鳥が空を泳ぐ

千史

鳥が空を泳ぐ

「あの鳥、ずっと空を泳いでいる」

海辺の絶壁を旋回する鳶を見て、弟はそう呟いた。この辺りを鳶が飛ぶことは珍しくないので、ずっと前から気にはしていたのだろう。それを久しぶりにやってきた私に教えてくれたのだ。

「いいな、僕も空を泳ぎたいな」

悲観的ではなく、語尾の伸びた無邪気な言い方だったので私は安心した。でもすぐに弟が妙な気を遣ったのでないかと思い辛くなった。そういえば、弟はあらゆる移動を表す言語を「泳ぐ」で代用している。前までは母さん父さんも看護師さんも注意していたけど、一向に直そうとしない弟の様子を見て諦めたようだった。

私はそんな弟の変な癖が大好きだったので一回も注意はしなかった。弟が「泳いでいる」と言うたびに弟の目には私たちの思うような悲観的な灰色の世界ではなく、万物が優雅に泳ぐファンタジーの世界が広がっているような気がして嬉しかった。実際、病室のピカピカに磨かれた窓に、鳶を見る弟の輝いた目が反射していた。注意は一度もしなかったが、確かに不思議には思って家で考えてみたりもした。なかなか結論が出なかった。物心ついたときから車椅子に乗せられていた弟にとっては、「歩く」も「走る」も「飛ぶ」も「泳ぐ」も「跳ねる」も「転がる」も大体は他人事なので、一纏めにしてしまったのかもしれない。


 ある日、弟の部屋を片付けることになった。母は随分しつこく反対していたが、勉強机の下に蜘蛛の巣が張られているのを見て、しぶしぶ手伝ってくれた。その時、ランドセルの中から教科書が数冊出てきた。自分の小学校時代を懐かしみながら捲ると、どれも落書きだらけで、そんな気持ちは失せてしまった。先生はきっと弟には叱りづらかったのだろう、私の場合は小さく馬の絵を描いただけでも廊下に立たされた。表紙まで落書きされた漢字ドリルを捲ると、「泳」の字を最後に漢字の練習も落書きも何もなくなっていた。私は長年の謎が解けた考古学者のように「あーなるほど!そういうことだったのか」と大きな声で口に出してしまった。弟は今でも次の漢字を練習するように先生に言われるまで、「泳」を練習しているのかもしれない。いつか、小学校に戻ってきたときに困らないように。自分が中学生一年生であることにも気が付かないで。


 翌日、落書きだらけの漢字ドリルを持って弟を訪ねてみたが、弟は漢字ドリルなんかには興味も示さず、ただ窓から鳥が空を泳ぐのを見ていた。


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鳥が空を泳ぐ 千史 @omorisenji

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