海底で生まれて

雨希

本編

 海と空を美しいと思うのはきっと、私が海底の砂粒から生まれて来たモノだからだろう。

 自分が生きているということに気付いたのは、一体いつだったか。

 自分がヒトの形をしていることに気付いたのは、一体どの瞬間だったか。

 今となっては、もう、思い出すことすらできないけれど。

 私は、確かに、ここにいるのだ。


 一応、二十六歳ということになっている。アラサー手前の、そろそろ一人前にならなくちゃならない年齢。家族を持たない私は、とある海辺の小さな水族館で、住み込みで働いている。

 入場料をとらないその水族館は、暇を持て余した大金持ちのおじさんが趣味でやっていて、両手を広げたくらいの大きさの水槽が五十ほど並んでいる。飼育しているのは、地元の海に住む生き物がほとんどだ。ヤドカリ、カニ、クラゲ、ヒトデ、ナマコ……見た目の派手さはないが、よくよく観察すると可愛い奴らだ。水族館はそこそこ賑わっている。寄付をくれる人も少なくない。

 私はその水族館の隣にある小さな家に住んでいる。風呂とトイレと台所、それから寝るための部屋が一つある、狭いけれど一人暮らしには十分な住み家。多分、東京の家賃七万円の部屋より、快適だと思う。


 朝の五時。目を覚ますと、部屋の天井は青色に染まり、波打つ海面の影が白くちらちらと揺れていた。不思議だ。自然の影というものはどうして、黒ではなく青色なのだろう。

 窓から潮風が入って来たのか、カーテンの影が波の光を覆い隠した。しまった、開け放したまま寝落ちしてしまったらしい。女の一人暮らし、しかも平屋建て。窓から誰でも入って来られる。もっとも、今まで危ない目にあったことなんて一度もないけれど。

 寝間着として使っている古いTシャツと短パンを着たまま、朝食の支度をする。夜のうちに米をといで炊飯器の予約設定をしていたので、部屋の中は甘いかおりに満ちている。炊飯器の蓋を開けると、熱い蒸気がもわりと顔を包む。お椀によそい、サバの水煮缶の中身をのせて、マヨネーズをかける。それから、冷蔵庫で冷やしていた紙パックのミルクコーヒー。いつも通り。三百六十五日、毎日同じ朝食。台所に立ったまま食べていると、急に、「グリーンスリーブス」のメロディがどこからか流れ始めた。美しいけれど、物悲しい音楽。しんみりしてしまうので、朝っぱらから聞きたい曲ではない。面喰っていると、今度は玄関のドアが勢いよく叩かれ始めた。

「夏織ちゃん、おはよう」

 家主のおじさんの声だった。私は慌てて、床に脱ぎ捨ててあった紺色のカーディガンをはおり、玄関に向かう。

 おじさんは、困ったような顔で立っていた。真っ黒に日焼けした肌と、天然パーマだと自分では言っているアフロみたいな白髪。くたびれたポロシャツ。海の男、という風情だが、漁師ではない。年がら年中、自家用のヨットで遊んでいる人だ。いつもは豪放磊落なのだが、今は、妙に落ち込んでいるように見える。

「夏織ちゃん、もしかして寝てたんか? いつもやったら、起きてる時間やろうと思ったんや。すまんかったな」

 そう、おじさんはしおらしく言った。

「いえいえ、起きてましたよ。朝ごはんを食べているところでした。それより、どうかしたんですか?」

 私は、カーディガンの合わせ目を両手でぎゅっと握った。おじさんの後ろから、ひょいと見知らぬ女の子が顔を出したのだ。中学生か……高校生くらいだろうか? その子は、白いセーラー襟のワンピースを着ていた。襟に入ったラインと、スカーフだけが淡い水色だ。どこの制服だろう。彼女の顔には、愛想笑いのような薄っぺらい笑顔が貼りついていた。大きな目と唇が、わずかに引きつっている。

