海と空、境界面の走馬燈

雨希

本編

 私は売られたのだ、姉によって。この、海と陸の狭間にある高校に。奨学金という名目で、月に十万が与えられる。学費は免除、寮生活なので食費や家賃もかからない。つまり、十万は全て姉の手元に入り、丸儲けというわけだ。

 もし誰かに、「姉を恨んでいるのか」と聞かれたら、私は首を横に振るだろう。「両親が蒸発したあと、ここまで育ててくれたのは姉ですから。感謝しています」と、ちょっと涙ぐんで言うはずだ。……大嘘。正直な所、私は姉が大嫌いだ。小さいころから、姉はことあるごとに私を床の上に組み敷いた。私の両手首をあり得ないほどの力でぎゅっと握り、顔の両側でフローリングの床に押し付けると、馬乗りになってぐいと額を寄せて来た。彼女の髪の先が私の鼻をこする。やけに強く、シャンプーが香った。

「分かってるでしょ、私のおかげであんたは生きてられるの。その服も、綺麗な爪も、細胞の一つ一つも、全部私が一生懸命働いているおかげでここに存在できているの。感謝しなさい、敬いなさい、従いなさい。ね、」

 じわりと涙が浮かんで、耳を伝うのを感じた。姉の手を押し返そうとすると、爪を立てられた。それ以上の抵抗はできなかった。

「お姉ちゃん、ありがとう」

 自分の声が、全く知らない他人のもののように聞こえた。

 姉と二人で住んでいたアパートの部屋を出て、もう二年半が経つ。あと半年で私は立派な潜海師となり、異世界とこの世界の境界がある深海へと送られ、命を懸けて「壁」の補強作業に従事する。多分、もう二度と俗世には帰れない。潜海師の寿命は平均で十年。そのほとんどを深海で過ごすことになるが、彼女たち自身の体感時間はたった数分だとも言われている。

 夏の午後。放課後、私は校舎のベランダに出た。最上階なので、世界がとても広く感じられた。紺碧の海。ゆるくカーブした水平線。入道雲。ずっと遠く、海面を滑るように横切って行く白い船。陸地には、こんなふうにだだっ広い景色はない。すき間なく灰色の建物が詰め込まれている。その複雑さを当たり前のものとして育った私には、この広すぎる海がとても美しく見える。

 ぼうっとしていると、視界の端に何かが入って来た。ちらりと横目で見る。クラスメイトの田中さんが、どういうわけか私のすぐ隣に立って、手すりの上でゆるく腕を組んでいた。

 田中さんとは、ほとんど言葉を交わしたことがない。長くつやつやとした黒髪が、潮風になびいて散る。ずっと、整った顔立ちの子だと思っていた。切れ長の目からは気の強さが伝わって来る。成績優秀で、頭が切れて、芯が強く、孤独と社交性をうまく使い分けている子。他のクラスメイトたちは彼女を慕っているようだが、私にはどうにも近寄りがたかった。

「ねえ、あなたってさ、『売られた』側なんだってね」

 田中さんが、水平線へと目を向けたまま言う。

 私が黙っていると、彼女は声を立てて笑った。

「私は自分から志願したからさ。どうしても一目見て見たかったんだ、世界の境界ってやつを」

「……ものすごく、綺麗らしいね。この宇宙で最も美しいって」

「うん。家族は猛反対したけど、どうしても」

「田中さんのおうちって、大金持ちなんだよね」

 田中さんは右手を口元に当てて、クスクスと笑った。

「兄弟、多いんだ。私一人いなくなっても、なんにも困らない」

「そんなことは――」

 ないだろう、と言おうとして躊躇った。彼女の事情は、私には分からない。

 田中さんはしばらく気持ちよさそうに風を浴びたあと、教室の中へと戻って行った。

「変なやつ」

 そんな言葉が、ぽろりとこぼれた。


 潜海法の実習は、屋内にあるプールで行われる。一年生のころから何度も練習を繰り返しているので、私にとっては頭を使わなくてもできる単純作業でしかない。潜海服で全身を包み、二メートルの深さのあるプールへと沈んでゆく。擬似壁に辿り着き、命綱である吸着板で体を固定しようとしたとき、

「あ……まずい」

 吸着板を陸に忘れて来たらしい。壁を蹴り、水面へと浮かんでゆく。波打つ水面の光と影、生まれては消えてゆく無数のあぶく。ゆらゆらと揺れる世界。毎日のように見ている光景なのに、いつも、とても美しく感じる。

 陸に上がると、教官のげんこつが飛んできた。私は吹っ飛び、タイル張りの壁に激突してぐにゃりと曲がった。

 潜海服の重さのせいで動けずにいる私の上に、教官が馬乗りになる。

「お前は、分かってるのか? ここが現場だったら、お前は何の役目も果たせないまま海中を漂い、そのまま死んでたんだ。お前一人を一人前に育てるために、いくらかかってると思う? 一億だぞ? 血税だ。罪なき人々が流した血だ。お前は、分かっているはずだ!」

 教官の説教には慣れている。普段通りなら、受け流せた。なのに、今は体が震えている。言葉が出ない。口が勝手にぱくぱくする。必死で息を吸う。

「す、すすす」

 なんとか喉の奥から声を絞り出そうとしたとき、

「先生、さすがにそれは体罰ですよ」

と、冷静な声が降って来た。いつの間にか、田中さんが先生の後ろに立って私たちを見下ろしていた。両腕でヘルメットを抱えた彼女は、何の表情も浮かべていなかった。

「さっき、校長先生が視察にお越しになると仰っていました」

 教官は深くため息をつき、私から目をそらして

「すまんかった。これからは気をつけろ」

とぼそりと言った。体から力が抜けた。

 田中さんは何も言わずに私をしばらく見つめ、すっと背を向けた。私が辛そうだったから助けてくれたのか、単純に見苦しかっただけなのか。分からなかった。

 実習の後、寮へと戻った。うなだれて階段を上っていると、

「あなた、大丈夫? 怪我してない?」

と優しい言葉が降って来た。顔を上げる。田中さんが、踊り場にある大きな窓の枠に座っていた。右足を枠の上で三角に曲げ、左足を床に降ろしている。紺色のプリーツスカートから生え出たその白すぎる脚には、何も履いていなかった。上履きは彼女の右手に吊られ、膝の上でぷらぷらと揺れていた。窓の外には、海と空。青色の世界を背景にして、白いシャツと生白い肌の少女は、うっすらと笑っていた。

「血税だって、あはは。私は世界中の人がくれた一億を使って、自分自身の欲望を満たしに行くんだぜ。最高じゃん、ホントに」

 女はからりとひとしきり笑うと、外へと顔を向ける。黒髪がふわりと広がって、彼女の表情を隠す。

「私も、田中さんみたいになりたかった。自分の命を、ちゃんと自分のものにしたかった」

「――あなたの命は、最初からあなたのものだよ」

 気が付くと、私は自分自身の顔をじっと見つめていた。いや、違う。七色に光る薄い膜……世界と世界を隔てる壁の向こうに、私と全く同じ顔をした女の子がいるのだ。

 そうか。私、もう辿り着いていたんだった。走馬燈、という言葉が浮かんだ。

 もう一人の私が笑った。だからきっと、私も笑っていた。

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