自分の価値
両親は朝まで引き続き職務に当たるとの事だったが、武公と椿は家に帰された。
祖母は2人に温かい夕食を用意して迎え、彼女もまたお役目であった頃の事を話してくれて、番だった祖父の事も口にする。
武公は穏やかで理性的だった祖父を慕ってはいたが、彼が戦いには向かない事も充分に理解していた。
優し過ぎる人だったからだ。
祖父の死因が番の役割によるもので無かったことが救いだと祖母に伝えたら、彼女の知る限りここ数十年は役目によって亡くなった者は居ないと言われ、武公は少しだけほっとした。
夕食後、風呂を出た武公はぼんやりと自室から空を見上げる。
境内の時のように自らの感覚が広範囲に広がることはもう無かった。
きっとあれは椿が作った神域の中だからこそなのだろう。
しかしよくよく目を凝らせば、夜空にも眼下の道路にも何某かの影のように荒魂の僅かな存在を感じる。
これがきっと目が開いたという事なのだ。
自分の視界が変わったということは、恐らく椿も同様に見えているはず。
彼女は大丈夫なのだろうかと思っていると、部屋の襖がノックされた。
「武公……お部屋に入っても良い?」
彼女がこの家に来てから武公の部屋に訪ねて来たのは初めてだ。
今日は色々有り過ぎたからかも知れない。
襖を開けてやると、椿はパジャマ姿だった。
「どうした?」
「まだ寝ないなら、少しだけ一緒に居ちゃダメ?」
幼い子どもが甘える時のように訊ねられると、無下にはしづらい。
ましてや彼女のこれまでを知ってしまえば尚更だ。
武公は彼女を室内に入れてやり、部屋の隅に放ってあった座布団を近寄せて勧める。
近くを通る彼女から湯上がりの柔らかな香りが立ち昇って、居た堪れない気分が尻の座りを悪くした。
「その……眠れないのか?」
時刻はもうしばらくで日付が変わろうとする頃で、本来の彼であればもう眠っている。
寝付けないのは過度の情報が処理しきれないからというか……つまりは頭のスイッチが切れずに居るからなのだ。
「うん……何だか落ち着かなくて、ちょっと怖くて……」
化物に襲われた直後だ、怖いのも当たり前だろうと武公は考えた。
「何ならお祖母さんに一緒に寝てもらうか? きっとまだ起きてる筈だからな」
座ったままの椿はそっと首を横に振る。
「武公と一緒がいい……今夜は2人で寝たいの」
年頃の男女が同室で寝るという事の意味を彼女がどのように考えているのか……子どものように澄みきったその瞳からは読み取れない。
けれど武公は、彼女がいい加減に扱って良いような相手ではない事を知ってしまった。
どれだけ無防備であろうとも、どれほどこちらを信用してくれていたとしても、それはきっと過酷な境遇
「男相手にそんな事を無闇に口にするもんじゃない」
そう言って武公が目を逸らすと、椿は小さく呟いた。
「……武公が悲しい顔をするのは、私が番じゃダメだから?」
依存性の高い彼女にとって武公に拒絶される事は何よりも恐ろしい。
今にも泣き出しそうに声が震えている。
「違う! 俺は椿に幸せになって欲しいだけ……」
言いながら振り返ると、椿は立ち上がりパジャマの裾を捲り上げて肋の浮いた白い腹を見せていた。
ズボンのウエストから水色のショーツのレースがちらりと覗いていて、武公は大慌てで目を覆う。
「武公、見て……」
「うわぁぁ!!……いやいやいやいや! 年頃の娘がそんな……」
「武公にも有るんでしょう?」
指の隙間から覗くと、彼女は腰骨の辺りが見えるように少しだけ下着をずらしている。
白い肌に2本の刀が交わった形の痣がくっきりと見えた。
「あ……」
武公は目を覆う手を離して、それをもう一度よく見る。
まるで刺青のようなはっきりしたそれは、自分の腰にあるものと位置も形も寸分違わない。
「確かにそっくりだ……」
「私にも見せて」
元通り衣類を正すと、椿は武公を見ている。
縋るような必死な様子が痛々しくて、武公は渋々立ち上がり上着を脱いで、下着を少しずらした。
右腰骨の上に彼女と全く同じ印が見える。
「触っても良い?」
