エブリデイブルース

アズマ60

エブリデイブルース

 四十代の男に善人はいない。


 中年というものはたいてい頭が悪くて性格が悪い。四十になって惑わず悟ったのは人類一万年の長い歴史のなかでたったひとり孔子だけだ。そりゃあ論語もどえらいベストセラーとなるわけだ。

 きっと四十代はみんながみんな、どうにもならんな、どうもこうもねえなと思いながら歩いているのだろう。そして五十代になったら、たったひとりきりで五十代になったらいったいどんな顔をすればいいのだろう。

 サブカル界隈は四十が定年だとネットに書いてあった。

 あとは転んで落ちて壊れてのたれ死ぬだけだ。


「オレもう四十なんすよ、戸崎さん」


 日下部はそう言いながら立ち上がり、両手の拳をエイエイと突き上げ、深呼吸をして、キッチンで揺れているエプロン姿の小さな背中を呼んだ。日下部が戸崎さんと呼びかければ必ず優しく応えてくれる。戸崎さんは紳士だ。戸崎さんは良き紳士でありよき老人であり派遣の家事代行者なのだ。


「それはおめでとうございます旦那さま。では今夜はケーキを焼きましょう」


 戸崎さんが振り向いて笑う。

 腕まくりしたクリーム色のワイシャツに藍色のネクタイ、銀縁の遠近両用眼鏡。家事に適したラフな服装でいいんですよと何度言っても、これが派遣会社指定のユニフォームですからマネージャーに叱られますと譲らない。それだけではなく口調もだ。オレを旦那さまと呼ぶのはやめてくださいと日下部が何度頼んでもきいてくれない。これも派遣会社で決められていますからと言う。


「いや誕生日は半年前だったんですけど、そういう意味じゃなくて漠然とした世間話として、もうオレ四十代なんだなーって話で」

「それは大変失礼いたしました」

「ところでケーキなんて作れるんですか?」

「旦那さまにいただいたiPadがありますから。インターネットには料理界の森羅万象すべての真理が記されていますのでクリックひとつで大丈夫です」

「それクリックじゃなくてタップといいます」


 プレゼントしたiPadを気に入ってくれているので日下部は嬉しい。

 戸崎さんのネット環境は派遣会社から支給されている格安スマホのみだった。彼がパソコンを持っていないと知った日下部が、これは夏季ボーナスですからと無理矢理プレゼントした。マネージャーに叱られますと戸崎さんは言った。黙っていればいいんですよと日下部は諭した。通信料も日下部が負担することにした。まったくたいした金額ではなかった。


 じゃっかん距離が近づいてしまった自覚はある。


 戸崎さんが老人ではなく美少女だったらまるでオレが描くクソエロマンガのベタ設定じゃねえかと日下部はちょっと笑ってしまう。

 ベタもベタベタベッタベタ、いまどきまるで流行らない劇画調のエログロマンガ。

 背景は黒く読みにくい。アナログのマンガはやはりペンの温もりがあっていいですねとよく言われるが、とっくにフルデジタルに完全移行してますよ、電子書籍でも配信してますしと訂正すると「そんなタイプだとは思わなかった」と軽蔑される。昔の絵のほうがよかった、デジタルで劣化して下手になったと陰口を叩かれる。


「オレ、いつまでエログロマンガで食っていけるのかな」


 この世界から同人誌が消滅したらその日がオレの命日だ。

 日下部は再びエイエイと拳を突き上げてから肩の力を抜いて、ぐにゃりとアーロンチェアに座った。





 エロ漫画家というたいそうなご身分。

 コミケの壁配置。

 現金一括で購入したマンションの部屋は前入居者が殺害されたという最悪の事故物件だが、たまに幽霊が出る以外は何の支障もない。

 やたらとでかいiMac。

 液タブ。

 アーロンチェア。

 欲しいものはほとんど手に入れた、暖かい家庭以外なら。


 等価交換で喪ったのは高校時代から師匠と呼んで慕っていた相方と、見合結婚をして沖縄に去った姉だ。

 相方の件は泥沼だった。

 ふたりで長いことサークルを組んでいたし、ぶっちゃけ、男同士の親密なパートナーだった時期もある。だからこそありがちな痴情のもつれで関係は破綻した。

 恋愛の破綻は友情の破綻でありビジネスの破綻だ。

 その後、日下部は商業デビューした。

 相方は界隈の面倒な暴れ馬になった。日下部が同人で使っているペンネームを検索したなら、今でも元相方が日下部への憎悪と怨念を書き綴ったブログ記事や匿名掲示板の書き込みログが並ぶ。ガチホモだガチホモだとやたら罵ってくれているがそれはお互い様だろう。これはもう情報開示レベルのネットストーカーだよと忠告してくれる知り合いもいるが、日下部は放置を決めていた。関わることも無視することも女々しい対処だとは思いつつ。


