剣家の役目と運命の番


拝殿の中につくと、勝手知ったる様子で橘は座布団と茶を勧めてくれた。

影見老人と両親は境内に残り、荒魂の様子を夜通し警戒するのだという。

「まずは開眼おめでとう。そして初めてのお勤め、ご苦労さまでした」

武公はそれを黙って聞いて、椿は深々と頭を下げた。

「武公くんは何も知らされていないということで、最初に剣家のお役目の話からさせてもらいましょう。長くなりますから、足を崩して。椿さんは粗方あらかたは聞いているはずなので、辛かったら続きの間で横になっていても構いません。初めての事で疲れたでしょう」

「いえ……武公と一緒に居たいです」

彼女は武公を見る。

怖い思いをしたからだけではないようで、おどおどと彼の様子を窺っている。

頬の傷に貼られた絆創膏が痛々しくて、武公は彼女に目を向けず橘を凝視した。

「では、辛くなったら中座して下さいね」

橘は言いながら一冊のファイルをビジネスバッグから取り出して、武公の前に開いた。

「これは天児あまがつ神社と皇天児之命スメアマガツノミコトの縁起の写しです。草書体で古語だから読めないと思うので、簡単に説明しますね。武公くんは歴史は得意かな?」

彼は首を横に振る。

得意教科は体育くらい、芸術にも学習にも才は持ち合わせていない。

「でも少し前まで受験生だったよね。江戸時代の三大飢饉は覚えてる? 椿さんでも良いよ、答えられるかな」

「天保、天明……」

「享保?」

どうにか捻り出したが武公には順番も3つ目も思いつかない。

そこに椿がぽつりと呟いた。

「はい正解。順番は享保、天明、天保だけどね。でもこの中で天災は最初の一つだけなんだよ。1732年、前年から続く悪天候とイナゴやウンカの虫害によってその年の米の生産量は例年の3分の1以下まで減少し、1万2000人以上の人が亡くなりました。これが享保の大飢饉。米が3分の1以下しか採れないということは、単純に言えば3分の1以下の人の食しか満たせないってこと。まあ勿論ある程度の備蓄は持っていたわけだから単純に計算通りとはいかないけど。鎖国中の日本には食料を海外からの輸入に頼ることも出来ません」

現代であれば米の不作の折でも輸入米や他の穀物などの代用品を確保し、飢えて亡くなる人が続出する程の事はまずない。

しかし当時、穀物が主食で副菜さえあまりない時代に於いては間違いなく死活問題だ。

中には亡くなった人の亡骸さえ食べたという記述ですらあるというから、その凄まじさは筆舌に尽くしがたい。

橘は目の前の若い2人を見る。

彼自身もそうだが、若い彼らにはより一層想像もつかない状態だろう。

「それをなんとかしようと立ち上がったのが現在の宮内庁の前身であった中務省なかつかさのしょう管轄の陰陽寮おんみょうのつかさ。占い、天文、暦を担当する機関なんだけど、名前で想像のつく通り呪術的な陰陽師も所属してたわけだ」

「陰陽師って、あの……」

武公の頭の中には有名なフィギュアスケーターが着ていた例の衣装がちらつく。

脳筋故にすぐに思い浮かぶのはアスリートの方だ。

「有名な映画のアレは平安時代ね。その後武家社会が構築されるにつれてああいう呪術的なものは下火になってたんだけど、お公家くげさんの間ではまだ残っていたんだよ。しかも当時メインの業務だった暦の編纂で、幕府の方が擁立していた天文方てんもんがたに公式の暦の管理権を取られて、陰陽寮は存続の危機だった。そんなもんだからなんとか手柄を立てようと躍起になって、思い余ったんだ。ここまでわかる?」