 そのとき、強い風が私たちに吹き付けた。女の子の長い髪が、ふわりと広がる。

「あ……」

 息を呑んだ。おじさんは、私が何を思ったのかに気付いたのだろう。重々しく、「ああ」とうなずく。

「君と一緒や、この子も」

 乱れた髪を、女の子は片手で押さえつけ、耳にかける。笑顔は消えていた。今は、全身で緊張を表している。

「この子には、身寄りがないんや。うちでしばらく預かることになった。面倒、みてくれるか?」

 私は。私は多分、断りたかったのだ。無理だ。思春期の、しかも訳ありの女の子と一緒になんて、生活できるはずがない。身に余る。きっと、この子を傷付けてしまう。怖い。不安でたまらない。私のような空っぽのヒトに、何ができるというのだ。面倒なんてみられるわけがない。

 けれど。

 けれど、私はうなずいた。そして、怯える女の子に精一杯笑いかけた。

「よろしくね。私は夏織。あなたは?」

「美潮です」

 少女は、早朝の海を閉じこめたような美しい目で私を見上げる。ぽろり、と今にも光がこぼれ落ちそうな目で。


 少女の髪は、ぱっと見ただけでは黒髪に見える。けれど、光を受けたり薄く広がったりすると、本当は青色であることが分かってしまう。

 私と同じだ。人間ではなく、海底の砂粒から生まれたヒトである証……


 開館時間の前に水族館内の掃除を一人で全てこなし、入り口の鍵を開け放してから、その前にあるベンチで一息つく。家主のおじさんが手作りした木製のベンチには、青いペンキが塗られている。木目の端でペンキがぷくりと膨らんだところを、指先でなぞる。意味のない行動なのに、妙に胸がざわざわして、なかなかやめることができない。潮の香とアスファルトの焼けるにおい、近くにある道の駅でたこ焼きを焼くにおいが混ざり合って流れて来て、私は「夏だなぁ」と思った。夏だ。今はまだ涼しいが、数時間も経たないうちに気温が三十℃を超えてくるだろう。

 ひとしきりベンチを撫でて、ふうとため息をついて立ち上がる。

「あ……」

 いつの間にか、すぐそばに美潮ちゃんが立っていた。薄っすらと笑顔を浮かべているが、胸の前で両手の指を組んだり離したりしている仕草から、かなり気まずいのだということが伝わって来る。

「ごめん、ほったらかしにしてたね。ど、どうしようかな。ジュースとか飲む?」

 我ながら、とんちかんな発言だと思った。美潮ちゃんはあわあわと手のひらをこちらに向けて振り、

「いえ、大丈夫です! 喉は乾いていないので。ただ、今から学校に行くのでご報告を……」

と言いよどむ。

「あ、そっか。別に、勝手に行っても良いのに。おじさんから合い鍵、もらってるんだよね?」

「ええ、まあ。でも……」

 美潮ちゃんの笑顔が、少しだけ翳ったように見えた。

「でも、いきなりいなくなるのは、良くないと思って。辛いでしょ?」

 そうだった。さっき、この子のいない所でおじさんに聞いたことを思い出す。美潮ちゃんの家族は、彼女一人だけを置いて失踪したのだった。彼女の寝ている間に、突然、跡形もなく消えてしまった。どこにも生活していた証を残さず、空っぽの家の中に娘一人を残して。

 私は何と言って良いのか分からなくて、ただ無言で何度もうなずいて、美潮ちゃんを送り出したのだった。

 海沿いの坂道を上ってゆく一人の少女。

 セーラー服のスカーフが翻って、美潮ちゃんの薄い胸をぱたぱたと叩く。風に巻き上げられたスカートはきらきらと日光を反射し、紺色の影が躍る。空をゆくカモメのような、あるいは海をゆく一隻のボートのような、一粒の白い光。その頼りなげな歩き方を、私はずっと見ていた。美しいと思った。私はとっくに成人していて、十代の女の子の気持ちなんて、もう覚えていないし想像するのも難しい。美潮ちゃんのことは、今にも壊れてしまいそうなガラス細工みたいに見える。透明で、繊細で、角が尖っていて。けれど、本当は、彼女は私と対等であるべきヒトなのだ。清濁併せ持つ、一つの人格なのだ。