「あ? うわ……っ!?」
答えを待つより先に細い指先がそこに触れる。
ひやりとした感触が妙に鋭敏に彼を刺激した。
「私達は2人で一つ。これがあったから、同じだからここに来たの。武公は……私じゃいや?」
「違う。そうじゃなくて……俺のせいで君に怪我をさせたくないというか……」
務めを果たさねば沢山の人が被害を被る。
自分一人の事であれば武公は跡目を取ることを躊躇したりはしない。
体力には自信があるし、将来的にやりたいことが見えているわけでもない。
彼が不安に思っているのは椿の事だ。
この幸薄い少女が選択の余地もなく痛みや傷を引き受けさせられること、一生を共に過ごす相手を勝手に決められてしまうこと。
彼女はいずれそれを後悔するような事になったりはしないだろうか。
「武公が必要としてくれなきゃ、私には価値がないの。居場所がないの!」
椿は必死だった。
ひと月前にやっと辿り着いた自分の居場所で、待っていたはずの運命の人は同居は良くないと言った。
けれど今日一緒に過ごす中で、彼は名前を呼んで彼女の身を気遣ってくれた。
自分の運命の人はぶっきらぼうではあるけれど優しい、彼女はそう確信してとても幸せだったのだ。
なのに初めての番の役目が出来たと同時に、彼は悲しそうな視線を向けるようになってしまった。
彼の傷も、叩きつけられた身体の痛みもちゃんと引き受けたのに。
役に立ったはずなのに……
ダメージを受けてすぐに立ち上がれなかったのがいけなかったのかもしれない、それとも真の意味で番でない事がいけなかったのだろうかと。
番は
それはただ一緒に眠るという意味でなく、男女の仲になるという事だ。
運命の人なのだから、遅かれ早かれそうなるのは当たり前だと思う。
ならばすぐにそうすべきだと意を決してこの部屋に来たのだ。
縋り付くように彼の割れた腹筋にしがみついた。
冷たい香りは制汗剤だろうかと余計な事に心を移して気持ちを紛らわす。
正直なところ手順などわかりはしないがなるようにしかならないと思い、彼の身体に掌を這わせ、するりと下半身に手を延ばした。
最終的にどうするかは知っている。
ならば彼自身にその気になってもらう必要があると思ったのだ。
「ちょ……待て! 待ってくれ!!」
「お願い、私を番で居させて。このまま私と一緒になって!」
力のない白い腕が絡みついて、武公は焦る。
腕尽くで引き離すことは容易いが、痛みを与えるのは本意ではない。
そしてそれ以上に燻る肉の欲求が躊躇わせた。
「お願い……」
見上げてくる濡れた瞳、ぽってりと淡く色づく唇、乾ききらない肩までの髪から薫るシャンプーの香り、折れそうな頼りない身体にそぐわない柔らかな膨らみ……青少年を惑わすには充分すぎる据え膳だ。
武公は彼女をぎゅっと抱き締める。
初めての感触に心臓が口から飛び出しそうなほど激しく鼓動して、全身をざわざわと血液が流れるのを感じた。
「椿……」
このか細い手に身を任せてしまったらどうなるだろう、細い身体を暴けばどれ程の快楽が待っているだろう……欲望と好奇心が身体を滾らせる。
他ならぬ彼女自身がそうしてくれと望んでいるのだから。
しかし彼はそのままぐっと堪えた。
「いいか、椿。このまま……動かずに聞いてくれ」
息が上がり、上手く空気が吸えない。
全力疾走でもしたかのように心臓が跳ねて痛む。
武公が掠れた声で囁くと、腕の中の彼女がぴくりと身を固くする。
その身体が小刻みに震えているのを感じた。
きっと椿は本当のところ覚悟なんか出来ていないのだろう。
それでも身を擲ってでもここに、この家に居たいと彼女は言っている。
この先どんな傷を負っても番の役目を果たすことで必要とされたいと願っている。
「君の気持ちはわかった。俺も……役目を果たさねばならないことも理解した」
ふーっと大きく息をつぐが、荒い呼吸が収まらない。
しかし今彼女の身体を放せば、それこそ服でも脱ぎ始めそうで……そんな事をされたら誘惑に負けてしまいそうで。
だから彼は椿を抱き締めたままで話すことにした。