 それよりも、たったひとりきりの肉親である姉が寿絶縁してしまったほうが辛い。


 彼女が婚約を報告したときに、日下部は「これから誰がオレのごはんを作ってくれるんだよ」と姉を詰った。姉は泣きながら「あんたはガキの頃からずっとあたしを奴隷扱いしてた!」とわめき、これからは家政婦でも雇えよバカホモ死ねと声高らかに絶交を宣言し出て行った。

 あんなに感情を剥きだしてキレた姉を日下部は初めて見たし、そもそも自由業の弟と同居して仕事をしながら家事をするのがそんなに苦痛だったのならもっと早く叱ってくれたらよかったのにとも思ったし、きっと結婚して沖縄に行くのが辛くてマリッジブルーだったのだろうと思いやったところで時すでに遅しだ。

 仕方なくネットで地元の家事代行サービスを探すことにした。

 だが何処をどう探してもスタッフは女性ばかりのようで躊躇した。

 仕事が仕事なので、この部屋の資料とパソコンの中身と原稿を見られたら最悪の場合セクハラだと訴えられても文句が言えない。趣味を兼ねて資料用に蒐集している昭和時代のポルノビデオも数多い。色情翁とお手伝いさんが卓袱台で睦み合って「嗚呼いけませン旦那さま、あ〜れ〜イ〜ク〜」なんていうどうしようもない展開の作品もある。

 家事を外注したいけど女性は部屋に入れたくないんスよね、と馴染みのエロ出版社の編集に相談をした。するとあっさり「それならコペルニクス的転回でいっそのこと風俗系をあたればいい、ごはんを作れる男娼を雇えばいいと思います。日下部さんの場合は一石二鳥じゃないですかハハッ」と言われた。

 ――なるほど天才か。

 だが一石二鳥て何なんだよクソがと日下部は思った。

 どうして連中は、ゲイの全員が下ネタ好きでどんな嘲笑も剛胆に笑って聞き流してくれると思っているのだろう。自虐ギャグが大好きだと勘違いしているのだろう。

 それから検索に検索を重ねてついに辿り着いたのが、奥様旦那様のお側に執事を派遣しますという人材レンタルサービスだった。

 表向きはタレント派遣だのレンタル家族だのというワードで引っかかるようになっているがコレはアレだと日下部にはピンときた。

 性的なサービスは要らんから週に一度の家事代行をお願いしたいと注文をつけて待つこと半月、約束の時間に現れたのが戸崎さんだった。

 たしかに二次元から抜け出してきたかのような渋い美貌で完璧なコスプレ執事だ、だがこんなおじいさんがカラダを売ってんのかよと日下部は驚いた。そして正直ドン引いた。もちろん態度には出さず留めたけれど。

 軽く感じた侮蔑はすぐに敬服に変わった。


 戸崎さんは勤勉だった。


 週に一度、早朝からやってきてまずは一週間分の洗濯をして掃除をして、日下部が貸した車を転がしてショッピングセンターに出掛け一週間分の食料と必需品を買い、午後には洗濯物を取り込んでクローゼットにしまって、夜は晩酌につきあい食事を共にしてくれる。まるで単身赴任の夫を訪ねた愛妻のような仕事ぶりだ。

 しかも想像していたよりもずっと、安い。

 明らかに時給の安い仕事をさせている。そんな申し訳なさが内緒のiPadプレゼントに繋がった。





「旦那さま、今夜は何を召し上がりますか」

「ケーキを焼いてくれるんでしょう?」

「ケーキは夕食ではないでしょう?」


 軽口の応酬もタイミングが合ってきた。相性が良い証拠だ。


「それじゃ焼飯がいいな。戸崎さんの焼飯大好きなんです。卵とウインナーと玉葱の」


 家事代行とはいえもちろんそれが専門ではないのだから、戸崎さんはプロではない。作業の要領がいいといってもそれは〝世間一般のおじいさんにしては〟という但し書きがつく。

 正直に申し上げて、戸崎さんの料理はすべてがしょっぱくてヘタクソだ。

 だが日下部は戸崎さんが作る濃い味噌汁が好きだ。

 焦げたウィンナーと焦げた玉葱とカリカリになった卵を醤油味でねじ伏せたべちゃべちゃの塩辛い焼飯が好きだ。

 自分と姉にまだ父親と母親がいた頃の食卓を思い出して、思わず涙ぐんだほどだった。世の中はバブル景気ではっちゃけていたのに、どうしてあの頃の我が家は借金まみれでめちゃくちゃだったのだろう。どうして両親はいなくなってしまったのだろう。戸崎さんはときどき日下部の心をおだやかにかき混ぜる。