 そんなことを、思った。


 その日の夜、私はかなり悩んでいた。おじさんが美潮ちゃん用の真新しい布団を用意してくれたのだが、家には一室しかないので、私の隣の他に敷く場所がなかったのだ。

「え、と。どうしようかな。嫌だよね、初対面のヒトと同じ部屋で寝るの。うーん、私が台所で……」

「大丈夫です」

「え?」

「大丈夫です」

 美潮ちゃんはにっこり笑って、同じ言葉を繰り返した。

「そ、そっか。なら良いか」

 エアコンをつけ、布団に横たわる。天井を見上げながら、私は明日、近所のスーパーで何を買うかについて考えていた。私一人なら缶詰だけの食事で良いが、成長期の女の子にそれじゃあダメだろう。おじさんが生活費としてかなりの額のお金をわたしてくれたから、それなりのものは買えるはずだ。

 私は料理が得意ではない。丁寧な作業も、マルチタスクも苦手なのだ。昼間、インターネットのレシピ投稿サイトをざっとながめていた。いきなりおかずの品数を増やすことは諦めて、栄養価の高い一品料理から始めるつもりだった。

 調味料からそろえないと――


 ふっ、と目が覚めた。自分でも、何がきっかけなのか分からなかった。体が軽かったから、十分に睡眠はとれたのだろう。目覚まし時計はまだ鳴っていないはずだ。もう少し寝るか、起きてしまうかしばらく悩み、結局まぶたを開ける。

「わっ」

 誰かが、私を見下ろしていた。数秒経って、それが美潮ちゃん……昨日、私の前に突然現れた少女であることを思い出した。

 彼女が右側に小首をかしげているので、長くさらさらとした髪も右側にすとんと落ちている。露わになっている左耳の白さが、薄暗い部屋の中でも分かった。美潮ちゃんはしばらく切なげな表情だったが、しばらくしてきゅっと口角を上げた。

「寝れないの?」

 寝起きのせいで、私の声はかすれていた。少女は、小さく首を横に振る。

「大丈夫です」

 そう囁くと、布団に寝転がり、私に背を向けてしまった。

 美潮ちゃんの呼吸の音が聞こえる。

 大丈夫、だなんて、そんな言葉。平気だってことじゃないのは分かっている。ただ、私に助けを求めてはいないという意味だ。

 胸に悲しみがあふれ出して、私は、掛布団をぎゅっと抱きしめた。


 まどろみの中、懐かしい音を聞いていた。ざあっ、とも、どうっ、とも表現できるような、大量の冷たい水が空から降って来る音。心地よい甘いにおい。雨の日のかおり。それは濡れた土のものなのか、湿った畳のものなのか、空気に含まれる何らかの成分のものなのか。分からないけれど、幼いころからなれ親しんだ懐かしいもので、かぐたびに遠い昔出会った誰かの体温と、時をめぐる旅へといざなう呼び声が浮かび上がって来る。泣きそうだった。私はずいぶん遠い所まで来た。大人になってしまった。

 目を開ける。薄青に染まった、いつもどおりの狭い部屋の中、美潮ちゃんが窓辺で足を崩して座り込み、空を見上げていた。電灯もつけずに、表情のない冷たい顔で、じいっと灰色の空を見つめている。その大きな目の中で、幾筋もの雨粒の影がよぎっては消えてゆく。

 私は布団の上に横たわったまま、何も言えずに彼女の横顔をながめていた。息を殺していた。邪魔をしたくなかった。今、美潮ちゃんの心の中で、大切な何かが行われている気がしたのだ。

