開眼の儀
風呂を出ると、着替えとして
武公はそれをすいすいと着付けた。
子どもの頃から剣術指導の際には着るようにと言われていたので、手慣れたものだ。
父も同様に着替え、境内へと戻る。
神職の他に、スーツ姿にメガネの50絡みの男が立っていた。
どこかくたびれたような力の抜け加減で、胡散臭い年寄りぶった神職とセットで置いておくとやけにしっくりと来る。
その背景もまたうらぶれた神社だからかも知れないと、武公は思った。
そのくたびれたメガネの男は武公と父を見付けると、ぺこりと頭を下げる。
「剣さん、ご無沙汰しております。そちらが後継者の武公さんで間違いありませんね」
「橘さん、ご足労おかけします。愚息ではありますが、これからよろしくお願いしますね」
どうにも雰囲気が厳めしい。
武公が戸惑うと、影見神職がすすっと近付いてきた。
「あちらは宮内庁の橘さん。我々の担当じゃから、これからお世話になるぞい」
我々……剣家と
武公の母と椿が
「椿さん。もう剣さんの家には慣れましたか?」
橘がにこやかに話しかけ、椿はおどおどとしながら微笑んだ。
「とても良くしてもらってます。お料理はまだ苦手ですけど……」
「それは良かった。学校はどうですか?」
「授業にはついていけそうです。お友達はまだ……」
どうやら椿は自分より事情通らしいということがわかり、武公は多少複雑な気持ちを感じる。
視線を感じたのか、橘は武公の前に進み出て名刺を差し出した。
「宮内庁
「よ……よろしくお願い申し上げまする……」
緊張のあまり言葉が怪しくなると、母親が武公の背中をバシバシと引っ叩く。
「なぁに緊張してんの。橘さんとはこれから長い付き合いになるんだから」
豪快に笑う母の横で、背中の痛みに耐えながら武公は両親が公務員であると言っていたのが嘘ではなかったのだということを確信して、少しだけホッとした。
てっきり怪しげな何か後ろ暗い職業なのではないかと訝しんでいたからだ。
大人達が何かを話している間、椿は緊張を解すためか大きく深呼吸をしている。武公はそれを見て、不思議な気分だった。
自分より家族の事情を知っているような女子、しかも本人にも何らかの家庭の事情がありそうで、自らを許嫁だと認めている……自分だけが蚊帳の外だ。
しかしそこに苛立ちをぶつけるには、彼女はあまりにも儚い。
最初に年若い男女の同居などふしだらだと責めた時に泣いたのは、家庭の事情から帰るところが無いからかもしれない。
ならば彼女を責めるのは行き場を奪うことになるのではないか……
何だか現実感のないこの状況で、武公はどうにか平静を保とうとした。
「武公」
父に呼ばれて近寄ると、臍の下辺りに手を当てられる。
「忘れるな、丹田に力を溜めろ。お前の刀は常に心にある」
それはいつも指導の際に父が口にしていた言葉だ。
「振るう時にはその手に在るものだ」
巫山戯ているわけでないことは、その様子ですぐにわかる。
その言葉がおそらく今から始まる何かに於いて、重要な事であるということも。
「それが……必要な事なんだな」
「そうだ。絶対に忘れるな」
武公が首を縦に振ると、橘が声を上げた。
「そろそろ始めて良いですか?」
何かは武公にはわからなかったが、大人達は拝殿を背に立ち、境内の開けた場所に椿と武公が向かい合わせに立てと促された。
「左手の掌を私に向けて」
「こうで良いのか?」
武公が左掌を椿に出すと、彼女はそこに自らの右手を重ねる。
丁度手の大きさを比べるような様子で、その小ささに彼はどきまぎする。
「武公、左手に集中しな!」
母の声がそう言うが、何も言われずとも集中してしまう。
重ねられた手の小ささに、指の細さに……
椿はそっと瞳を閉じると、朗々と祝詞を唱える。
「掛けまくも