「つまり陰陽寮っていうのが天文方っていうのとライバルで、負け気味だったから飢饉でひどい状態なのをなんかの魔術で救って名前を上げようとした?」

ごく簡単に纏めると武公の頭の中ではその位になる。

細かい尾鰭は覚えきれない。

「そうそう、そんな感じね。で、陰陽寮は天文方では出来ない方法でそれを解決しようとしたわけだよ。それが呪術として陰陽道を使う事だ」

「じゃあ、さっきの荒魂とかいうのは……」

「ちょっと焦り過ぎ。長い話になるって言ったでしょう。あれは結果として引き起こされた……みたいなもんなんだよね」

ここまで話して、橘はずずっと茶を啜る。

「彼らは『門』を開けただけだ」

そういえば椿が門から力がとかなんとか言っていたことをちらりと思い出すが、武公にはよくわからなかった。

「つまり、異世界の門を開けてしまったんです」

「い……異世界!?」

突拍子もない単語に武公は奇声を上げる。

頭の中には近頃流行りだという異世界転生とかいうやつが朧に浮かぶ。

「……こう、ゲームの世界みたいなやつですか?」

「だったらまだ良かったのかもなんだけどねぇ。彼らが望んだのは豊かな楽園だった。でも実際に開いたのはの門だよ。パンドラの箱って方がイメージ近いかも知れないけど」

どうにもイメージがつかない。

パンドラの箱という単語も、武公にとってはなんとなく聞き覚えがある程度だ。

「門が開いた途端に吹き出したのはこちらの世界では実体を持たない化物達、禍ツ神まがつかみ。あの荒魂より凶悪な物たち。大小さまざまなそれらが引き起こしたのが三大飢饉の残り2回だよ」

「そんな危険な……ん? 今その門は……あ? 実体を持たない? でもさっきの荒魂は傷を付けたり吹っ飛ばしたり……」

武公が混乱してくると、椿は彼に茶を差し出した。

「あの……落ち着いて……」

どこか怯えたようにおどおどとする様子に、武公の方が心配になる。

「あ……ああ、大丈夫だ。ありがとう」

とりあえず口にした感謝の言葉に、椿は安心したように笑う。

その笑顔があまりにも嬉しそうで、彼はふと気付いた。

彼女が先程から不安そうな様子を見せていたのは、自分が怒っていると思われたからかも知れない。

実際、彼は憤っていた。

しかしそれは彼女にではなく、彼女に番という役割を押し付けた何者かに対してであり、その役割を疑問に思えないような環境に彼女を置いた誰かにであり、不甲斐なくも彼女が傷を負うような事態を招いた自分自身に対してだ。

むしろ椿に対しては剣家の事情に巻き込んだらしい事を申し訳なく思う気持ちと、まだよくはわかっていないが彼女を取り巻く環境に対しての同情がある。

少しでも彼女が幸せであるようにしてやりたい。

そういう気持ちがあるというのに、武公の頭では上手く伝える言葉が出てこなくて、もどかしい。

「椿、その……辛くはないか? 頬の傷が痛むんじゃないか?」

精一杯考えて言えたのはそのくらいだが、椿は更に顔を明るくしてこくこくと頷いた。

「大丈夫。元気!」

「そうか……なら良いんだ」

気遣うような武公と、彼の本意を探るように……しかしそれに一喜一憂する椿の様子を見て橘は思案顔を浮かべる。

「……話を続けようか。吹き出した禍ツ神を怖れた陰陽寮は大急ぎで門を閉じた。しかし思っていたよりも向こうからの圧が強くてともすれば開いてしまう。そこでを用意した」

「神様を用意って……」

「ああ、そうか……そこも説明しないといけないね。基本的に門の向こうから来たものは全て神様なんだよ。彼らが開けた……いや、開けようとしたのは楽園、神様の住む豊かな世界だから。禍ツ神って言葉にも神が入ってるでしょ。禍事、つまり災いを呼ぶけれど神では在る。門の向こうは神様の世界、そこから来るのは全てが神だ」