 ふっと、美潮ちゃんがこちらに視線を向けた。とたんに、顔に浮かぶ微笑み。口角を上げながら、

「おはようございます」

と低い声で言う。

「雨だね。学校まで車で送ってくよ」

「大丈夫です」

 この子の「大丈夫」を聞くのは、何回目だろう。私は上半身を起こす。青いタオルケットがずり落ちる。

「良いんだよ、どうせ私は暇なんだから。買い出しや水族館の業務のための、軽トラックがあるの。丁度、スーパーに行く用事もあったんだ」

「そう……ですか……」

 美潮ちゃんの戸惑ったような言葉を、「送っても良い」という返事だと解釈する。

 私は、部屋の電灯をつけた。


 美潮ちゃんが先に洗面を済ませ、代わりに私がバスルームに入る。私は化粧をしないので、支度はすぐに終わった。けれど、入り口のドアに背中を預け、白く曇った鏡をぼんやりとみていた。多分、今、美潮ちゃんは制服に着替えている。その様子を見るわけにはいかないと思った。女同士だから、なんて大丈夫な理由にならない。かと言って、ダメな理由を具体的にあげられるわけでもないのだが。

 鏡には、自分の顔が薄っすらと映っている。髪を全体的に短くしていて、前髪は眉の一センチ上にある。そのせいか、妙に目つきの悪さが目立っている。むすっ、としていて、愛嬌のかけらもない。水族館は無料開放しているので、私がお客さんと接する必要がなく、こんななりでも運営することができている。愛想笑いなんて、私にはできない。……美潮ちゃんは、私の前ではずっと微笑んでいる。彼女の気持ちの全部を分かることなんて、私にはできない。だけれど、きっと辛いだろうなとは思う。

 溜息をついたとき、急にドアが開いた。なんとかバランスを保ち、振り返る。

「あの、夏織さん、大丈夫ですか?」

 セーラー服姿の美潮ちゃんが、顔に困惑をにじませて私を見上げた。

「え、あ、ごめん。髪をセットするのに時間が掛かって」

「……そうなんですか」

 私の嘘に気付いたのだろう。美潮ちゃんは一瞬だけ眉をひそめたけれど、すぐに笑顔に戻った。

「あの、そろそろ出ないと、部活の朝練に間に合わないんですが……」

「ごめん。すぐ着替えるから」

 私は慌てて、壁にかけてあったポロシャツとチノパンを身に付ける。その間、美潮ちゃんはぼんやりと窓の外を見ていた。


 軽トラの助手席に美潮ちゃんをのせて、出発する。ぎっ、ぎっ、ぎっ、とワイパーが規則的に窓を拭いてくれるが、雨が激しすぎて追いついていない。空には重そうな雲が溢れ、漁港の街は濃いグレーに沈んでいるが、陰鬱さは感じなかった。むしろ、どこか綺麗な寂しさを漂わせている。海は、深い緑色だった。

