願わくは、箱の中にて

かんな

願わくは、箱の中にて

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。

 歯磨きをしていた俺は、天井付近のスピーカーを見つめて動きを止めた。じっと見つめていると同じ声が同じ台詞を繰り返す。思わず口の中の泡を飲みかけて咳き込み、ゆすいで洗面を飛び出した。

「シロ! シロ! 来たぞ!」

 ぼろぼろのスリッパが無重力の廊下に漂う。船体後尾にある居住区画から前頭の操舵室までわずかな距離しかない、小さな宇宙航行自動船である。俺の叫びは洗面を出た瞬間から聞こえていたはずだが、相棒が応じたのは操舵室に飛び込んでからだった。

「またですかぁ。きっと幻聴ですよ」

 真っ白な猫が操作盤の上で寝そべっていた。ゆらゆらと垂れる尻尾を払い、「音量下げて寝ていた奴が言うな」と恒星間通信の音量を上げる。わずかなノイズの後、先刻ほど明瞭ではないがあの台詞が聞こえた。シロは三角の耳をぴっと立てる。

「……とうとう僕にも幻聴が」

「現実だ!」

 発信源を探る腕の間から、シロが顔を出す。

「どうせ遠くの……」

 言いかけて、おや、と声の調子が変わった。

「良かったじゃないですか。ここから近いかつての人類の夢。火星ですよ。いやぁ、五十四年と三か月二十二日。随分長い付き合いになりましたねぇ。タムさん」

「長すぎる……」

「アンドロイドに野暮なことを。お互い様じゃないですか」

 思わず黙り込むと、シロは体を転がして笑った。

「まったく、何度でも言いますけど、どうしてそこまでして自分の体を取り戻したいんです?」

 五十四年ちょっとの付き合いの中、何度も聞いた質問に何度も同じ答えを返す。

「だから、墓を作るんだよ! それで、家族みんなで眠る」

 そう答えるしかなかった。

 俺にも家族がいた。妻に娘が一人、それなりに幸せにやっていた。だが、娘の成人祝いの月旅行で旅客船事故に合い、娘は脳死状態、妻は瀕死、五体満足で生き残った俺は選択を迫られた。ドナー登録をしていた娘の体を利用して妻を助けるか、それとも二人を失うか。まだ点滴を打っているような状態で、せめて妻だけでも、と最善の選択をしたと思っていた──妻が目覚めるまでは。

「俺の大脳を見つけたら、話す」

「はいはい。僕はエンジンの様子を見てきます。タムさんは航路のチェックを」

 シロはすい、と無重力の中を泳ぐ。

 静かになった操舵室で椅子に座ると、安堵感に包まれた体が重力を思い出したように重い。

 目覚めた妻は、自分の体に強烈な違和感と嫌悪を覚えた。自分が、娘か、機械か、人なのか、確かめるために自らを傷つけて、その度に自己を失っていく。次第に俺のことも娘がいたことすら曖昧になっていった彼女は今、箱の中だった。

 戻ってきたシロが「何をやっているんですか」と白い目で見る。

「脳の持ち主が噂通りなら最悪だなと思っていたところだよ」

「コレクターというものはコレクションを大事にするものですよ。きっと大切に愛でてくれているはずです」

 それが生理的に受け付けないのだ、という言葉は飲み込んでおいた。



 火星は人類の第二の故郷として開発された星だった。だが、様々な人と金と利権が持ち込まれ、ついでに持ち込まれた戦争によって全てが泡のように消えた。

「壊れたコロニーなんか、まさに泡沫の夢。存外、詩的な風景ですよ」

 船は壊れかけの港に入る。新旧問わずの破壊の痕とゴミ、一般人が世話になりたい港ではない。他にも停泊している船が見えたが、シロいわく船体の脇に見えるのは偽装した機関砲の類らしく、慌てて視線を逸らした。

 乱暴な管制に応じて下船すると、人相の悪い男が停泊料を求める。正規の港では考えられない値段だが、これで船の無事はひとまず保障される。

「ここは一番の勢力を誇るビングファミリアの港ですからね。手を出そうなんてアホはここでは生きていけません」

 港を出ると、シロが「あっ」と楽しそうな声をあげた。

「あれはハナマサ組、あっちはブロンキ商会、おや儒甲会の顔ぶれまで。いやあ、犯罪組織の展覧会だ。お互い、よく殺し合わないでいられるなぁ。その我慢強さを他でも発揮してほしいですよね。ね、タムさん」