呆れた話だが、災いを呼ぶものが吹き出したというのにそれでも開けたのは神様の世界の門なのだと主張したいということらしい。

武公は嫌悪感に眉を顰めた。

「パンドラの箱の話では災いが吹き出した後、最後に希望が残っていた。この門も同じなんだ。どうにか閉じた最後に、小さな神様が一はしらだけ門の傍に残っていたのさ」

「どうして?」

他の禍ツ神達がこちらの世界で猛威を振るう中、何故に一人きり残る必要があったというのか。

橘は苦笑いを浮かべて答える。

「その神様が言うには向こうの世界は弱肉強食だったそうで、その小さな神様はすぐに食われてしまうような弱い存在だったらしい。だからこそ神様はこちらの世界でかんぬきとしての役割を担うことを快諾したんだ」

「かんぬきって、扉なんかを開かなくするための棒ですよね」

「そうそう。左右の扉に跨るようにして開かなくするつっかえ棒みたいなやつね。そうなったとしても帰りたくなかったらしいんだよ」

そんな弱いものをつっかえ棒としても効果はあるのか疑問だ……武公の気持ちが顔に表れていたのか、橘は頬をカリカリと掻いた。

「神様っていうのは、こちらの世界で形と名前を持つと存在がしっかりと固定するらしいんだよ。だから陰陽師達は形を与えた。天児あまがつって何の事か知ってるかな? 幼児の守り人形の事なんだよ。そこで人形ひとがたを形として与えた。それも魂を持つとまで言われるような天才人形師が作った人形にんぎょうを。そして次は名前だ。守り人形の王としての名前。それが皇天児之命スメアマガツノミコト、つまりこの神社の御神体だよ」

武公がパチもの臭いと思っていた名前にはどうやら意味が有ったらしい。

人形の王……随分大層な名前だ。

「まあ他にも色々仕掛けはあるんだけど、ややこしいからそこら辺は省くとしてね。そうして力のある名前と形を得たことで閂としての神は強くなった。だから、門をこちら側からしっかりと閉じることが出来たんだよ。でも作った門は無くならない。それ自体を固めて無くすことは出来なかったんだから」

「それはどういう……」

「つまりね、陰陽師達は壁に門を作って、それを閉じることは出来たけど、完全に元通り埋めることは出来なかったんだ。無かったことには出来なかった。だから補強として弱い神様を強くして閂としてそこを守らせたんだね」

イメージとしては世界を隔てる壁に扉を付けて行き来出来るようにしたら、向こうがヤバい場所だった。

でも閉めるのが精一杯で、扉自体を無くすことが出来なかったから鍵をかけて開かなくしたということらしい。

武公は徐々に難しくなってきた話に眉を顰める。

「でも、出てきたのは実体がないって……ならば実害もないのでは?」

「そう、実体はない。けれど災いは起こる。つまり禍ツ神は魂に傷を付けるんだよ。魂に傷の付いた器物は脆くなり間もなく壊れるし、生き物ならば気がおかしくなったり身体に不調が出たり、植物ならば枯れてしまう」

「でもさっきの荒魂には吹っ飛ばされたり、怪我をしたりしました」

実際に武公は頬を傷付けられ、その傷は椿が肩代わりした。

恐らくは吹っ飛ばされて叩きつけられた全身の痛みも……武公は椿に視線をやる。

こんなに細く頼りない身体に痛みを移すなどしたら、すぐに壊れてしまいそうだと思う。

酷く恐ろしい事だ。

「君は何故あの意思の刃が出せたと思う? 漫画じゃないんだから、通常ではあり得ないでしょう。あれは皇天児之命スメアマガツノミコトの神域内だから出来ることなんだよ。椿さん、あの祝詞の意味は言えるかい?」

椿はこくりと頷いて再度祝詞を諳んじた。

「掛けまくもかしこ皇天児之命スメアマガツノミコト、諸々の禍事まがごとけがれ有らむをばはらたまえ清め給えともうすことを聞こし召せとかしこかしこみももうす……口に出してご尊名を申し上げるのも恐れ多い皇天児之命スメアマガツノミコト、様々な災難・穢れがございましたら、祓いお清めくださいと申しますことをお聞き届けくださいませと畏れ多くも申し上げます」