 美潮ちゃんが何かを言った。雨とエンジンの音のせいで、聞き取れなかった。

「ごめん、もう一回言ってくれる?」

「夏織さんって、『ごめん』が口癖なんですね」

「そう言う美潮ちゃんは、よく『大丈夫』って言うね」

「あ……」

 運転中だから前を見ていなければならないのに、つい、美潮ちゃんの表情をうかがってしまった。彼女は悲しそうにうつむいていた。

 ぎっ、ぎっ、ぎっ。カチ、カチ、カチ。水たまりを踏み、バサッと泥水が飛び散る。

 様々な音が私たちを優しく包む。二人の間に言葉はない。

「私が中学校に通っていたのなんて、もう十年も前だからなぁ。あのころのことなんて、全然覚えてないよ」

「サインコサインタンジェントとか……?」

「えっ、あ、まあ。そう言えば、美潮ちゃんって何部に入ってるの?」

「吹奏楽部です。パートはクラリネットです」

「へえ。カッコイイなぁ。私は音楽はからっきしなんだよね」

 また、ぼそりと美潮ちゃんが何かを言った。その言葉は、多分、私に聞かせるためのものではなかったのだろう。

 海の中を進むように、軽トラを走らせる。


 その日は、朝から夕方までずっと雨が降り続けた。午前中はどしゃ降りだったが、昼を過ぎると小雨になった。十七時に水族館の入り口に外から鍵をかけ、ひさしの下に立ったまま遠い水平線に目をやる。密度の高そうな灰色と紺色が入りまじった立体感のある雲が、重なり合いながら空を覆っていて、遠近感を強く感じた。隙間からのぞく空は漂白剤をかけたように白く、水平線のところでぴったりと糊付けされた海は濁っているように見えた。白い切り傷のような波は遠くから絶え間なく打ち寄せて、重そうな雲はゆっくりと西から東へと押し流されてゆく。広い。ちっぽけな私の目で見える範囲ですらこんなに広いのだから、世界はどれほど広大なのだろう。

 雨のおかげで、気温がそれほど上がらなかったのだろう。半袖のポロシャツでは、少し肌寒い。私は家にカーディガンを取りに行くことにした。美潮ちゃんとは、十八時に迎えに行くと約束している。

 玄関のドアを開けたとき、たたきの上で何かが青くきらりと光った。しゃがみこんで顔を近づけてみる。それは、楕円形のブローチだった。種類はよく分からないが、マリンブルーの宝石がはめ込まれている。手に取ると、指先がひやりとした。様々な角度に傾けてみる。現れては消える、銀色や深緑色、赤色の輝き。ふと、宝石の底に絵が描かれていることに気付く。それは、金色の小さな魚だった。うろこの一枚一枚まで、丁寧に描き込まれている。

 高級そうだし、おじさんが落として行ったのだろうか。それとも、美潮ちゃんか。

 私は眼鏡拭き用の柔らかい布でブローチを包み、いつも持ち歩いているポーチの底にそっと入れた。後で、二人に聞いてみよう。

 軽トラを走らせ、中学校へと向かう。雲の切れ間から、太陽が少しだけ顔を出したのだろう。雨粒がキラキラと輝く。濡れた街のあちらこちらで光が反射して、世界は晴れた日の何倍も眩しく美しい。銀色のラメをまぶしたみたいだ。

 角を曲がったとき、口から「あっ」と声が漏れた。

 ゆく先の空に、うっすらと虹がかかっている。アーチ状のそれは、右側の三分の一が欠けていた。巨人が空に、水彩絵の具で描こうとした不完全な円。

 虹の七色を全て数えられたことが、私にはない。今から試してみたい気もするが、運転中だ。今にも消えてしまいそうだから、きっともう間に合わない。

 中学校の隣にあるコンビニの駐車場に軽トラを停める。店でジュースのペットボトルを二本買い、車内に戻る。スマホで音楽をかける。プレイリストがランダム再生されるのだが、最初に流れ出したのは、とあるアニメ映画のメインテーマだった。引っ越しの途中で異世界に迷い込んだ女の子が、囚われた両親を助けるために働く話。ひと夏の出会いと別れを描いたその曲に、私は妙に感傷的になって、頭の上で腕を組んだ。

 夏。眩しくて、暑くて、空が何もかもを呑み込んでしまいそうなほど広くて、密度の高い季節。生が濃くて、だからこそ死も濃い。

 私には、幼い子どもだった時期がない。気が付いたら、十五歳の身体を持つ女として存在していた。

夕暮れ。一人ぼっちで、白い白い砂浜をどこまでもどこまでも歩いていたら、偶然海から上がって来たところだったおじさんと出会った。

「君は……○○か……」

 私の長い髪の一房をそっと手に取り、おじさんが呟いた。そのとき、私の中に言葉が芽生えた。誰に教えられるでもなく、突然。

「おじさん、私に名前を付けてください。そうしたら、私はヒトになれます」

 おじさんの日に焼けた顔に、憐れみのようなものが浮かんだ。黒いマリンスーツで包んだ体を低くかがめ、彼は私と真っ直ぐに目を合わせた。

「かおり、というのはどうやろ」

 私は、自分が真っ白なワンピースを着ていることに気付いた。裾が潮風を受けて、ぱっと広がる。柔らかい髪がさわさわと首の後ろをくすぐる。右手の指を広げて見た。五本あった。私はまぎれもなく、ヒトの形をしていた。