 慌ててシロの口を塞ぎ、無音の地表を蹴った。生身の体なら宇宙服を必要とするが、俺たちには必要ない。初期投資が大事、とハナマサ組の建物に入った金貸しが怪しい看板を掲げているのを見て溜息をつく。

 戦争で壊された第二の故郷は、国家間が自らの利権と相手の責任を主張し合っている隙に裏社会に付け込まれ、あっという間に全てを掌握された。年中、縄張り争いをしているプロにしてみれば、荒地に己の旗を立てるなど造作もない。彼らなりの秩序によって、今の火星は治められている。

「黙ってろ!」

 ビングファミリアの港に船を寄せていることを全てのごろつきが知っているわけではなく、そしてアンドロイドの体は金になる。

 シロは指示に従ったが、やがて神妙な面持ちで俺の手を押しのけて呟いた。

「発信源の詳細な位置、わかるんですか?」

「それは言えよ!」

 細かな解析と調査は自称、そして不本意ながら他称天才ハッカーのシロの仕事だった。未だに彼か彼女かわからないシロは人間だったが、なんやかんやで白猫の体に収まり、案外それを気に入って今に至る。うやむやにした部分はあまり聞きたくはない。

 ピンク色の肉球が示すまま進むと、風景が寂しくなっていった。不安になって辺りを見回す腕の中でシロが溜息をつく。

「さすがの強面たちも、ド級の変態には近づきたくないみたいですねぇ」

 足が止まる。シロを見下ろすと、柔らかな前肢が無理矢理に前を向けさせた。

「前にも言ったじゃないですかぁ。貴方の大脳皮質の一部を買ったのは大脳コレクターという、変態蒐集家です。……ほらほら足が止まってますよぉ。歩いて、歩いて!」

 くそ、と動かし始めた足が重い。

「忘れていたタムさんのために講義すると、買った大脳から音声情報に関わる記憶を抽出、音声データに変換したそれを超小型送信機に取り込み、装飾と称して大脳に埋めて、それを大脳と向き合いながら無線で聴くのが趣味! いやぁ、変態が変態的な技術を持つとこうなるんですね。船乗りたちが幽霊の声として恐れたのはこれが正体ですね、きっと」

 流れるようなシロの説明にうんざりとする。この猫はこういった話が大好物だった。

「俺んところで受信出来たのは奇跡か?」

「むしろ、今までよく受信しませんでしたね。周波数を貴方の脳波に合わせていたのか、貴方がアンテナの役割を果たしているのか……気になるなら本人に訊いてみたらどうです?」

「出来るか!」

「楽しい会話も交渉のうちですよぉ。ほら、もう間もなく……あれ?」

 予想外の光景に再び足が止まった。辺りの人工物は破壊しつくされ、故に、先に見える要塞じみた建物は目立ち、それが真新しい破壊痕によって半壊状態になっているせいでやっと風景に馴染んだ感さえある。目的の場所でなければ足早に通り過ぎたいところだが、シロの「あ、あれですね」という無情な言葉と共に膝から力が抜けた。

「うそだろ」

「ついさっき攻撃されたばかりのような……?」

 真空の空に瓦礫や破片が舞い、うずくまった土埃が靄のように風景を滲ませている。その中に動くものを認めた時には既に、シロが行動に移っていた。

「膝をついて、両手を挙げて!」

 何をと問う前に靄の中から装甲車が飛び出した。長年の旅で培った危機管理能力が最大限のアラームを鳴らし、俺はシロの言う通りにする。車は近くで止まり、レーザー銃を手に武装した軍用アンドロイドが数体降りてきた。

「何者だ」

 降りて早々、銃口がこちらを向いている。何を言っても撃たれる未来しか見えない、と暗澹たる気持ちになっていると、思いがけず彼らの緊張が微かに緩むのを感じた。

「なんだ、ご同輩か」

「……いえ、見た目だけです。中身はこの通り」

 自分とシロの身分証を示す。銃口は下げられたが、離れようとしない。シロはというと俺の膝の上でにゃあ、とかわいらしく鳴いた。俺にはシロの本心が見えていた──こいつはこの場を猫で通すつもりでいる。