武公は合わせた掌から体温ではない温かさを感じて左手を見た。
「なんだこれ!?」
合わせた掌の間から陽光に似た光が溢れている。
反射的に手を離そうとすると、椿は瞳を大きく開いて叫んだ。
「神域、開放」
途端、光は傘のように膨らみ、広がり境内を超えてその先まで包む。
広がるにつれて眩さが落ち着いて、代わりに視界が不思議なほどにはっきりと広がる。
「これは……」
「出来た……武公、出来た!!」
立ち竦んだ武公の胸に、ぴょんと跳ねるように椿が飛び込む。
「ぬあっ!?」
「ちゃんと出来た! 私、ちゃんと
嬉しそうに抱きついて、武公の胸の上あたりの高さから無邪気な瞳で見上げてくる。
女子特有の身体の柔らかさと、湯浴みからまだ時が経っていない香りとが、慣れない武公を悩ませる。
沸騰しそうな脳味噌と、破裂しそうな心音の中で、彼は声を張り上げた。
「わ……わかった! わからんけどわかったからとりあえず離れて……」
「これでここに居て良いの!」
酷く無邪気にはしゃぐ彼女の言葉に、武公の熱は一気に冷める。
先程のが何かはわからないが、もしかしたら椿はこのために連れてこられたのではないか、これが失敗していたら問題がある実家に戻されるところだったのでは……だからこそこんなに喜んでいるのではないだろうか……脳筋とはいえ精一杯の推理で考えた。
となると年頃の女子がまるで子どものようにはしゃいで、我を忘れて男に抱きつくのも、余程実家が辛かったのではないか……思えば思う程、彼女に情が湧く。
学校の女子とはあまりにも違う幼い振る舞い、弱々しい身体つき……彼女のことを知りたい、助けてやりたいと思った。
色恋などと同じかはわからないが、それでも武公の中に何かしらの想いが生まれたのは違いない。
「武公、ここからはお前の出番だ」
父の鋭い声が飛び、反射的に武公は椿を背に庇う。
既に彼の中では彼女は守るべき存在だと認識されていた。
危険が近くに在る……頭の隅がチリチリと痺れるような感覚で、武公は何らかの気配を感じる。
すぅと息を吸って臍の下に力を溜めると、感覚が澄む。
研ぎ澄ました感覚を針のように細く細く、知覚の限界まで張り巡らせる。
それが普段よりずっと遠くまで届く気がして、武公は不思議に思う。
もしかしたらこれが先程椿の見せた力の影響なのかも知れないと。
その感覚の切っ先に、何かが触れる。
悪意に似た何かを感じて視線を移すと……二の鳥居の外にそれは居た。
「なんだ……あれ……」
彼はそれを表す言葉を知らなかった。
コールタールのような黒くどろりとした半流体のものが人の背丈程まで立ち上がっている。
そこには無数の目玉がギョロギョロと動いていた。
「
背中から椿の声がする。
どうやら彼女はあれについても知識があるようだが、武公の耳に届く声は小さく震えて怯えているように思えた。
ずるり……ずる……と体を引きずるようにして化物が鳥居に近付く。
武公がちらりと父の姿を確認すると、彼は化物の方を見ている。
どうやら父だけでなくそこに居る大人達にも見えているものらしい。
慌てる様子もないことから、彼らもあれが何かを知っているのだと思った。
やがて化物が鳥居の手前に辿り着くと、それが鳥居をくぐるよりも先にバチッと大きな音がして、閃光が走った。
化物はぐねぐねと身をくねらせて苦しげにのたうったが、やがて徐々にその体が小さくなってゆく。
ナメクジに塩をかけた時のように萎んで……最後は溶けて消えた。
「あの程度ならば何とも無いんじゃが……やはり弱っとるのは否めんな」
影見老人がゆったりと言うと、武公の父がふむと顎をさする。
「そこは剣家と身玉家で支えますので」
「すまんのう」
橘はメガネの奥の目を伏せて、物思う様子を見せた。