 そうして、私はおじさんの娘になった。


 六時を知らせるチャイムが鳴った。さっきから、生徒たちが次々に校舎を出て私の前を通り過ぎてゆくのだが、美潮ちゃんは一向に現れない。部活の練習が長引いているのだろうか。呑気に待っているうちに、十九時を過ぎていた。あまりにも遅すぎる。おじさんに連絡することにした。彼の電話番号にかけてみると、しばらくして、見知らぬ声が「もしもし」と応えた。慌てて番号を確認したが、それは確かにおじさんのものだった。

「え、と」

「夏織さんですね? 兄の養子の。すみません、こちらもバタバタしていたもので」

「はあ、え、まあ」

 おじさんの弟らしい人は、低く落ち着いた声をしていた。しかし、言葉の響きに不穏さと緊張感がにじんでいる。

「……何かあったんですか」

「兄は倒れました。脳梗塞だそうです。今、集中治療室に入っています」

 弟さんは、私に入院先の病院を教えてくれた。私はすぐにでも飛んでいきたかったが、今は美潮ちゃんをピックアップするのが先だ。軽トラを降り、雨の中、中学校の門をくぐる。

 校舎の灯りは、ほとんどが消されていた。夏真っ盛りなので、十九時と言えどまだ辺りは明るい。夕日が斜めに射し込む人気のない廊下を、足早に進む。玄関ホールに案内図があって、音楽室の場所は既に確かめてある。

 防音室の重いドアのすき間から、楽器の音がわずかに漏れ出している。私は深く息を吸い、吐いた。階段を必死で駆け上ったため、心臓がひどく苦しかった。自分を落ち着かせるためにごくりとつばを呑み込み、ドアを押し開ける。

 少女たちが一斉に、驚いたように私を見た。音楽室に残っていた生徒は、五人だけだった。そろいの白いセーラー服を着た彼女たちの中に、美潮ちゃんはいなかった。

「どなたですか?」

 おかっぱの子が、堅い声で聞いて来る。私は気圧されたが、なんとか声を絞り出す。

「私、美潮さんの同居人でして。雨が降っているから、迎えに来ました」

 別の子が、心配そうに首をかたむけた。

「美潮ちゃん、ずいぶん前に学校を出ています。大切なものを……お母さんからもらったブローチをどこかに落としてしまった、って。探しに行ったみたいです」

 私は、肩から下げていたポーチをぎゅっと胸に引き寄せた。ブローチはここにある。なのに、あの子は一体どこへ……。

「どこに探しに行ったのか、心当たりはありますか?」

「今日は、発表会の練習で○○ホールに行ったんです。だから、多分、そこへ」


 校舎を出る。いつの間にか、雨が強くなっていた。街はすっかり夜闇に沈み、空に浮かんでいる雲の輪郭を区別できないほどになっていた。普段から傘を持たない私は、ずぶ濡れになりながら軽トラに乗り込む。濡れた服が、体に絡み付く。額に張りついた髪を、ぐいとかき上げた。大変な状況なのに、何故か不安や焦燥は感じなかった。自分でも変だと思う。感覚が麻痺してしまって、厚い半透明の袋をかぶったみたいに、何もかもを遠く感じる。生ぬるい空気も、湿った体も、いつものようには不快だと感じられなかった。空っぽの頭で、「これはまずいんじゃないか」と思った。思いながら、アクセルを踏んだ。