「一体なにがあったんです?」

「一般人に何の用がある?」

 強張った声に内心ひるむが、続けた。

「この先に有名なコレクターがいると噂で聞いて。それで、遠くからでも見られるものかと……」

「ああ、待て待て。うっかりすると頭を撃っちまいそうになる」

 銃口が俺の額をつつく。使って間もないのか、うっすらと熱を帯びていた。思わず身をすくめて頭を振ると、銃を肩に乗せておどけたように答える。

「いい天気だろう。だから、そこのお宅に皆でピクニックしたのさ。わかったか?」

 俺はない唾を飲んだ後に立ち上がり、礼を言って踵を返した。初めはのろのろと歩いていたが、次第に速度を上げて逃げるように道を急ぐ。途中、振り返った彼らは、銃を持ったままずっとこちらを見つめていた。

「……貴方にしては言葉を選びましたね。余計なことを言っていたらピクニックのメニューに加えられていましたよ」

「全く……! どいつもこいつも!」

 抱えたシロが溜息をつく。

「コレクションの中身が中身ですからねぇ」

 港の入口で体中の砂を隅々まで落とし、駆け足で出港届を出して乗船し、操舵室の椅子にへたりこんだ。座り続けて潰れたクッションに安心する。

「その間の悪さには同情しますよ。わざわざ襲撃の時に行かなくても」

「俺がそうしたかったわけじゃないからな!?」

「証拠隠滅と憂さ晴らしを兼ねてってところですか。コレクターが強引な手を使ったことが、火星の皆さまの逆鱗に触れたみたいですね。これまでは向こうが持っている情報と自分たちのリスクを天秤にかけて互いに不干渉としていたようですが、殺してまで幹部の脳を手に入れたとか。情熱って凄いなぁ」

 シロの声をどこか遠くに聞きながら、操作盤に突っ伏した。もはや泣くしかやることがないが、その涙もない。

 その時、出港後の航路確認をしていたシロが「あ」と声を上げる。光学映像を呼び出して青と黄色の瞳をぐいっと画面に寄せた後、肉球が硬い頭を叩く。

「タムさん、タムさん。これこれ、見てください。航路の確認をしていたら、ほら」

 あれだけの破壊の後である、宇宙空間に放出されたデブリは多い。

 ところが、デブリの中に自動的に動きすぎる影がある。顔を上げた俺の前で、シロは映像の一部を拡大してみせた。

「コレクターの家の直上付近、あれ回収船ですよ」

「そりゃあれだけ散らかせば、拾いに来るだろ」

「普通、細かなゴミはネットで回収します。それがあれ、アーム出して選んでますよ」

 シロはぶつぶつと呟きながら映像を解析した後、今度は爪を出して顔を叩く。痛くはないが傷がつくのはいただけない。

「おい、やめろって」

「早く! 早く! 出る準備! あれコレクションです! 大脳のカプセルですあれ!」

 シロの言葉が繋がるまでに数秒を要した。その時間さえも惜しんだシロが四つ足と尻尾を動かして管制との応答から出航準備まで高速で済ませ、俺がようやく姿勢を正した時には船は動き出していた。向かうは謎の回収船である。

「お前、凄いな……」

「今は手動運転!」

 牙を剥かれては「はい」と素直に従うしかない。

「おおよそのルートはこちらで出すので、その通りに進んでください。僕は回収船のメインシステムに侵入します」

「は!? お前もう足は洗うって」

 俺の叫びに皮肉が応えることなかった。シロの体は丸まり、傍目には眠っているだけにも見える。涙も出ないなら、と操縦桿を握りなおした。

 回収船がカプセルを選んで拾っているのは明らかだった。大脳入りのカプセルは大きくても直径四十センチほど、あれだけのデブリの中から回収するのは危険である。それをして、彼らを挑ませる理由として考えられるのはただ一つだった。