橘は満足気に手を叩く。

椿は誇らしげに頬を染めた。

「良く出来ました! しっかり勉強してるね。つまり助けてほしいと願う祝詞とお役目、そしてその番が揃うことでウチの神様が力を振るえる領域を解放する。そしてその領域内では魂の力が具現化するんだよ。だから君の意思の刃は本来実体の無いはずの禍ツ神や荒魂を滅する事ができる。その代わりにあちらの攻撃も実体化してしまうんだけどね」

「禍ツ神ってのは門を超えてきた神様でしたよね。なら荒魂とは?」

わからないことまみれで武公は徐々に混乱してきている。

脳筋の限界値は超えているのに、まだまだ納得の行かないことが多すぎた。

「神様の世界ってやつはここの世界よりも力……霊力とか瘴気とか呼ばれるようなものに満ちてるらしいんだよ。そして門が作られたことでそこからその力が少しずつだけど漏れてしまっている。そうすると霊的なものがそこに引き寄せられて集まるんだ。その一つが荒魂。あれはそうだな……言うなれば人の悪意とか欲望とかが凝り固まった物かな。誰かの魂自体というよりは意思の共同体って言う方が近そうだね。更にこちらの世界に来た禍ツ神の中には長い歳月で力が弱まって、それを補充しようと門を壊そうとするやつもいる。まあ禍ツ神の大半はこれまでに討伐されていて、ここ何十年かは出てきてないんだ。とにかく門と閂さまを守るのが剣、身玉、影見の3つの家のお役目。この3つの家は門を開けた陰陽師の子孫の血脈だよ。そしてそれぞれの後継者には、生まれた時から決まった番が存在する」

その三家の名前に武公は覚えがある。

影見はこの神社の神職の家であり剣は自分の家だが、身玉という家も知っていた。

どういう筋合いかは知らないが、親戚の家であると知らされていたからだ。

「なら奈月なつきちゃんも?」

「ああ、奈月さんとは面識があるんだね。彼女が身玉の次期後継者だけど、ゆうくんとは会ってるかな?」

「いえ。その人が奈月ちゃんの番ですか」

彼の中にあるのは人並み外れて美しく、人並み外れて気ままで、人並み外れて暴力的だった少女の姿。

彼女の番とは……きっと苦労しているに違いないと、武公はまだ見ぬ優という人物に激しく同情した。

「そう。とても仲睦まじくてね」

「は……っ!?」

とてもではないが、会うたびに躊躇なしに殴る蹴るの暴挙に及んでいた彼女が仲睦まじくする男子というものに想像がつかない。

「……もしかして女性、ですか?」

「優くんの事なら男性だけど……君より一つ年上の2年生だよ。なんで女の子だと思ったの?」

「いや……奈月ちゃん、男には容赦ないので……」

橘はげらげらと笑って、眦の涙を拭う。

どうやら彼にも思うところがあるらしいと武公は直感した。

椿はわけもわからずきょろきょろと二人の顔を眺めている。

「彼は別。何しろ“様”付けて呼んでるくらいだから」

「様ぁ!?」

もはや開いた口が塞がらない。本当に自分の知る身玉奈月と同一人物なのか疑わしい程だ。

「そちらは改めて後日引き合わせるとしてだ。ここまで大体理解できたかな?」

「江戸時代に飢饉が起きて、何とかしようと異世界への門を作ったらその先は地獄みたいな所で、こっちの世界に禍ツ神ってやつが溢れて、その後2度の飢饉の原因となった。閂になる神様を用意して門を閉じたけど、そこから漏れる力のせいで荒魂っていうのが寄ってくるようになったから3つの家でそれを追い払っている。その役割を果たすために番が必要……ですか?」

全てを端折って言うのならこのくらいだ。

それ以上詳しくは武公の頭では追いつかない。

「そうそう、そんな感じ。他に聞きたいことは……あぁ、番についてかな」

正確には武公が知りたかったのは椿についてなのだが、彼女の前でどのくらい話して良いことなのか判別がつかず、適当に頭を縦に振る。

「番はね、全国の産科に手配をかけてるんだ。を手に握って産まれた、痣のある赤ちゃんが産まれたら宮内庁に連絡が来るように」

橘が言い終わるか否かのタイミングで椿は武公に白い手をすっと差し出して、掌に乗せた小さな玉を見せる。

直径15ミリ程の石英の結晶のような薄ぼんやりとく白い球だ。

柔らかな輝きのあるそれを、彼女は大切そうに見詰めていた。

「私が産まれた時、掌に握っていたって。これが私をここに連れてきてくれたの。さっきも荒魂から守ってくれた」

「守るって……あの光」

椿が荒魂に襲われそうになった時、うずくまる彼女の胸元から発した光。

それに怯えて荒魂は後退った。

どうやらこの玉は彼女を守るようになっているらしい。

番自身の危険はこれが防いでくれるが、お役目の傷は番が受けることになるようだ。

「痣については武公くんにも同じ位置に同じ形の物が有るよね。この痣の形でどこの家の番の子なのかわかるんだよ」

武公の右腰骨の上辺りには家紋に似た2本の刀が交わった形の痣がある。

ということは椿にも同じ位置に同じ形の痣があるらしい。

「産まれた時から……その……」

聞きたいことは有るが……武公はちらりと椿に視線をやる。

訊ねても彼女は傷付いたりしないだろうかと言い淀むと、橘は足を崩して大袈裟に騒いだ。

「いてててて……椿さん、ごめん。足が痺れて立てないんだ。お茶を淹れ直してくれないかな。ついでに茶菓子が茶箪笥のどこかにあるらしいから、探してもらっても良いかな?」

彼女は少しだけ悩んだように武公を見て、空の湯呑みに目をやってから立ち上がった。

「お台所、行ってきます」

茶碗を盆に載せて、名残り惜しそうに武公を振り返りながら椿が去ると橘はようやく話し始める。

「これで話しやすくなったかな。君が気にしてるのは彼女のこれまで……だよね?」

「はい」

「彼女の異質さにはもう気付いてるって考えても良いかい?」

その問いに武公は深く頷く。

今日一日一緒にいてわかった。

椿は異質だ。

同年代の他の少女達とは違いすぎる。

番としての役割を知り、ひと月前まで会ったこともない武公の許嫁として知らない家に放り込まれ、それなのにすっかり彼を信頼しきっているような態度である。

まともに会話したのは今日が初めてと言ってもいいような状態にも関わらず、一切の不安や不満を見せなかった。

先程から彼の傍を離れなかった事も、強い依存傾向を感じさせた。

「彼女の母親は18歳で椿さんを産んだ。学生同士で付き合っていて、授かり婚ってやつだね。でも父親は妊娠中に浮気をして、2人の気持ちは離れていた。若すぎたんだろうね、まだ遊びたい盛りだ。そこに産まれたのが彼女だった」

「椿は言ったんです。自分は金ヅルだって……もしかしてそれは……」

「……番の子が出た家には支度金が出るんだ。赤ちゃんのうちから未来を決められ、お国のために身を挺する子とその親の為に、せめてもの誠意としてかなりの額が支給される。けれど、彼女の両親はそれを更に吊り上げようとしたんだよ」

嫌な予感がして、武公は眉を顰める。

「本来であれば番の子は小さいうちからお役目の子と引き合わされて、互いがついの存在だと自覚するように育てられる。家が近ければ週に3日程度を一緒に過ごすし、遠ければお役目の家で預かるか引っ越してもらう。けれど渡したがらない親も当然居る。可愛い我が子を離したくない、未来を勝手に決められたくない……気持ちはわかるけれど、万一にも門が壊されれば被害は日本だけで収まるかどうかわからない。少しの間開いただけで2度の大飢饉で日本は壊滅状態だったんだ。しかも現代では陰陽師の数は当時よりも更に減少していて、門を建て直す事も難しいだろう。本格的に壊れたなら今度の被害はアジアまでか、それとももっと広範囲か……となればこちらとしては無理矢理にでも番の子を確保せざるを得ないんだよ。しかしそれを危惧した椿さんの両親は、彼女を監禁して支度金の吊り上げ交渉をした」