 ○○ホールは、この街で一番大きな劇場だ。暗い中、白いアップライトを浴びて、建物は怪しく浮かび上がっていた。不気味だ。ホラー映画に出て来そう。

 有料駐車場に軽トラを停め、雨の中に飛び出す。正面玄関は、扉に鍵がかかっていた。ぞっとして、ホールを見上げる。見える範囲の窓は、どれも暗かった。

 美潮ちゃんは、まだこの辺りにいるのだろうか? ブローチは私が持っているから、見つかるはずがない。今も、必死で、夜の街を探し回っているのかもしれない。

 美潮ちゃんの気持ちを想像すると、心配でたまらなかった。恐怖と、後悔と、焦りと、絶望と。どんなに苦しいだろう。大切なものをなくしてしまうのは、耐えがたい。


 私が、美潮ちゃんをみつけてあげなければ――


「美潮ちゃん! 美潮ちゃん……」

 彼女の名前を呼びながら、走り出す。ホールの敷地内をぐるりと一回りしたあと、ホールから学校へと続く道を辿り始めた。

 雨水が、口から喉へと入り込む。前髪からしたたり落ち、視界をぼやけさせる。冷たい。膝が笑う。崩れ落ちそうになるのを必死で立て直し、前へと進む。暗闇の中で、街灯の丸く白い光がとても冷ややかに見えた。

 体のすぐそばを走り抜けてゆく、車のライトが赤い線を描く。目が回った。吐き気をこらえながら、歩き続ける。

「美潮ちゃん!」

「夏織さん?」

 ブロック塀の陰から、ひょいと美潮ちゃんが現れた。泣いているみたいな震える声で、

「ごめんなさい」

と言って、私に駆け寄って来た。彼女は傘をさしていた。なのに、顔がぐしょ濡れだった。

 私はほっとして、微笑む。そして、ポーチの中から包みを取り出した。

「玄関に落ちてた。美潮ちゃんの大切なものだよね」

「夏織さん! 大丈夫ですか? 大丈夫じゃないですよね?」

 そのとき、すとんと膝が落ちた。私の上半身が、道路のアスファルトの上に叩きつけられる。鈍い痛み。美潮ちゃんはぱっと傘を放り出し、濡れるのもかまわず、跪いて両手で私の頭を抱えた。そして、自分の膝の上にのせてくれる。

「脚が……」

 私は首をなんとか傾け、自分の下半身を見た。そこにはヒトの体などなく、白い砂が小さな山を作っていた。

「ああ……おじさんが……」

「なんで、こんな」

 美潮ちゃんの膝が、小刻みに震える。

「そっか、美潮ちゃんは二世代目だから知らないのか。私たちは、名前をつけてくれた人が死ぬと砂に戻ってしまうんだよ」

「じゃあ、私の家族も」

 私は答えず、そっと目を閉じた。

「最後に、おじさんに会いたかったなあ。本当に、私を可愛がってくれたんだ。あの水族館は、誰かが引き継いでくれるかなぁ。……無理だね。仕方ない」

「ごめんなさい、夏織さん。私のせいで」

「美潮ちゃんは悪くないよ。良かった。あなたにブローチをわたすことができて、本当に良かった。良かったんだよ、あなたに会えて」

 頭を、ぎゅっと抱かれた。体温は、もう分からなかった。

「大丈夫。私は元々、海の底の砂だったんだ。元に戻るだけ。海に帰るだけ。自然って、そういうものだから」

 幼い子どもを宥めるように、私はささやく。美潮ちゃんは、泣き止まない。

「……それなら、私が名前を付けます! そうすれば、助かるんですよね?」

 淀み濁ってゆく意識に、急に、一筋の光が射す。それは、私の身体をつらぬいた。



 海辺の水族館。掃除を終わらせ、入り口の前のベンチで一息をついている私に、紺色のブレザーを着た青い髪の少女が手を振る。

「カオリさん! 行って来ます!」

 私は微笑んで、手を振り返す。

「いってらっしゃい、美潮ちゃん」

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