「戻りましたよぉ。見た通りの違法回収ですね」

 シロが体を伸ばして操作盤の上に立つ。

「年季の入った連中で、こうして荒事のあった所で金目の物を回収、転売して金を得ているようです」

「金に……」

「なりますよ。だから襲撃されてるんじゃないですか。今回は物が物なので、売る相手は警察か軍かもしれませんね」

「俺の脳がそんな所に?」

「一般男性の脳なんてさして旨味もないですから、精査して捨てるでしょう。彼らが使用している捨て場も全て確認しましたが、今回は地球のようです」

 地球、と口の中で呟く間にも船は回収船へと迫っている。こちらの接近に気付いたのだろう、忙しなく動いていたアームは最後の一つを回収すると船体に格納され、火星地表でその様子に気付いた荒くれたちがビーム砲を打ち始める。

「チャンスはあと三回です」

 恒星間通信にあの声が紛れた。ビーム砲の嵐が止み、船体を反転させていた回収船の速度が緩む。

「タムさんが近くにいるからでしょうか」

「知らん! ……というか追いかけて大丈夫なのか!?」

「そこはご安心を。違法業者のくせしてむかつく防壁を仕込んでいたので、腹いせに火器管制を落としてきました。しばらくは使えないので、ここはもう、ぐんぐん追いかけましょう」

「……地球までもつか?」

「……そうでした。壊滅的に間が悪いんでした。捨て場に先回りしますか」

 ビーム砲に足元からまくしたてられ、回収船は速度を思い出す。俺も何とか船を反転させ、不本意ながら自分の間の悪さを信じて地球への最短航路に乗った。




 大気を抱いた雲は重く、吹き寄せる風は湿り気を帯びている。久方ぶりに訪れた地球は俺を良い顔では迎えなかった。

 回収業者の捨て場はアジア地域某国の山間にあった。傍目には粗大ごみの不法投棄場だが、わかる者がいれば近寄らない。そこにあるのは宇宙放射線を存分に浴びたデブリである。

「大気圏に投げ込んで燃やせばいいのに」

 船の外殻らしきものを持ち上げると、壊れたトイレがあった。新しく捨てられたゴミを探せばいいだけ、とシロは言っていたが、回収屋は巧妙に隠したのか一見では見つけられなかった。

「燃やしたらすぐにばれて捕まりますよ。地球の防衛体制なめすぎですって」

「そういやお前、そこに侵入しようとして体捨てる羽目になったって言ってたもんな」

「僕の体、あの後脳死状態で見つかってから行方が知れないんですよねぇ」

「は?」

 俺の視線から逃れるようにして、シロはしなやかな猫の体をゴミの隙間へ滑り込ませる。そして数秒も経たない内に「ありましたよ!」という声が上がり、小さな口に魚肉ソーセージを三本束ねたくらいの大きさのカプセルをくわえて戻ってきた。

「よくわかったな」

「いやほら名前」

 カプセルには丁寧に脳の持ち主の名前が陰刻されていた。変態がこの名前とこのカプセルを眺めながら悦に入っていたと思うと、走るはずのない悪寒が駆け抜ける。

 手にしたそれは恐ろしく軽い。かつて売った時は重大な何かを切り売りしてしまった罪悪感があったが、かかる重さはそれほどではなかった。両手で握りしめ、長く息を吐く。

 それを見つめていたシロが、何度目かの質問をした。

「それで、どうするんです?」




 北ヨーロッパの某国郊外、町から車で一時間ほど離れた山の麓には特殊な患者だけを集めた療養施設がある。生身の体に機械の体を移植することが珍しくない昨今、事故や病気などでそういった治療を余儀なくされた人の中には、機械の体を自分の物と認められずに認識障害を起こす例があった。彼らは機械部分に極端なほどの嫌悪感を抱き、自傷行為を繰り返すほか、悪化すれば自己の認知さえも揺らいで人格の崩壊を招いた。

 機械部分の離脱可能な患者には生身の体で生きるためのリハビリを、それが困難な患者にはカウンセリングを──それすらも難しい患者には崩壊した人格に影響されない体を提供し、静かに最期を待つホスピスとしての役割も担う。俺の妻は、この三番目の部類にあたる。

「──A12号機旅客船事故、ああ思い出しました。地球から月への定期船が月に衝突、乗客乗員三百五十二名のうち生存者は二名。あのお二人でしたか」

 約束通り、シロに全てを打ち明けた。事故のこと、治療のこと、そしてこの施設に至るまで。話しながら、これだけのことを相棒とも言うべき存在に言わないできた自分の不誠実さに体が軋んだ。

「……今、妻が俺たち家族のことをどれくらい認識しているかはわからない。せめて、彼女と同じ感覚になろうと思って自分の体を売ったが、もぐりに頼んだら流出品を使われてこのざまだ。妻の前に出ることすら出来なくなった。……ただ、その時、妻が穏やかになるのを知った。心が凪ぐってやつか。あの状態でそれがいいのか悪いのかはわからんが」

 それならやりようはあった。彼女の中にある家族をリセットすれば、苦しみの一つからは解放される。

「だから、俺は俺の体を取り戻そうと決めた。それを妻の前で埋葬して、家族は死んだと言う。……妻を家族から解放する」

 シロが肩の上で身を伏せる。

「今の会話、聞いているんですかね」

 さあ、と俺は抱えたチタン製の箱をわずかに持ち上げる。前面にカメラがあり、生存を示す緑色のライトが点いていた。

 人としての体を捨て、脳幹だけとなった妻は今、この箱の中で生きている。

 療養施設から離れた所にある墓地は、彼方に大きな湖を臨む。曇天から時折降りて来る陽射しが湖面に反射して、ちらちらと光が躍っていた。

「……いい場所だな」

 妻に語り掛けると、シロはひと鳴きして去った。目の前には墓石と、大きく口を開いた穴がある。穴の底には棺があり、傍らでは予め頼んでおいた牧師が難しい表情で立つ。

「もうすぐ夏になる。向こうの湖は鏡みたいに輝いて、この辺りはもっと緑が濃くなる。その頃になれば白くて小さな花がいっぱい咲くそうだ。眠るにはちょうどいい」

──あの言葉。

 発信されたあの言葉は、かつて家族でゲームをした際、負けそうだった俺のために妻と娘が作り出した優しいルールだった。そのチャンスを活かせたことも、活かせなかったこともあった。

 今度は、どうだろうか。

「残念だけど、君の家族はもう」

 棺の中には回収した俺の体がある。そして隣にはかつて埋葬した娘が眠る。まるでままごとの葬式のようだと思い、こちらを窺う牧師の表情にもそれが透けて見える。意味のない、だからこそ意味をつけるためだけの儀式だった。

 そもそも、今、この箱の中にいるのは何だろうか。妻であるかどうかもわからない何か。それをして妻だと言い張り、売った自分の肉体と娘の遺体を埋葬することで、箱の中を「妻」だと確定しようとしている自分が怪物のように思えた。もしかしたら、壊れているのは俺の方かもしれない。

 箱の沈黙は長く、しびれを切らした牧師が声をかける。「始めてください」と頭を下げると、箱のカメラから焦点をしぼる音が聞こえた。金属の重なり合う音と共に、スピーカーからは微かなノイズが漏れる。断続的で不規則なそれは苦しい息のように聞こえた。もがいて苦しむ、妻の息である。

──ああ、そんな。

 人の姿を失っても尚、彼女の意識が彼女を生かし続ける限り、苦しみもまた持続する。娘の体を使ってまで生き延びた罪悪に妻は耐えきれない。家族の記憶がナイフのように、辛うじて保っている正気を切り刻んでいるのだ。そのナイフを取り上げたところで、刻まれた痕は消えずにむしろ膿んでいく。そこにむらがるウジ虫を払うために、妻は更に苦しむ。

 箱の中は地獄だ。人の殻を失った人は、剝き出しの自己と向き合わなければならない。その自己の中に、逃れようのない地獄があったことに気付けなかった。俺は、地獄に妻を突き落としたようなものだ。

 軋む体で箱を抱きしめた。ここに地獄があると知り、それが妻の証明になった。怪物なんて生易しいものであるものか。未だに正気を保っていられる、度し難く愚かな人間だ。

 牧師の祈りが聞こえなくなった。顔を上げると複雑そうな顔でこちらを見つめている。

 堪え切れなくなった曇り空から雨粒が降りて来る。牧師を帰らせ、棺に土をかけようと箱と向き合った時、ノイズ混じりに「ああ」という声がした。

 死者の首に血色が満ち、ひび割れた唇には張りが漲る。枯れた赤髪は艶を得て、削げた頬に肉が戻り、落ちくぼんだ目には光が宿る。ほんのり赤みのさした頬にえくぼを刻んで、彼女は悲しく微笑んだ。

