彼女はあたしのヒモだった

紫陽花 雨希

本編

「正直まだまだ学生気分だけど、ふとした瞬間に自分が医師になったんだなぁって強く自覚するんだよね。誇らしいような、身に余るような、嬉しいような、怖いような、永遠に来ないと思っていた未来がいつの間にか過去になっているような、そんな気持ちになる。正直、自分はずっとニートのままなんだろうって思ってた。私の心を置いてけぼりにしたまま、肉体や肩書きや時間だけがどんどん変化していって、夢の中にいるみたいに現実感がないよ」

 長い間あたしのヒモだった浅黄(あさぎ)はそう言うと、白衣に包まれた背中を猫のように丸めて、とぼとぼと病棟の廊下を歩き去っていった。その後ろ姿は学生だったころと全く変わらなくて、あたしにも彼女は医者になんか見えなかったし、頼りなくて危なっかしくて陰気で、とてもじゃないけれど病院での激務に耐えられそうじゃなかった。

 まあ、それは、あたしも同じなんだけど。

 研修医一年目の四月。つい数週間前まで学生だったあたしにできることなんてほとんどない。一応国試には合格しているから、最低限の知識はある。けれど病棟には分からないことだらけだ。採血すら満足にできないし、患者さんと話すのもおっかなびっくり。それでもちょっとずつ、できることが増えてゆく。

 医師になって一番びっくりしたのは、自分が意外にも人と話すことができるんだと知ったことだった。学生のころのあたしは、無口で大人しい若者だった。いつも俯いていて、実習中に患者さんと話さなければならないときは、他の学生の後ろで縮こまっていた。友達と呼べる人もほとんどいなかったし、誰からもそこに転がっている石ころみたいな扱いを受けていた。

 それが、自分が医師として働かなければならないと自覚したとたん、急に話ができるようになった。自分一人でも患者さんの前に立てるようになったし、同僚にちゃんと挨拶をできるようになった。

 腹をくくった、のかもしれない。この先はもう、誰かの後ろに隠れていることは許されないのだ。


 ふっと目が覚めて枕元のスマホを開き、まだ朝の五時半であることを知る。予定の起床時刻は六時だった。二度寝をしたらもう起きられなさそうだったから、しぶしぶ布団から這い出た。扇風機をつけっぱなしにしてしまって体が冷えたのか、筋肉痛のようなものを感じる。よたよたと台所に立ち、弁当箱に米とサラダチキンと冷凍野菜を詰める。浅黄は多分、出勤前にコンビニで菓子パンを買うのだろう。あの子はそういうジャンクな食べ物しか受け付けない。

 フライパンでウインナーを焼き、食パンを二枚トースターにぶち込んで、冷蔵庫から浅黄のための冷えたコーヒーのペットボトルを出す。

「浅黄、そろそろ起きろー!」

 二階に向かって声をかけるが、返事はない。ため息をついて、階段を上る。

「浅黄、いい加減にしろ!」

 そう低い声でどなりながら、彼女の部屋のドアを開ける。


 空っぽだった。


 そのときようやく、あたしは浅黄がこの部屋を出て行ったことを思い出す。

「あなたのヒモ、卒業する。社宅に住むことにしたんだ。今までホントに迷惑ばっかりかけて、ごめんね」

 数日前に浅黄の兄さんが軽トラでやって来て、この部屋にあった全てのものを積んで行ってしまったのだ。

「そうか、そうだった、うん、そう、浅黄はもういないんだ」

 ついこの前まで受け止めてくれる人がいた呟きは、ただの独り言として空気に溶けた。


 浅黄は、医療モノの本やドラマが大嫌いだった。ちょっと目に入っただけで、気分が悪くなるらしい。フィクションでも、ノンフィクションでも、ダメだった。

 あたしは元々は医療モノに対してそれほど嫌悪感がなかったけれど、浅黄と暮らしているうちに、なんとなく避けるようになった。全巻揃えていた「ブラックジャックによろしく」という研修医を主人公とした漫画は、押し入れの一番奥に封印した。

 浅黄がいなくなってから数週間経った日の夜、あたしは漫画の封印を解いた。ぺらぺらとページをめくりながら、浅黄の言葉を思い出す。

「罪悪感なのかもしれない。医療モノを読んでると、今自分がここに生きていることで一体どれだけの人を傷つけたんだろうって考えがぐるぐるして、もう立っていられなくなる。重すぎるよ、生きるってことは」

 あたしにはその言葉の意味は分からない。

「重いんだ、重すぎるんだ、受け止めきれない、この瞬間にも私は罪を犯してる、分かってるのに性(さが)は変えられない。どうしようもない」

 それは、大学からの帰り道の途中だった。浅黄は水田を突っ切る道の端にしゃがみこんで、自分の腕で自分を抱きしめながら、震えていた。真っ黒な水田の表面を、車のヘッドライトが白く舐めとってゆく。湿った土のにおいがしていた。ゆらゆらと街灯が小刻みに揺れていて、虫の声がどこからともなく響いていた。曇っているのか、空には星がなかった。あたしは薄ぼんやりとした月をちらりと見上げる。何をするべきなのかは分からなかったけれど、自分が何をしたいかは分かった。浅黄の背中を後ろから抱きしめる。そして、ゆっくりと引き起こした。頬を頬をぴったりとくっつけ合う。浅黄の、荒い息を感じる。

 浅黄は服の袖でぐいと目を拭うと、

「もう大丈夫」

とあたしの腕をほどいた。

「私の方が、一つ先輩なのにね。後輩に慰められるなんて、かっこ悪いや」

 その年、浅黄は国試に落ちた。そして、あたしのヒモになった。

 いつの間にか、あたしは彼女を「先輩」じゃなく「浅黄」と呼ぶようになっていた。


 その日、あたしは夜の八時までパソコン室でカルテに記入していた。疲労感を覚えながら、とぼとぼと研修医用のロッカールームに入る。

「あ」

「え」

 二人の声が重なった。もう数週間以上会っていなかった元同居人が、下着姿で立っていた。白いタンクトップとパンツ。何の飾り気もない。職場の制服から着替える途中だったのだろう。

 あたしは彼女の透き通った肌を目でなぞる。蚊に刺されたらしい、ピンク色のふくらみがある。自然と、そこに手が伸びた。

「何やってんの」

 胸骨角の上に触れられて、浅黄はきょとんとする。

「虫刺され」

「は?」

「一緒に暮らしてるときは、どこに触ってもそんな顔しなかった」

 彼女の眉間にしわが寄る。

「何が言いたいの?」

「あたしは浅黄の犯してる【罪】が何なのか分からない」

「そりゃあね、一生言うつもりないから」

「浅黄、浅黄、先輩、せんぱい」

 うん、と彼女が首をかしげる。

「先輩――」

 帰って来て、なんて言えない。

 あたしは昔の、何も言葉にできない無口な石ころに戻ってしまっている。

 くしゃり、と浅黄の顔に笑顔が浮かぶ。困ったように笑いながら、彼女はあたしの手を取る。指先までそっと包み込む。

「頑張ろ、ね」

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