「仕方ありません。お二人も虎太郎くんと龍也くんの成長を見届けられず、さぞや無念であったことでしょう……」
しょぼんと肩を落とす老人は
現実感のない光景に驚き、困惑しているのは武公と椿のみで、大人達は殆ど井戸端会議状態だ。
「親父、これは……」
武公が訊ねようとすると、先程とは比べ物にならない重い気配がする。
「来るぞ」
父の言葉に鳥居の上を見れば、また違った形の化け物が居る。
「あれもアラミタマ……ってやつか?」
「多分……」
椿と武公が戸惑いながら見上げると、バチバチと閃光に体を削られながらそれは降りてきた。
人の背丈程もある大きな蛾のような気味の悪い姿……羽根の模様に見えた目玉は四方八方にギョロギョロ動き回り、醜く肥った胴体はボコボコと内側から何かに突き上げられるように隆起しては陥没を繰り返す。
そこに付いた脚は百足のように無数に蠢いていた。
「ひ……っ!」
椿が不気味さに息を呑むと、武公の注意が束の間逸れた。
すると化物からわしゃわしゃと生えた脚がぐんと伸びてこちらに迫る。
「うわぁっ!? なんだ、これ……」
怯える椿を庇って武公が身を捩ると、化物の脚が右の頬を掠めた。
一瞬走るチリっとした裂傷の痛みに目を細めるが、そこに父の檄が飛ぶ。
「武公! お前の刀は何処に在る?」
武公ははっと息を呑み、父の言葉を思い出した。
『忘れるな、ここに力を溜めろ。お前の刀は常に心にある』『振るう時にはその手に在るものだ』
真意はわからない。
彼の手に武器は無いのだから……しかし父はいつも行き当たりばったりでも、意味のない事は言わないはずだ。
ならば……
「心に……そしてこの手に!」
直感だった。
自らの心の中に刀が在るのなら、手を使えば使えるのではないか。
普段の鍛錬のように握り込めば振るえるのではないか……
ぐっと手を握る……
「それだけじゃダメだって!!」
母のけろっとした脳天気な声と共に、荒魂の脚で武公は放り出される。
地面に叩きつけられたもののすぐさま立ち上がると、背に庇っていたはずの椿と引き離されていた。
「椿!」
彼女は地面に小さく蹲り身動きしない。このままでは今にも化物の餌食になりそうだ。
「武公、神域開放の光を思い出せ。あの光がそのままお前の刀になるのをイメージするんだ」
父からの声は聞こえるが、立ち止まる暇すら惜しい。
不思議に身体の痛みがないのは、興奮状態だからかも知れなかった。
武器もない、対処法もわからない……けれど蹲る彼女に、きっと何かの傷を抱えてきたであろう椿にこれ以上悲しい思いはさせたくない。
武公は体当たりをする覚悟で突進するが、間に合いそうにない。
化物の脚が椿に掛かろうとしたその時―――蹲った椿の胸元が眩く光る。
それは先程の祝詞の直後に広がったあの光によく似ていた。
荒魂はどうやらその光を怖れているようで、じりじりと後退する。
「構えろ、武公!」
椿から化物が離れたその隙に武公は剣を握る
「集中しろ、あの光を思い出せ」
武公は自らの手に、陽光に似て苛烈でありながらも暖かな熱の感覚を追う。
椿の小さな手との間に宿ったあの時の力を。
一方で父の言葉を反芻する……刃は心に、振るう手の中に……
守るべき存在が目の前に居る。
危険を感じさせるモノが劫かそうとしている。
斬らねば、傷付けられる……
斬らねば、奪われる……
「やぁぁあああああああ!!」
武公の喉から気合の声が迸ると、構えた手の中に熱が宿った。
持ち慣れた重さの刀がそこにある。
武公は迷わず一気に踏み込んだ。
身体が軽い……軽いのに、踏み込む足の力はいつもよりずっと重い。
荒魂の胴を薙ぐと、ずくりとした質感を刀身越しに感じた。
生き物の質感にぞくりと気味の悪さが下腹を掠める。
躊躇うな、躊躇えばやられる……!!