「あなた、来てくれた……」

 ぷつ、とノイズは途切れ、それきり箱が何かを発することはなかった。

 俺は、顔に垂れた雨粒に触れる。




 雨の幕が下りていく。薄く、幾重にも、ゆっくりと。タムたち家族の墓もその彼方にある。木陰からそれを眺め、シロは溜息をついた。

「……僕は、割とけっこう、よく出来た相棒のつもりだったんですよ」

 悄然とした様子で見つめる先には、項垂れるようにして座るタムの姿があった。首から伸びたコードもそのまま、投げ出された足をシロがつついても悪態は返ってこない。

 シロは遠くから一部始終を見ていた。箱を抱えて喋るタムの姿は異質で、呼ばれた牧師が気の毒なほどだった。祈りの言葉は震えて、これで死者を送り出すことが出来るのかと不安になる。だが、タムには全く意に介した様子がなかった。箱と見つめ合いながら彫像のようにじっと佇み、牧師の祈りが終わってようやく上げた顔に雨が落ちる。

 強くなる雨足の中で牧師を帰らせ、タムは棺に土をかけようとしたのか、足を踏み出したがそこで止まった。再び箱を見つめ、それから自身の頬に触れる。タムに駆け寄ろうとしたシロはその場で固まった──何かおかしい。

 すると、タムはおもむろに首の後ろの有線通信用コードを引き出し、箱に接続する。

「あっ」

 シロは目を大きく見開いた。何をしているのかはすぐにわかり、それがもう取り戻せない状態であることも理解した。しばらくの後にコードを乱暴に引き抜いたタムは、緩慢な動作で箱を棺の上へ置く。そして壊れた人形のようなかくかくとした動きでシロの元へ足を進め、木陰に入ったところで座り込み、そして止まった。

 シロは恐る恐る近寄り、タムに触れてその内部へ潜るが、意識と呼べるものはどこにもなく、呼びかけても空虚に吸い込まれていく。残っているのはデータとしての記憶だけだった。

 シロは頭をタムの足へこすりつける。

「猫には沢山の命があるから、人の命の機微くらいは気にしてあげようって思ったのに。僕のささやかな決意をどうしてくれるんですか」

 膝の上に乗り、爪を立ててタムの胸をひっかく。その指先にぽつんと雫が落ちた。見上げた色の異なる両目でタムの一つ目を覗き込むも、暗闇を覗き込んでいるようで気分が悪い。

 薄く開いた口は口角が顔の両脇まで至り、白兵戦の際は手足を失っても敵の首を嚙みちぎれるようにと鋭利な歯が見える。頭髪はなく、顔面は超硬質の合金。二世代前とは言え高性能のカメラを擁した一つ目が人で言うところの目の部分に鎮座し、そこにしがみついていた水滴が落ちていた。

 涙のようなそれが、項垂れたシロの後頭部を濡らしていく。

 やがて、タムの内部から小さく火花の爆ぜるような音が聞こえた後、首が傾く。一つ目が顔を上げたシロに向けて焦点を合わせているのがわかったが、かつてのような愛着は感じられなかった。

「……ホストの消失を確認。新たな人格データを内部記録から演算。再起動します」

 シロは長い尻尾をぺたん、と落とした。

「軍用ボディはだから繊細さに欠ける……」

 固まっていた上体がゆっくりと動く。腕が動き、立ち上がろうとして膝の上にいるシロに気付いて止まる。

「……ね、こ」

 内部記録の中に音声があったのか、声の出し方を確かめているようだった。

「はじめまして、僕は貴方が大切にしている相棒、シロです」

 シロは大きく体を伸ばした後に膝の上から降りる。

「さて、目覚めたばかりですが、現在、貴方は重大なゲームの途中です。誰もが目覚めた時から半強制的にやらされる、大変に意地の悪いゲームですが、極めれば面白くもなります。ただし、貴方は抜群に間が悪い!」

 なので、と、前肢をタムの足に置く。

「僕がヒントを提供します」

「……使用、限度は」

 シロは三角の耳をぴっと立てた。

「野暮だなぁ。チャンスは無限。さぁ、これからどうします?」


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