こうしていれば彼女に苦痛を与えることなく拘束出来る。
「なら……」
「2人で役目は継ぐ。でも、軽々しく身体を差し出したりはしないで欲しい」
そうされれば武公も男だ、我慢できる場合だけではないだろう。
カタイ頭だと馬鹿にされる彼でも、一つ屋根の下だというだけで邪念が頭を過るのだ。
年頃の性というのは抗い難いものを秘めている。
「その……俺は色恋はからっきしだが……そういう事はきっと好きあってするもんだ。役目とか、必要とされるためにとか、そういう……なんだ……無理にするものじゃないと……俺は思う……」
言葉は拙いが、つまりは悲壮な覚悟で臨むような事ではないと彼は思うのだ。
双方が求めてしたり、愉しむためにするならばわかる。
しかし強要されたり、強迫観念によって行うというのは間違っているだろうと。
すると椿は腕の中で小さく嗚咽を漏らし始めた。
「でも……だって……武公が悲しい顔で私を見るから……きっと……ちゃんと番になってないから……だと……私じゃダメなんだって……」
声を詰まらせながら忍び泣く椿が憐れで、無意識のままに抱き締める腕に力が入る。
「それは椿に傷ついて欲しくなかったからだ……でも……そうだな。わかった。俺はもうお役目中に怪我はしない。絶対にだ。そうすれば君が痛い思いをすることはないだろう?」
自分の力不足で椿が痛みを負うのなら、絶対に傷付かない程の力量を身につけるしかない。
それがどれ程難しい事であっても……彼は心に誓う。
腕に抱いた細く頼りないこの少女に、もう傷は付けさせない。
ここまで沢山の傷を身体だけでなく心にも負ってきただろう椿に、もう涙は流させたくない。
「よく頑張ってここまで来てくれた。椿はそれだけで充分凄い。君の居場所はここに在る。だからもう自分に価値がないなんて言うな。君の価値は誰かが決めるもんじゃない、君自身が見つけるんだ。運命なんて曖昧なものに君の価値を決めさせるな」
椿が育った環境では、自分の価値を番であることだけだと思うのも無理はない。
仮に彼女がそうでなかったなら、実の親からどのように扱われていたかもわからないのだ。
金ヅルだから育てたと言っても、食事を与え最低限の世話をする以外は家を空けていたという両親。
生かしておく必要がなければ、あるいは育児放棄の末に殺されていたかもしれない。
普通の生活が送れるようになるまで心を折らずに生き抜いた強さこそ、きっと彼女の真の価値だと武公は思う。
「わた……私……が?」
自分の価値は番である事だけだと信じ切っていた椿にとって、彼の言葉はとても眩しい。
誰からも抱き締められた記憶のない彼女を包む、自分とは全く異なる鍛え抜かれた腕を胸を、とても愛おしく感じた。
「そうだ。皆同じだ、俺にも自分の価値などわからんし、誰かに決めつけられたくもない。とにかく生きてる。そこにきっと意味はある。それだけで良いんだ」
「生きてる……だけで……」
誰もそんな事を言ってくれた人は誰も居なかった。
金ヅルと呼ばれ、番の子と呼ばれて育ってきて、それだけしか生きる意味はないと思っていたのに。
自分を待っていてくれた運命の人は、生きてるだけで良いと言ってくれた。
椿はとうとう堪えきれずに声を上げて泣き始める。
これはきっと産声だ。
番ではなく田村椿として初めて認められた彼女と、彼女の心に宿った恋心の産声。
わあわあと泣く椿を武公は抱き締めたまま、その頭を撫でる。
胸にある気持ちが同情なのか憐情なのか、他の何かはまだわからなくても、この幸薄かった少女が幸せになって欲しいという気持ちは真実だ。
「そう、生きてる。それだけで良いんだ」
この夜、彼らは自らに課された役目を受け入れる事となった。
その役割については朧にしかまだ見えていない。
しかし2人の間に何かしらの絆が生まれたのは確かだった。
天命の剣 如月六花 @kisaragirikka
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