「オレも買物に出ます。ふたりで一緒に行きましょう」


 日下部は描きかけのネームを放り出して戸崎さんと出掛けることにした。

 いつもは戸崎さんに車を鍵を渡すところだが今日は一緒に買い物したかった。ふたりではしゃきながらショッピングモールに出掛け、ホットドッグを囓ってコーヒーを飲み、スーパーではカートいっぱいに食材を買った。もちろんケーキの材料も買った。

 スーパーに流れているBGMに合わせて戸崎さんが口ずさんでいる。


「それ、何の曲ですか?」

「Every Day I Have the Blues.〝毎日がブルースだ〟ですよ。ご存じない?」


 戸崎さんが歌いながら明確に答えた。


「クールっすね」


 ケーキにはチョコレートも載せましょう。





 それから帰宅して、不味い焼飯としょっぱい味噌汁で早い夕飯を済ませ、ふたりは小麦粉まみれでケーキを焼いた。

 もちろんうまくいくはずがなかった。

 インターネットに書いてあるレシピは嘘ばかりだと知った。


「戸崎さん、はい」


 ケーキの上に突き刺すつもりだった板チョコを割って差し出す。


「旦那さまは少年のようなお方ですね」

「オレ未熟なんですよ。自覚してます」

「私も未熟でした。あなたと同じ歳の頃は大学で学生に論語を教えていました」

「でもどうして」

「溺愛していた学生を亡くしました。生きていれば今のあなたに似ているでしょうね」


 戸崎さんが自らのことを話すのは初めてだった。大学で学生に囲まれていたのだろうか。いつからこんなことをしているのだろうか。今こんなことをしているということはまともな学者にも教育者にもなれなかったということだ。


「そろそろ勤務終了の時間です。マネージャーに電話しなければ」


 戸崎さんは派遣会社から支給されているスマホを取り出す。日下部は思わず手を伸ばした。


「今夜は延長でお願いします。あと一時間だけ。金なら払うから、側にいて。もっと話しませんか」

「私の話はしませんよ。けれど、……論語の話をしましょうか。ブルースの話をしましょうか」

「両方。両方聞かせてください。論語もブルースも、どっちもオレ何も知らないから。あなたが愛した学生さんに話したように話してください、オレをそのひとの名前で呼んでくれてもかまいませんから」


 偶然に手が触れた。


 明らかにそれと判る熱だった。この胸の締め付けがたまらないなと日下部は思った。熱の在処に触ったら壊れてしまう。でもきっといつか壊すのだろう、据え膳をひっくり返して全部を。そして泣くのだろう。ブルースが流れている。孔子が仁を説く。ブルースが流れている。顔回が死ぬ。指先だけを重ねて時間よ止まれと祈りながら心は闇に染まって藍色だ。子路が死ぬ。何か優しいことを言いたい。どうにか暖かい言葉をかけたい。そしてかけられたい。


「四十代はみんな頭が悪くて性格も悪い。オレはどうしようもない中年になってしまいました」

「可愛いじゃないですか。六十代になるとさらに往生際まで悪くなります」


 けれど巧言令色鮮し仁、四十代の男が六十代の男娼に今さら恋なんてできるわけがないし、そんなことをふと考えている自分の人間性が恥ずかしくて醜くて日下部は辛い。悪人だなと思った。だからそもそも四十代の男は悪人だ。そして六十代の男は往生際が悪いのだ。論語の話をしましょうか、ブルースの話をしましょうか。それとも。

 ああ、それとも、どうでも、どうか、どうにでも。


「戸崎さん、あなたが好きです。本当に、心から、すっごく、あなたが好きです」


 ところが戸崎さんはするりと眼鏡をかけなおす。


「旦那さま、私となさいますか? 十五分ほどバスルームを貸していただければ準備を整えて参りますが」

「やめてくださいよ、あなたを相手になんて無理です。オレはそこまでゲスじゃないです」

「……」

「……いやっ、あのっ、すみませんが、あの、すみません、嫌ってくれて結構です、あのう、やっぱり別料金ということでお願いしても、すみませんすみません、なんか結局こんなふうになっちゃって本当に本当にすみません」

「かしこまりました旦那さま」


 さあおしまいのはじまりだ。

 バスルームから鼻歌のブルースが聞こえる。なんだよあんただってノリノリじゃねえかよ。日下部は両手で顔を擦って、慌てて寝室に走る。

 いっそこのまま旅立とうか、ふたりには宛もなく未来なんて何処にもない。



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