「監禁……だから家ではテレビばかりだと……」

母が言っていた『これからは色んなところに連れて行ってもらいなさい』という言葉の意味はこれだったのだと、武公の胸が詰まる。

「椿さんが6歳になって、義務教育だというのに学校にもやろうとしなかった事からそれを盾に彼女を助け出したんだけどね……」

「助け出すって……」

家の中で育てられたとはいえ、実の両親がついているのだ。

その言葉はあまりに大袈裟ではないかと武公が呟くと、橘は深い溜息を一つ落とす。

「武公くんは幼い子どもが6歳まで狭い部屋に監禁されるってことの意味をわかっているかな。それが心と身体の成長に著しい影響を与えるってことを。人の脳は6歳までに9割が完成すると言われていて、人格形成のためにはとても重要な時期なんだ。だからこそ色んなものに触れて、刺激を与えて、沢山の影響を受けるべき時期なんだよ。さらに身体機能も発達する時期だからしっかりと動くことも大切だよ。筋肉、心肺機能、骨、動くことで発達する器官も沢山ある。それを小さな部屋一つに閉じ込めれば、当然影響は大きい」

「つまり椿は……」

あの病的に白い肌や、か細い身体。

依存性が高く、幼いままの性格……その全てが彼女の育った環境に由来するということになる。

「それだけじゃない。彼女の両親は生かす事だけは考えていたから食事は与えたし、入浴などはさせていたけれど、ペット並みの扱いだったんだよ。彼女の足首を家具にロープで繋いで、外に出ないように……食事の栄養なんかにも考えが及ばなかったんだろう。それに躾も。彼女は全ての知識をただ一つ与えられていたテレビから学んだ。親は碌に家に居なかったらしいから、全てが独学だ。あの子は名前さえ呼ばれずに育った。親は“金ヅル”と呼んでいたのだそうだからね」

武公の脳裏に椿の言葉が蘇る。

『ここに来てから嬉しいことばっかり。名前で呼んでもらえるし、みんな優しい』と、その時はおかしな事を言うと思ったが、彼女は名前で呼んでもらったことのない子どもだったと考えれば意味も通る。

なんと寂しくて悲しい子なのか……


「保護された後は……」

「まともに生活が出来るようになるまでは国の施設で身柄を預かっていたよ。でもすぐに普通の生活とはいかなくてね。まずは身体のリハビリから始めた。食事内容の問題や日光不足によって骨がボロボロだったんだ。即通常の人と同じには動かせない。それが改善すると次は運動。極端に筋力が無いこともそうだけど、心肺機能も未発達だったから、歩いて学校に通うことも難しかった。彼女は3年かけてようやく小学校へ通うことが出来たんだ」

空白の6年間が彼女の身体に与えた損害は武公が考えていたよりずっと大きかった。

約10年が経過した今でも彼女の身体は同世代の少女達より細く、弱々しい……恐らく発達に何らかの問題があるのだろう。

「けれどテレビで情報を受け取ることしかしてこなかった彼女は、自分の言葉で情報を伝えるのが苦手だった。学校の勉強も人より遅れていたし、何より共同生活が初めてで戸惑いが大きかったようだね。話し掛けられても即答出来ずにいるうちに、自分からコミュニケーションを取るのが難しくなっていったようだ」

確かに椿は高校でも人から話し掛けられるのを待つような素振りを見せていた。人付き合いの不器用なのも育ってきた環境によるものらしい。

今日1日武公は彼女から何かしらの事を聞き出そうと色々訊ねていたわけだが、そういう思惑でもなければあんなにも根気よく会話に付き合ったりはしないだろう。

ましてや小学生という年齢では、ゆっくりとした彼女のテンポに合わせた会話は難しかったに違いない。

なかなか自由にならない身体と、勉強での遅れを取り戻そうと努力し、更に上手く行かない人間関係……どれほど椿は苦しんだのだろう。

武公はその苦しみを思うだけで胸が苦しくなる。

その状況を生んだのが自分の家の事情だと思えば尚更だ。

橘は努めて淡々と続きを話した。

全てを話すことが自らの職務であると思うが故だ。

50代になろうとする自分にとって、高校生という彼らはまだまだ子どもだ。

なのに重い役目を負わせようというのだから、せめて彼らが望むことはなるべく叶えてやりたかった。

知りたがるであろう全ての知識も出来る限り授けてやりたい。

「生活が落ち着いてからは、事情を知る剣家の親類の家で番としての教育を少しずつ進めた。身体も心も成長に追い付かない中で、それでも彼女は番としての教育にもどうにか食らいついた。それだけの努力を支えたのは……武公くん、君の存在だよ」

「俺が?」

「そう。自分の運命の人が待っている。自分を必要として、居場所をくれる人が居る。それだけがずっと彼女の支えだったんだ」

これで武公にも合点がいった。

最初に剣家に住むと言われた時、武公は年頃の男女が同じ家に住むなどけしからん、同居は良くないと騒ぎ、彼女を泣かせてしまった。

それはそうだろう、これまでの辛い境遇に耐えられたのは受け入れてくれる場所があると信じていたからなのだ。

それがいきなりの全否定をされたのだ、さぞかし悲しく苦しかったことだろう。

「俺は……なんてことを……」

「彼女が初日に泣いたという報告は受けているよ。武公くんに事情を知らせていなかったこちらが悪かったんだ。君たちには申し訳ない事をしたね。けれど番の事もお役目の事も、恐らく実際に見なければ信じられないだろうと思ったんだよ」

目の前で見て、荒魂をこの手に掛けて……それでも今尚信じられない思いなのだから、聞いただけでは受け入れられなかったのは事実だと武公は思う。

けれど椿の気持ちを考えると、どうしても悔やむ思いが強い。

「神域の中では思いが、絆が力になる。だからこそ彼女の高い依存性、絶対的信頼は強い力を生むと思う。本来であれば君たちも小さいうちからパートナーとして育てられていたはずなんだけれど彼女の事情によって全てが狂ってしまった。受け入れ難いのは承知の上で、君達には役目を継いでもらいたい」

大人、しかも立場のある人間から深々と頭を下げられる経験などない。

武公はそのつむじを眺めながら、戸惑った。

将来の夢や希望は持っていない……このままこの申し出を受ければ公務員の職は保証されて、ある意味安泰だ。

恐らくは椿もそれを望んでいる。

その上断ったとしてもこの役割を果たせる人間は限られており、やらざるを得ないのが現状。

どのみち選択の余地など無いのだ。

「狡い話だ……」

「そうだね。私もそう思うよ……けれどあの門を無くす方法が見つからない限りは、やらなければいけない事なんだ」

世界を守るヒーローなんてものに憧れたのは遠い昔、それこそ幼稚園児くらいのこと。

今更そんな事を言われるとは思いもよらなかった。

子どもとは言い切れない年齢になってしまえば、世界の命運というものは人が背負うにはあまりにも重い。

「門自体を無くそうという努力は……しているのですか」

「科学と超科学と、両側面から続けてはいるけど……正直終わりはまだ見えない。影見さんのお孫さんである龍也たつやくんも別方向で動いてくれているけれど……」

「その人が影見のお役目ですか?」

「いや、弟の虎太郎くんがお役目なのだけど……その辺りの事は後日次期お役目の皆と顔合わせの席を設けよう」

言い切るとほぼ同時に襖が開いて椿が茶を運んできた。

茶菓子を探すのに手間取ったのだそうで、ようやく見つけた煎餅を自慢気に差し出す。

「ありがとう、お陰様で足の痺れが落ち着いたよ」

橘に感謝の言葉を言われると、彼女はぱっと顔を綻ばせる。

役に立つ、必要とされる、それが存在意義だと彼女は思っているようだ。

武公はそれが哀れでならなかった。

「武公、何か悲しいの? どこか痛いの?」

気付くと椿が隣りに座って彼の顔を覗き込んでいた。

沢山の傷を抱えて、ただ武公だけを信じ求めて進んできた少女……この子をどうしてやるのが彼女にとって一番幸せなのか、彼にはわからなかった。

番の役目がなければ彼女はきっとここには居られない。

けれど番として働くならば武公が負う傷を椿が肩代わりすることになる。

そもそも彼が運命の相手だというのだって生まれついてしまっただけで、椿自身が望んだことではない。

過酷な環境に置かれたことによって刷り込みのように確定してしまった事で、実際に一緒に暮らせば思うようでない事も多々有るのではないだろうか。

武公自身も彼女をどう思っているのかよくわからない。

気の毒だ哀れだという気持ちが強くて、生涯連れ添う番だと言われても正直実感はない。

色恋に疎い彼であっても、生涯の連れ合いという事がどういう事かは理解している。

つまりは彼女と子をなして、所帯を持つということだ。となれば勿論夜の営み的な事も……

「武公?」

気付けば白くて小さな顔が間近まで迫っていた。

薄紅の唇から漏れる吐息が掛かるのではないかと思う距離感に武公は奇声を上げて飛び上がる。

「きひゃあぁぁっ!!?」

「え……えぇぇっ!?」

急な動きに驚いた椿の見守る中、武公は奇声と共にぴょいと飛び上がってそのまま思い切り尻もちをついた。

情けないが、不埒な妄想がちらついていたのを見透かされたような気がして頬が燃える。

「い……いや、何でも無いんだ。気にしないでくれ」

どうやっても気にしないでは居られないような動きであったことは重々承知の上で武公は誤魔化そうと必死だ。

「顔、真っ赤。熱があるんじゃ……」

にじり寄った椿が手を彼の額に伸ばすと、武公はその手首を掴んだ。

想像以上の細さにぞっとする。

こんな華奢な女の子が自分の痛みを肩代わりするというのか……

「武公?」

名前を呼ばれてはっとする。

いきなり掴まれたりしたら驚いただろうと、慌てて手を離した。

「すまん、大丈夫だ。本当に何ともないから、椿は何も心配するな」

そのやり取りを見ていた橘はわざとらしく音を立てて茶を啜る。

「そうそう、大事なことを良い忘れてた。2人は今夜開眼した。つまり御魂を視る目が開いたわけなんだけど、一度開いちゃうとずっと視えるようになります。だけど昼間の御魂は何も危害を加えるような力はないので、もし見つけても手を出さないこと。下手に刺激したほうが危険な場合があるからね。君達の役割はこの神社内にある門を守ることだけ。それ以外は放っておいて構いません」

武公は椿と顔を見合わせる。

あんな大きくて不気味な化物がいるのを見て見ぬふりしろとは、難しいのではないだろうか。

「それは、境内以外で会っても放っておけって事ですか?」

「そう。今までだって見えてなかっただけで居たんだよ。だから普通に過ごして下さい。昼間は小さくなってるはずだから無視しやすいよ。それに、全ての荒魂が危害を与える程強いものってわけでもないから、こちらとしては門に害がなければ構わないんだ。むしろ無駄ないさかいで君達に損害が出るほうが困る」

損害という言葉に引っ掛かりを覚えるのは、自分達が道具のように感じられるからだ。

「まあ、君達に関して自由を阻害しているという自覚は我々にも有るよ。しかしそこは公共の福祉の名の下に働いてもらうしか無い。だからこそ待遇面ではなるべく便宜を図るから」

要は多数の国民の生命を守るためにやむを得ないということなのだが、そろそろ武公の脳みそは許容量オーバーである。

公共の福祉とは何だったか? という疑問が頭の中に駆け巡る。

「とにかく見えても関わるなということですね」

「そう。ただし相手に敵意が有りそうなら逃げなさい。極力無駄な戦闘は避けてね」

無駄に戦えば傷を負うリスクも増える。武公が神域内で傷を負えば、ダメージは椿へ行く。

彼女のためにも危険なことは避けるべきだと、武公は深く頷いた。

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