気恥ずかしさと心地よさがい交ぜになり、視線を逸らしてしまう。

 上から降ってくるくぐもった笑い声に玲娜はきゅうと口を引き結ぶ。――全部わかってやっているんだとしたら、相当たちが悪い。

 

 差し出された手に触れるか悩み――リーナはそっと指先だけ重ねる。自分より僅かに低い体温。右も左もわからない今、彼だけが頼りなのだ。全ての元凶も彼ではあるが、それでも一蓮托生と言った彼の言葉は間違いじゃない。



 あの日、浩月と会ったその時にリーナの運命は変わった。

 リーナの世界を一変したこの出会いが、これから游国を巻き込んだ変化に繋がることを――今の彼女はまだ知らない。

 








コンテスト応募作品につき、一旦ここで完結とさせていただきます。

ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

簡単なあとがきを近況ノートに載せています。



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後宮で贄の少女は言葉を紡ぐ 高里まつり @takasato_matsuri

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