「うぉあああああああ!!」
気合いの声と共にそのまま一気に薙ぎ払う。
荒魂の咆哮が響き渡った。
悲鳴のようにも、破裂音のようにも聞こえる耳障りな声を上げて……それは真っ二つに分かれて、地に伏せる。
しかしそれも
武公はがくりと膝をついて、刀を放す。手から離れた途端にそれは霞のように消えてゆく。
木刀も模擬刀も振るってはいても、生き物らしきものを斬ったのは初めてだ。
小刻みに震える手が、あのずくりとした感触を忘れてくれない。
刀越しの重く、湿った感覚が手に余る。
「つばき……椿は無事か……?」
彼は恐ろしかった。
荒魂という化物自体もそうだが、それを斬った感触も、自分が殺したという実感も。
せめて自らが守ったものを、手を汚した理由を確認して納得したかったのだ。
この行いが正当であり、やむを得ない事だったと。
「武公……」
よろよろと立ち上がった椿は、彼の名を呼びながらこちらに歩を進めた。
「怪我はないか」
「平気」
椿は武公の前に同じように膝をつく。
向かいあった彼女の右の頬に一筋の傷を見付け、武公は自分も同じ場所を切られた筈だと思い出す。
しかし今、彼の頬に痛みはない。
触れても血の痕跡すら無い。
「これ……」
武公は彼女の頬に震える手を伸ばした。
椿はその手に自らの手を重ねて、微笑んで言った。
「大丈夫、武公は私が守るから」
瞬間、武公はぞっと背筋を凍らせる。
無くなった頬の傷は、今彼女の右頬にある。
荒魂の脚に蹴り飛ばされてかなりの距離吹っ飛ばされたというのに痛みのない自分と、彼の背に守られてその場に留まっていたはずなのに、気付けば蹲っていた彼女。
守ったのは武公の筈なのに、彼女は彼を守ると言った。
「どういう……ことだ?」
その意味は明らかな気がしている。
しかし認めたくはない……
「それがお役目と番の関係だ」
父の言葉が無情に響く……それはつまり……
「剣は刃を振るう。
それが身体がやけに軽かった、そしていつもよりずっと力を込められた理由。
しかし……
「それだけじゃねぇだろ……」
それだけでは自分の体に傷のない状態も、彼が本来負っていた筈の場所に椿が怪我をしている理由にも説明がつかない。
「
彼女は当たり前のように微笑んだ。
「なんで……なんで笑えるんだ。剣のお役目とか番とか、わけのわからない事に付き合って痛い目にあって! なんで笑うんだよ」
普通の女子高生ならば今日見せたような笑顔で街を歩いて、痛い目にも怖い思いもせずに居られるはずなのに。
当事者であるはずの武公でさえ受け入れ難い化物と対峙し、自分のせいでもない痛みを押し付けられて……
「私……番でなければ価値がないの。番だったから、金ヅルだから育ててもらえたの」
「は……?」
あまりにも彼女にそぐわない単語に、武公は言葉を失った。
「番だからここに置いてもらえて、優しくしてもらえたの」
幸せそうに微笑む彼女の言葉は、武公の頭の上を通り過ぎる。
彼が呆然としゃがみ込むと、ぽんと肩に温かな重みが加わった。
「開眼の式は終わりました。宮内庁は彼らを次代の剣とその番として承認します」
橘がいつの間にか近くにいて、大人達に宣言した。
「武公くん、椿さん、これから少し私から事情をご説明します。拝殿の中にどうぞ」
酷い倦怠感と、理由の知れない喪失感が武公の体を重くする。
椿が彼の手を引いた。
「武公……どこか辛いの?」
どう考えてもつらいのは彼女のはず……武公は自分の無知に嫌気が差した。
何も知らず、彼女を守ってやりたいなどと……結局その無知によって傷を負わせてしまったのだ。
「全部……教えてくれ。何がどうなっているのか」
知らなければならない。
自分のしたことが何なのか、彼女が何故このような無体を当然のものとして受け入れるのか……武公はそれらを得るために重い身体を引きずって橘と椿の後に続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます